第10話 運命の赤い糸
カイル・バルトレイの戴冠式から一ヶ月が過ぎ、バルトス王国は徐々に安定を取り戻していた。不当な懲罰や重税が廃止され、薬草の規制も緩和された。人々の表情に、少しずつ笑顔が戻ってきている。
王宮の薬草園で働く私の姿を見て、人々は「薬師の王妃」と呼ぶようになった。私はレオン薬師と共に、王宮内に「王立薬学院」を設立する準備を進めていた。
「こうして前世の知識を今世で活かせるとは、まさに運命ですね」レオンは感慨深げに言った。
「ええ。今度は薬が命を救うためだけに使われるよう、正しい知識を広めていきたいの」
私が描くのは、薬師たちが自由に研究し、その叡智を国民の健康のために使える国。前世ではエリーナ・アールとして完成させられなかった夢だ。
カイルも国の再建に奔走していた。レイモンドの罪を裁きつつも、不必要な粛清は避け、和解と再建を優先する姿勢は国民からの支持を得ていた。
その夜、私とカイルは久しぶりに二人で夕食を取ることができた。王宮の小さな食堂で、外部の者を入れず、二人だけの時間を楽しむ。
「ミーナ、王立薬学院の計画は順調か?」カイルはワインを注ぎながら尋ねた。
「ええ、建物の設計図も完成したわ。来年の春には開校できるでしょう」
「素晴らしい」彼は嬉しそうに頷いた。「君の夢が形になっていくのを見るのは幸せだ」
私は彼の優しい瞳を見つめた。王としての重責を担いながらも、私の夢を支え続けてくれる。そんな彼に、今日は特別な報告がある。
「カイル、実は…」少し緊張しながら言いかけた時、突然の物音が聞こえた。
「何だ?」カイルが立ち上がる。
扉が勢いよく開き、マーカスが慌てた様子で入ってきた。
「陛下、緊急事態です!隣国との国境で騒乱が起きました。エドガー・フォーレスが亡命兵を率いて国境の村を襲撃したとの報告が…」
カイルの表情が一変する。「エドガー・フォーレスだと?彼は隣国で捕らえられていたはずだが」
「どうやら脱走し、レイモンド前国王の残党と合流したようです」
「直ちに対応せねば」カイルは私に申し訳なさそうに振り返った。「ミーナ、話の続きは…」
「大丈夫よ」私は彼の手を握った。「国事が優先。後で話しましょう」
彼は感謝の表情を浮かべ、マーカスと共に急ぎ足で出ていった。
私は窓辺に立ち、月を見上げる。エドガー・フォーレス——前世でも今世でも、私たちの敵となる男。彼との因縁もまた、完全には断ち切れていないようだ。
***
翌朝、カイルは既に国境へ向かう準備を進めていた。
「数日で戻れるはずだ」彼は出発前に私に言った。「小規模な反乱だと思われる。民を不必要に恐れさせたくない」
「気をつけて」私は彼の鎧の紐を直しながら言った。「あなたが戻るまで、王宮は守っておくわ」
「ミーナ」彼は私の頬に手を当てた。「昨夜、何か話そうとしていたな?」
「ええ、でも…あなたが無事に戻った時に話しましょう」私は微笑んだ。「それまでの楽しみよ」
カイルは少し不満そうな表情を見せたが、理解を示してくれた。彼は私にキスをし、親衛隊と共に王宮を後にした。
彼の姿が見えなくなった後も、私は長く城壁の上に立っていた。不安な気持ちが消えなかった。エドガー・フォーレスという名前が、前世の痛ましい記憶を呼び覚ます。
《血に染まった戦場。裏切りの瞬間。届かなかった薬。絶望と共に命を落とした記憶》
「お嬢様、大丈夫ですか?」メリッサが心配そうに声をかけてくる。
「ありがとう、大丈夫よ」そう言いながらも、胸に広がる不安は拭えなかった。
数日後、事態は思いがけない方向に発展した。エドガーの襲撃は単なる陽動で、彼の本当の目的は別にあった。それが判明したのは、王宮への襲撃が始まった時だった。
「敵襲!王宮に敵が侵入しました!」
警鐘が鳴り響く中、私はレオン薬師と共に王宮の地下室へと避難した。そこは有事の際の指揮所として機能する場所だ。
「彼らの目的は何なの?」
「おそらく、王不在の間に王宮を乗っ取り、人質を取る作戦でしょう」レオンは静かに言った。「そして…おそらく、あなたも標的の一人かと」
「私?」
「前世からの恨みを持つエドガーにとって、あなたは格好の標的です」
その言葉に、胸が冷たくなる。前世でエドガーは私を殺し、カイルにも死をもたらした。今世でも同じ悲劇を繰り返そうとしているのか。
「守備の状況はどうなっている?」私は冷静さを取り戻そうと努めた。
「王宮の衛兵は持ちこたえていますが、襲撃者はよく組織されており、中に内通者がいる可能性も…」
その時、地下室の扉が開き、幼い少女が駆け込んできた。王宮で働く使用人の娘だ。
「お妃様!お妃様!」少女は泣きながら叫んだ。「お母さんが捕まってしまいました!」
私は少女を抱きしめ、落ち着かせようとした。「大丈夫、きっと助けるわ。どこで捕まったの?」
「東の塔で…黒い服の怖い人たちが…」
東の塔——薬草庫がある場所だ。突如として、全ての点が繋がった。
「彼らの目的は薬草庫よ」私は立ち上がった。「前世の調合記録と秘薬の材料が保管されている場所。エドガーはそれを狙っているの」
「しかし、そこへ行くのは危険です!」レオンが止めようとする。
「でも放っておけない」私は決意を固めた。「あの薬草が悪用されれば、多くの命が危険に晒される。それに…」少女を見つめる。「人質になっている人たちを救わなければ」
本当に救えるのか、不安がよぎる。だが、前世のエリーナ・アールは「死の調合師」と恐れられる一方で、多くの命を救ってきた。その知恵と勇気は、今の私の中にもある。
「レオン、私に手伝ってほしいことがあるわ」
***
薬草庫への隠し通路を通り、私は東の塔へと向かった。レオンは別の道から衛兵たちに状況を伝えに行った。
特殊な睡眠ガスの入った小瓶を握りしめ、私は静かに薬草庫の扉に近づいた。中からは声が聞こえる。
「急げ!必要な材料を全て集めろ。特に『黄金霊薬』の材料だ」
その声は間違いなくエドガー・フォーレスのもの。前世でも今世でも、欲望に駆られた冷酷な声。
扉の隙間から中を覗くと、数人の兵士が薬草棚を荒らし、材料を袋に詰めていた。隅には数人の使用人が縛られていた。エドガーは高価な材料を手に取り、嬉しそうに眺めている。
「これさえあれば、レイモンドの失敗を繰り返すことはない。黄金霊薬を手に入れ、真の力を得るのだ」
彼の野望は果てしない。そして今、私の前世の知識を悪用しようとしている。許すわけにはいかない。
深呼吸をして、そっと扉を開き、小瓶を投げ込んだ。割れた瓶から青い煙が立ち上り、部屋中に広がる。
「何だ!?」エドガーが叫ぶ声。「罠だ!全員、マスクを…」
言葉の続きは聞こえなかった。睡眠ガスの効果は即効性があり、数秒のうちに部屋の中は静まり返った。
私は自分用の解毒剤を飲み、マスクをつけて中に入った。エドガーと兵士たちは床に倒れ伏していた。急いで人質となっていた使用人たちを解放し、扉の外へ導く。
「皆さん、無事ですか?」
彼らは恐怖で震えながらも、無事だと頷いた。
「急いで地下室へ向かって。すぐに衛兵が来るわ」
使用人たちを送り出した後、私は薬草庫に戻った。荒らされた棚を見て胸が痛む。前世から受け継いだ知識と材料は、命を救うためのもの。それを悪用されるわけにはいかない。
床に倒れたエドガーを見下ろすと、彼の手には「天使の涙」という最も希少な薬草が握られていた。黄金霊薬の重要な材料だ。
「あなたには、この薬草の真の価値はわからないでしょうね」
私がそう呟いた時、突然エドガーの目が開いた。解毒剤を持っていたのか、あるいは私の予想以上に耐性があったのか。
「お前…!」
彼は素早く立ち上がり、私の喉元に短剣を突きつけた。
「前世でも今世でも、お前は私の邪魔をする」エドガーの目は狂気に満ちていた。「エリーナ・アール、いや、ミーナ・アルケミア。お前の命はここで終わる」
彼の剣が迫る瞬間、扉が勢いよく開いた。
「ミーナ!」
カイルの声だった。彼は予定より早く戻ってきたのだ。エドガーは一瞬驚き、私から剣を離した。その隙に、私は彼から離れた。
「カイル…!」
「お前もか」エドガーは憎悪の眼差しでカイルを見た。「前世でも今世でも、邪魔ばかりする」
カイルは剣を抜き、エドガーに向かって構えた。「前世の因縁は、ここで終わらせよう」
二人の間で剣の交わる音が響く。王と裏切り者の決闘。前世からの宿敵同士の戦い。
私は震える手で薬草棚から何かを探し始めた。二人の激しい戦いを横目に見ながら、迅速に材料を集め、小さな布袋に入れていく。
「何度生まれ変わっても、お前たちの絆を引き裂いてやる!」エドガーの狂気の叫び声。
「もうそれは叶わない」カイルは冷静に剣を交えながら言った。「私たちは運命の赤い糸で結ばれている。前世の因縁を乗り越え、新たな未来を築くのだ」
エドガーの攻撃が激しさを増す。カイルは冷静に対応するが、一瞬の隙をつかれ、肩に傷を負った。
「カイル!」思わず叫んだ声に、二人が一瞬動きを止める。
その隙に、私は調合した粉末を二人に向かって投げつけた。粉が空中で広がり、青い光を放つ。
「これは…」エドガーが混乱する。
「麻痺粉」私は静かに言った。「危険はないけれど、しばらく動けなくなるわ」
二人の動きが鈍くなる中、私はカイルの元へと駆け寄った。
「無茶をするな」カイルは私を見つめた。「だが、さすがは王の調合師だ」
彼の肩の傷から血が滴っている。私は素早く応急処置を施した。
「あなたこそ、何故こんなに早く戻ってきたの?」
「君を危険に晒すことはできないと感じた」彼は真剣な眼差しで言った。「それに…」
彼の言葉が途切れた時、エドガーが動きを取り戻し、最後の力を振り絞って短剣を投げつけてきた。
「死ね!」
刹那、カイルが私をかばおうと体を寄せた。しかし、短剣が飛ぶ軌道上に、突然赤い光が走った。
運命の赤い糸だ。私とカイルの小指から伸びる赤い光の糸が実体化し、短剣を弾き返したのだ。
「な、何だ、これは…」エドガーは恐怖に目を見開いた。
赤い糸は次第に強く輝き、部屋全体を赤い光で満たしていく。エドガーは光から逃れようと後ずさったが、糸は彼を取り囲み、徐々に締め付けていった。
「やめろ!私を離せ!」
彼の叫び声も空しく、赤い光はエドガーを包み込み、彼の体は徐々に透明になっていった。まるで、この世界から存在が消えていくかのように。
「これは…浄化」私は驚きの声を上げた。「運命の赤い糸が、前世からの因縁を断ち切っている」
「因縁の解消…」カイルもその光景に言葉を失っていた。
やがて光が消え、エドガーの姿はなく、床には一握りの灰だけが残っていた。前世から続いた恨みと怨念が、ついに解消された瞬間だった。
***
数時間後、王宮は再び安全を取り戻していた。エドガーの残党は捕らえられ、被害も最小限に抑えられた。
治療室でカイルの肩の手当てをしながら、私は東の塔での出来事を詳しく説明した。
「運命の赤い糸が実体化して敵を浄化するなんて…」カイルは不思議そうに言った。
「前世からの強い因縁があったからかもしれないわ」私は包帯を結びながら言った。「エドガーの怨念が前世から続き、それが運命の赤い糸に浄化されたの」
「これで全ての因縁が解消されたんだな」カイルは安堵の表情を浮かべた。「ミーナ、昨夜から話そうとしていたことを聞かせてくれないか」
その言葉に、私の心臓が高鳴る。彼の青い瞳をまっすぐ見つめ、静かに告げた。
「カイル、私たち…子供ができたの」
彼の表情が一瞬で輝き、驚きと喜びに満ちた。「本当か!?いつから?」
「薬術祭の頃から気づいていたの。でも確信が持てなくて…」
カイルは私を抱きしめた。「素晴らしい!前世では叶わなかった家族が、今世では形になる」
私も涙を流しながら彼を抱きしめる。前世では届けられなかった想い、作れなかった家族。今世では全てが報われるのだ。
「カイル、一つお願いがあるの」
「何でも言ってくれ」
「この子が生まれたら、王立薬学院を一緒に育てていきたい。多くの薬師たちが学び、命を救う技術を広めていく場所として」
カイルは優しく微笑んだ。「もちろんだ。君の志は王国の宝だ。子供たちにもその志を受け継いでもらおう」
窓から差し込む夕陽が私たちを包み込む。その光の中で、私たちの小指からは微かに赤い光が漏れていた。運命の赤い糸は、前世からの絆を今世に繋ぎ、さらに未来へと続いていく。
「前世では届けられなかった薬も、伝えられなかった想いも、子供たちにも託して、これからずっと」
私はそっとお腹に手を当て、新たな命の鼓動を感じながら、カイルと共に夕陽に染まる王宮を見つめた。
薬師と騎士の物語は、ここから新たな章を迎えるのだった。