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第1話 政略結婚の通知

「エドガー・フォーレス」——その名前を聞いた瞬間、見知らぬ憎しみが私の全身を駆け巡った。

裏切り者。嘘つき。その言葉が頭の中で響く。初めて聞くはずの名前なのに、なぜこれほどの嫌悪感を?


「お嬢様、フォーレス大公家からの婚約申し込みが正式に届きました。父上も承諾されるご意向です」


シャーロットが微笑みながら告げた言葉に、私の体温が一気に下がった。政略結婚の駒になる運命はとうに受け入れていたはずなのに、実際にその時が来ると、魂が拒絶反応を示す。そしてなぜか——見知らぬ記憶の中で、私は叫んでいた。


《彼の裏切りで、あの人は死んだ——》


それだけ言って、私は椅子の背に深く身を沈めた。窓から差し込む陽光が温かいのに、体の芯まで冷えていく。


私、ミーナ・アルケミアは辺境伯爵家の次女として生まれ、18年間、政略結婚の駒になることを覚悟して生きてきた。それでも、その瞬間が実際に訪れると心の準備などあるはずもなく、ただただ息が詰まるような感覚に襲われる。


「お嬢様、よろしいですか?」


「ああ、うん、悪いね。少し驚いただけよ」


取り繕うように微笑んだが、メイドのシャーロットの表情には心配の色が濃かった。彼女は幼い頃から私に仕えてくれている、数少ない理解者だ。


「大公家の令息様は……確か」


「エドガー・フォーレス様です。26歳で、王国軍の軍師を務められています」


「そう、エドガー・フォーレス」


その名前を口にすると、なぜだか頭の奥がキリキリと痛んだ。


《裏切り者、嘘つき、私の薬を……》


刹那、頭に浮かんだ声は私のものではないのに、確かに私自身の感情が込められていた。苦い記憶の断片が舌先に広がる。でも、私はエドガー・フォーレスと一度も会ったことはない。なぜこんな感情が?


「お嬢様?大丈夫ですか?顔色が悪いです」


シャーロットの声に我に返る。ここ数ヶ月、こうした不思議な感覚に襲われることが増えていた。誰かの記憶が、私の中にある。でも誰の?


「大丈夫よ、ありがとう。少し休むわ。それと……明日、城下町の薬草市に行きたいの。付き添ってくれるかしら?」


シャーロットは少し首を傾げたが、すぐに微笑んだ。「はい、喜んで」


***


その夜、私は奇妙な夢を見た。


血に染まった戦場。走る私の足は重く、手には小さな薬瓶が握られている。「間に合って!」と祈りながら丘を駆け上がると、そこには倒れた騎士の姿。漆黒の髪と深い青の瞳、顔は見えないのに懐かしい。


「遅かったな」


後ろから聞こえた冷たい声に振り返ると、エドガー・フォーレスと同じ金色の髪を持つ男が立っていた。彼の手には剣。そして——


「届けられなかったな、お前の薬は」


その言葉と共に、男の剣が閃いた。


その夜、ミーナ・アルケミアは汗に濡れた寝間着に身を包み、月明かりの下で震える手を見つめていた。彼女の脳裏に焼き付いた夢は、単なる悪夢ではなく、どこか懐かしく、そして痛ましい記憶の断片のように思えた。


辺境伯爵家の次女は、その夜初めて自分の運命に疑問を抱いた。政略結婚の駒として生きる道が本当に彼女のためのものなのか。そして、なぜ見知らぬ男の名前が、これほどまでに彼女の魂を揺さぶるのか。


明日の薬草市へ向かう決断は、彼女の人生における小さな反抗の始まりに過ぎなかった。だが、その一歩が、前世からの因縁と新たな運命の糸を紡ぎ始めることになるとは、まだ誰も知る由もなかった。


幼い頃から私には不思議な才能があった。一度見た薬草の調合方法を決して忘れず、それどころか見たこともない調合法が頭の中に浮かぶことさえある。両親や姉は「神の恵み」と言うが、私には自分のものではない知恵が宿っているようで、時々恐ろしくなる。


美しい姉アデリーナとは対照的に、私は地味な容姿だけれど、薬の調合だけは誰にも負けないという自負があった。


「お嬢様、準備が整いました」


シャーロットの声に我に返り、私は重い腰を上げた。鏡に映る自分は、いつもより青白く見える。婚約の重圧なのか、それとも昨夜見た奇妙な夢のせいか。


《戦場の煙、血の匂い、そして――届かなかった薬》


私は首を振って記憶の断片を払い除け、マントを羽織った。城下町の喧騒が、この不思議な感覚から私を解放してくれればいいのだけれど。


***


城下町は予想以上に賑わっていた。春の薬草市は年に一度の大イベントで、近隣の村からも多くの人が集まる。色とりどりの薬草が並び、その香りが混ざり合う空気は私をどこか懐かしい気持ちにさせた。


「見てください、お嬢様。珍しいアストラルーツですよ」


シャーロットが指差す先には、青みがかった根が束ねられていた。


「これは……」


手に取ると、記憶の扉が少し開いた。


《高熱に効く。でも単体では毒性がある。必ずリスタの花と一緒に》


「シャーロット、あそこのリスタの花も買いましょう」


夢中で薬草を選んでいると、突然人混みに押されて体勢を崩した。倒れそうになった私を支えたのは、冷たい金属の感触だった。


「大丈夫ですか、お嬢さん」


低い、しかし温かみのある声に顔を上げると、そこには王国の騎士服を着た男性が立っていた。深いブルーの瞳と、肩にかかる漆黒の髪。胸元には副団長の紋章。


まさに——昨夜の夢に出てきた騎士そのものだった。


息が止まるような衝撃に、私は声も出せずに彼を見つめた。


「あ、はい……ありがとうござ……」


言葉が途切れたのは、彼の右腕に巻かれた包帯に血が滲んでいるのに気づいたからだ。


「あなた、怪我をしているわ」


「これは訓練中の軽傷です。ご心配なく」


彼が微笑む。その表情にどこか見覚えがあった気がして、私の胸が締め付けられる。


「その傷、シャルスの葉とモンテリアの根を混ぜれば一晩で治るわ」


言葉が勝手に口から流れ出た。自分でも驚いた。シャルスの葉?モンテリアの根?それらの薬草を知っているという自覚はあったが、組み合わせて使うという知識はどこから?


「それは……驚きました。宮廷薬剤師でもめったに知らない調合法ですが」


彼の青い瞳が驚きに見開かれる。そして、彼の視線があまりに真剣だったので、私はつい言った。


「調合してあげましょうか?」

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