第九十二話 リトルウォルフガング
浪岡為信、リレイは魁世から南奧州での住処、当分の生活資金を得、魁世の選んだ医師と助産師相当の者も用意されていた。
「そうして生まれたと。いやー良かった良かった」
乳母車の中で獣の耳を持った乳児が気持ちよさそうに寝息を立てている。魁世は手を伸ばそうとして、止めた。
「…さわらない方がいいか」
「おいニイロ、頼みたいことがある」
為信の言葉遣いは変わらない、だが声音はいささか違った。
「この子を、お前の元で育ててくれ」
言葉の意味を魁世は図りかねた。為信は魁世の返答を待たない。
「以前ニイノの云った通り、俺とリレイは西側の国々で何者かによって命を狙われた。誰が、何のつもりか」
おそらくだがリレイの出自に関することだろう。“昆虫大王”ことドラクル公四騎士を為信ふぁ討ち取る最中、為信は妙な話を聞いた。
ある日突然攻め滅ぼされた種族。狼人族。
また魁世は群蒼会で分かっていることを為信に話していた。
ドミトリーズ世界政府のこと、異世界合同委員会のこと。
そして犬狼耳のリレイを狙う者達、為信には点と点が繋がったようにみえた。
「…俺とニイロの持つ情報を重ね合わせれば、異世界合同委員会という俺よりも先にこの世界に来た異界人の勢力が、その戦闘力を恐れたのか、どういう訳かはっきりしないが、兎にも角にも狼人族の命を狙っている。俺は家族が命を狙われているのに黙っていられる程鈍感では無い」
為信とリレイさんのやりたいことは分かる。我が子の将来の敵を除いておきたい、現時点で自分たちが命を狙われている以上、きっと自分たちより長く生きる我が子に物心ついた時から命を狙われる環境なのが許せない……
「わかった。恐らく辿っていけば、異世界委員会の先輩方に行き着くだろうし、僕らと敵は同じ。利害は一致している」
魁世は寝台に腰掛け、乳母車の中の乳児をじっと見つめているリレイを傍見る。
「きっとこの決断は相当考えた上のことだろうから、こちらからどうこう言うつもりは無い。ただ一つだけ覚えていてくれ。僕がこの子を預かるのは何も為信たちと共通の敵がいるからでも、恩が売れるからでも無い、為信が元の世界からの友だちだからだ」
「はっ!ニイロのくせに何言ってんだ」
「もしも戦力が不足なら迷わず頼ってくれ、むしろ定期的に帰ってきて最新の情報を共有したい」
「俺たちは工作員、といったところか。養育の手間賃としては十分だな」
「そう卑屈になるな……必ず帰ってこい。それがこの子を代わりに育てる条件だ」
もっとも為信はこれを今生の別れにする気はさらさら無かった。
決断が鈍らないように、為信とリレイは今からここを発つという。ふとリレイは魁世に近づいて短く会釈をする。魁世はそれは謝意であると解釈した。
「最後にこの子の名前、教えてくれ」
「黎介、浪岡レイスケだ」
リレイのかつて暮らしていた集落、狼人族の住処には実の子の養育を親ではなく、同じ狼人族の信ある者に担わせるという風習があった。
そのことを理由にしてリレイは魁世に任せたのでは無い。為信と共に子の将来の為に育児を“放棄”したのだという罪の意識を背負った上で、魁世に任せることにした。リレイは慣習を言い訳にしたくなかった。
……
…
当然ながら魁世に育児の経験は無い。そして自分自身でベビーシッターのようなことをする気はさらさら無かった。
別に育児で試行錯誤を重ねることが面倒なわけでもなく、単純に今やっていることで手が一杯だから。魁世は脳裏で結論づけていた。
乳母かなにかを用意する必要がある。だが現在、小一時間も悪戦苦闘したことでなんとか寝かしつけて寝息を立てているレイスケは単なる赤子では無い。秘匿しなければならない存在であり、簡単に第三者に頼めない。一時の出産のための医者を用意するのとではわけが違う。
魁世はどうしたものかと思いながら。いつの間にか乳母車を押してケイヒン村の館まで帰ってきていた。
「ただいまー」
ついこの間までは鶴夏が軽快に床を鳴らして出迎えてくれたのだが、今はそれが無い。
ドラクル公からの刺客を偶然の形で鶴夏が殺し、それを間近で見た美美は相当に精神が堪えている。藍たち三人の欠席した群蒼会の会議で魁世がそう言及してから数週間が経過していた。
無意識に歩く速度を落としてリビングに入る。とりあえず乳母車は玄関において、レイスケだけ腕に抱えてきた。
当時散らかっていた物はとっくに片付いており、物質的な傷はすっかり癒えている。だが今リビングのソファーでどこを見るでもなく目だけ開けて横たわっている鶴夏と、彼女の背中をさすっている美美の存在が、現在のこの館にある雰囲気を表していた。
「ただいま」
魁世はもう一度謂う。すると鶴夏と美美は声のする方を振り返った。
「ん……?」
鶴夏は魁世を見上げた後、その視線を魁世の腕の中に向ける。
その時、十何日かぶりの興味と好奇の織りなす声が館に響いた。
「え⁉赤ちゃん?赤ちゃんだ!」
鶴夏につられて美美も見たままの感想を漏らす。
「おっきい耳してる。この子ってオオカミ?」
二人の声に、先ほどまで台所で何やら作業をしていた藍も近づいてくる。そして魁世の腕の中で寝息をたてる幼児を見つけて思わず声を出した。
「え?え?この子って…魁世…!」
藍に睨みつけられて、魁世は慌てて否定する。
「いや違う違う。僕の子じゃない」
「はあ?じゃあ誰の子?」
「あの、ほら、拾った」
「…………まあいいわ、この子は貴方が育てるってこと?」
「まあその気だけど…」
「絶対駄目でしょ」「魁世はちょっとねー」「ツルカが育てる!」
藍、美美、鶴夏は魁世が主夫化することを完全否定した。
すると藍は流れる手捌きで魁世からレイスケを分捕り、鶴夏と美美とで囲う。
「魁世に拾われるなんてとんだ災難ね、けどもう大丈夫」
「かわいいー。お名前はなんて言うの?もしかしてまだ名前は無いのかな」
「ツルカがお姉ちゃんになります!」
魁世はどうしたものかと今しがた重みのなくなった腕を彷徨わせる。
ふと藍は振り返る。
「この子の名前は?」
「レイスケ、それがその子の名だ」
それだけ聞けば十分というように藍たち三人はレイスケを見つめる。早速どう育てていくか話し合い始めていた。
存在を忘れ去られた魁世は独語する。
「ま、ちょうどいいか」
魁世が忘れてはならないことは、美美と鶴夏が人と意思疎通ができる程度まで精神を上方回復できたのは藍の懸命なケアによるものである事だが、この時の魁世には今一つそのことを感知しきれていなかった。
自分が藍たち三人に可愛らしい幼児を養育させることで三人の精神を回復させ、ひいては養育の手間も省くことができる。それが彼自身の意識できない最深層心理が生んだ打算的な行動であると魁世自身は分かっていない。否、分からないふりをしていた。
……
…




