閑話 水桶と手回し扇風機
時期としてはドラクル公戦争が終わったあとの話です。
南奧州。道州制という言葉があるように、末尾の州は行政区分を指す。
では南奧にはどういった意味があるのだろう。帝都からみて“南”で“奥まった”ところにあるから、南奧州なのだろうか。
だが帝都の貴族や市井、保安軍の士官たちはナンオウ州と謂う。南奧州という単語は、かつて帝国がまだ大国だった頃の古代の行政区分であり、固有名詞としてのナンオウが、彼らにとっての見方だった。
魁世たちのいた世界には、“都”や“政庁内”という意味がある一般名詞が地名として名付けられ、次第に地元に根差した固有名詞と変わった。南奧州もそういった類いの認識が多数を占められているのだろう。
「名の通り南奧州は南の奥にある。だから夏も暑い。これは仕方ない」
雨雪の執権執務室。魁世は片手に団扇をパタパタと動かしながら、月の報告にやってきた。
フィーリアという有能な補佐官がいることで報告書漏れからの執権執務室へ来て逐次報告をせずに済んだものの、今度は執権が「口頭質問があるから直後出向くように、一人で」と云うものだから、たとえ猛暑であろうと赴くことになっていた。
「肯定するけれど、最近は余りに暑すぎるわ。魁世、なんとかしなさい」
天候を操れとでも命令したかのような雨雪に、魁世はニへラと、困った顔をする。
「んな無茶な…いや、できる。ちょっと待っててくれ」
魁世は一旦第三局の工業部へ戻って、二つのあるものを取ってきた。
一つは井戸水で満たされた大魚を入れるほどの大きさの水桶、もう一つは手動の扇風機である。
二人は執務室の空いているスペースに椅子を二脚持ってきて、休みの体勢にはいる。
「うちの工業部に、アーデルハイト・ホーレンシュテットってちょっとだけ変人な技術屋がいるんだ。こんど技監になってもらうんだが、アーデレさんは凄いんだぞ、僕の雑な指示でもちゃんとつくって——」
アーデルハイトというのが女性名であることを、雨雪は知っている。しかもアーデルハイトなる技術屋がその仕事や創作工作への意欲から“変態”とまで呼ばれていることも。声の調べに僅かながら棘を生えた。
「で、これはどう動かすの」「あっそれを手で動かせば……どうだ!風が来るだろう」
難航したのは回る羽に耐えうる軸の部分の製作で、これがまた新たな技術革新の根となり芽となっていく。現在のナンオウ州は第三局工業部と第一局研究部(研究部)の共同で、あるいは競い合って技術ツリーの進行をしていた。
「つくったのはそのアーデルハイトさんで、あなたでは無いでしょう。元の世界で文明的な生活をしていたら誰でも思いつく代物で、どうしてそこまで自慢げになれるのか甚だ疑問ね」
深層から汲み上げられた冷たい井戸水入りの水桶に、いそいそと素足をいれて涼もうとする魁世は、雨雪の機嫌の変化を、遅きに失したがなんとはなしに感じ取った。
しばしの沈黙と、最初は良い風と感じたが段々それほどだなと辛口評価を下した雨雪は、つぎに魁世が素足をくるぶし辺りまで入れている水桶に目をむける。
「そっちの方が涼しそうね」「あっちょまっ!」
靴と靴下を早々と脱いで生足となった雨雪は、一瞬だけ淑女らしく躊躇したものの、魁世という先客のいる水桶に、一気に足を突っ込んだ。
「その、ほら、狭いし」第三局局長の貌に動揺と僅かな朱が混じる。
水面に波ができるが、雨雪の華奢な足は、水桶を溢れさせるまでには至らない。
どうもドラクル公戦争の後、というよりも戦勝会のときから距離感が掴めない。魁世には不思議でならなかった。執権執務室で飲んだ暮れたときも、介抱した武瑠に意味ありげになにかあったかのように中性的な笑みをされたが、けっきょく何のことやら魁世にはわからなかった。さして分かる気もなかったが。
「今度、冬に向けて氷室をつくろうと思うんだ」
外気温の高さと、水桶の冷たさ。雨雪の呼吸音が聞こえてきそうな程に近く、なんども視線が交差して得も言われぬ不思議な気分になった魁世は、何かしら話題を出してこの情調を霧散させようとする。
「それは冷蔵室のことかしら」「うん、冬に凍った湖から切り出した氷塊をそこに溜め込んで、冷蔵もできて、来年の夏はかき氷を食べれるようにしたい。いずれは多くの人が夏といえば氷菓子となれるようにしたい」
来年。多くの人がいまの時節に向き合うなか、あなたはすぐに未来の話をする
いつも気宇壮大で、こっちの気も知らないで何でもこなす。こっちが息継ぎしようと目を離した隙にどこかへ行ってしまう
「来年の話もいいけれど、まず今期の予算をもっと吟味しないといけないわね」
放っておくと資金を一気に使って追加予算を願い出てきかねない魁世に、雨雪は執権として釘を刺しておく。
「御意、御意のままに」
手綱はしっかりと握っておかないと。そんな雨雪のどこか熱を帯びた視線に、魁世の体は暑さなど意に介さず冷や汗をかいた。




