第百二十四話 元教皇ベネッテクロ
この“第一次”対帝国大同盟に加盟しているのは人類世界——千年帝国や聖櫃帝国の位置する惑星表面八分の一を“人類世界”と呼ぶならそうであるが——の主要五大国を含む殆どの国だが、一応は非加盟国も存在する。
聖櫃帝国から南方に接し、千年帝国から海を越えて西方にあるアベーナ半島。半島内に存在する諸国家の一つ、都市国家ゼノハも非加盟国の一つだった。
ハイドリヒ天城華子は都市国家ゼノハを訪れている。目的は幾つかあるが、表はナンオウ商会の上流階級への販路拡大、裏は“戦争終結”のための準備交渉があった。
華子はゼノハ市議会の有力議員の家を訪れる。ゼノハより少し離れた丘の上にあって港湾を持つゼノハが一望できる邸宅であり、そこで開かれた会談は元から予定されていたものだったため、特に問題なく契約を締結し、ナンオウ商会のゼノハ支店の出店も国の許可と取り付けることに成功した。
会談後の食事を終えてハイドリヒは帰ろうとする。だが家主の議員に呼び止められたことで足を止めた。
ハイドリヒは表情には一切出さず、むしろ微笑を浮かべたが内心訝しんだ。ハイドリヒは仕事の関係上、取引相手と夜まで話すことがあるが、暗に自分と床を同じにするよう促されたことがある。それが男性だけでなく女性でもあるのだから始末におけないが、ハイドリヒの心根は魁世の方へ伸びているので当然やんわりと断るし、断れる状況にもっていく。
このゼノハの有力議員もその手合いかと勘繰ったが、違った。
「ハイドリヒ会長にどうしても会いたいという方がいます。どうか私の顔を立てると思って会っていただけませんか」
そこまで腰を低く要求されては華子も呑まざるをえない。
華子は議員の歩く方について行く。道すがらハイドリヒは議員に問いかける。場合によっては方向転換して逃げるつもりでいた。
「ところでワタシに会いたいというのは何方です?」
「会えばわかります」
議員の発言に益々怪しいと感じたハイドリヒ華子だったが、とりあえずついて行くことにした。罠にしては単純すぎる誘い方であり、既に何度か商敵から暗殺者を差し向けられたこともある華子が、殺意を感じなかったからだった。
夜空と海面が一望できるバルコニーに連れてこられると、色の落ち着いた装いをした男がいた。
男の胸に光るのは、この世界で天星教と呼ばれる“人類世界”で多くの人から信仰されている宗教の象徴であり、一つの円に一つの縁がついている。
男は華子の方へ振り向き口を開いた。
「どうもどうも。夜分失礼。私は天星教で大司教という立場にある者です。ハイドリヒ様ら、お仲間の皆さんと協力したく思います」
華子は涼しい顔で返す。
「仲間?あー帝国のことデスカ」
男は顔を左右に振った。すると男の表情が露わになり、顔に刻まれた皺が見える。ここでハイドリヒは男が老齢にあると分かり、自身の記憶にある天星教の大司教名簿から名前を予測した。
「貴方はまさか、歴史上で唯一の“生前退位”した教皇、ベネッテクロ四世ですの」
「ええそうですとも。正確には『異世界合同委員会』なる不逞の者どもに引きずり降ろされた、というのが正しいですが」
ベネッテクロと呼ばれた老人は確かな眼光をもって返答した。
……
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ネーデント王国、ベルヒャ王国は聖櫃帝国と白百合王国の間にある比較的小さい領土をもつ国である。
緩衝国家と見られている両国は、つい最近まで滅亡の危機に晒された。ネーデントは聖櫃帝国が、ベルヒャは白百合王国がその圧倒的は国力を背景に攻め滅ぼそうとしたのである。
だが、当時無名だった家門を継いだばかりの二人の貴族がネーデントとベルヒャを大国の魔の手から救った。
ネーデントにはホルシュルス家、ベルヒャにはマシュルム家が外交手腕によって大国の侵略を防ぎ、現在も均衡を保たせていると市井や貴族社会に伝わっている。
ネーデント王国ホルシュルス公爵の暗殺機関は帝国属領軍の中継基地になっている都市ハンノニアに潜入し、ベルヒャ王国マシュルム方伯が雇う暗殺集団は帝国属領軍の野営地、惟義と魁世のいる幕営に侵入する。
翌日、その暗殺集団らによって聖櫃帝国軍と白百合王国ら大同盟軍の異世界委員会の面々に報告がなされた。
属領軍のモリ准将、ホンダ准将、および都市ハンノニアにいたニイロ少将の暗殺に成功。シマズ大将の生死は不明。
……
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