僕と彼女
これは、人魚の彼女と気の狂った男の話だ。
僕の朝は早い。理由は彼女にある。僕は重い体を無理やり起こし、浴槽へと向かった。これから見るであろう光景を予想しながら。
「はぁ、君はまたこんなに」
そこには、たくさんの動物たちに囲まれた人魚がいた。彼女はかれこれ一週間前からここにいる。彼女はしゃべることができない。なので、いま彼女は雄弁に表情で気持ちを表している。『うるさい』と。
そんな彼女の周りにいる動物たちは、飛び跳ねていたり、飛び回っていたりと大騒ぎだ。こいつらを追い出すのが今では日課となっている。ハハ、ほんと大変だ。この人魚さんはメルヘンの国のお姫様なのだろうか。
「よし、こんなもんか」僕は綺麗になったお風呂場を眺めながら、一息つく。動物たちを追い出すのにも慣れたものだ。もう一分もかからない。だが、この次の展開には未だに慣れない。それは、
『・・・。』
この無言のジト目だ。どうもこの目は慣れない。『どうして追い出したの?』、『さ・い・て・い』という非難の声がよく聞こえてくる。
「いつも言ってるだろ?ここは山でも草原でもない。ただの風呂場なんだ」
『・・・。』
僕の意見が正しいはずだが、彼女のこの目を見るとどうも罪悪感が湧いてくる。そうして居た堪れない気持ちになり、「あー、ごめん。朝食がまだだったから済ませてくるね」などと濁し、その場から逃げてしまう。自分でも情けないのは自覚しているつもりだ。
朝食を済ませ,ひと段落付いた僕は再び風呂場の前に立っていた。まずはそーっと、風呂場を覗く。彼女はじっと水面を眺めていた。水をぶくぶくさせながら。おそらくあれは怒っている。
僕は今日決心した。このメルヘンチックな問題を解決することを。もちろん気は重い。彼女のあの目に耐えられる気はしないし・・・。でもそんなんじゃだめだ。彼女のためにもならないし。
「よし!」
僕は重い心を振り払う。うじうじしてても、仕方がない。僕は覚悟を決めて浴槽へと向かった。足取りは重いが・・・。
僕は開けっ放しの扉をノックして、風呂の入り口に座った。彼女はまだ浴槽に張った水を、ぶくぶくしている。僕のほうを見ずに。
「あのさ、いつも君の話を聞かずに君の友達を追い出してごめん」
彼女はゆっくりと僕のほうを向く。僕はゆっくりと息を吐いて言葉を続ける。
「でも、ここは風呂場。君の友達はここには住めないんだよ。だから、訊くよ。君はどうして友達をここへ呼ぶんだい?」
彼女は目を見開いている。
「これは僕の予想でしかないんだけど、もしかして君は、寂しいからやってるんじゃないかな」
彼女は僕から目を逸らす。そして、コクッと頷いた。
「うん、分かったよ。ありがとう教えてくれて」
前々から気づいてはいた。彼女は人魚で、陸では生きられない。だから、一日中狭い湯船の中。もちろん僕も風呂場にずっと入られない。必然的に彼女には孤独感が溜まってゆく。
彼女は再び視線を向けた。そしてジト目を向ける。おそらく、『それがどうしたの?』と言いたいのだろう。
「今から言うことは、君の寂しさを軽減すると思って言うことだけど、それは、自己満な提案かもしれないんだ。それを踏まえたうえで聞いてくれるかい?」
無反応だ。肯定という事にしておこう。
「これからは一週間に一度、いや、三日に一度君と一緒に寝るっていうのはどうかな?」彼女が目を見開いている。まずい、怒ったか?
「もちろん、自分が言っているキモさは理解しているし、僕なんか嫌かもしれないけど・・・。」
弁明するつもりが、悲しくなってきた。僕は自然と顔が下を向く。だが、耳に入ったのは水が跳ねる音。僕は頭を上げる。すると彼女は満面の笑みを咲かせながら、頬をピンク色に染めていた。これは誰がどう見てもこう訳すのではないだろうか。『うん!』と。僕の心は安心と嬉しさで満ち溢れた。
「これからy」
ピンポン
部屋にベルの音が響いた。
「ごめんね。何か届いたみたい」
北村は不機嫌に顔を歪め、立ち上がる。床に散らかるゴミを縫うように玄関へ向かった。サンダルを履いて扉を開ける。錆びた蝶番が脳をひっかく。北村は日差しで目が眩む。そんな目が男を捉えた。男は「取扱注意」のシールが貼ってある段ボールを抱えている。北村は制服と段ボールで男を配達員だと理解した。
「・・・あ、北村通さんのお宅はここで間違いないでしょうか」
配達員はあまりの異臭に表情を歪める。
「はい大丈夫です」
北村は受け答えをしつつ、配達員様子に怪訝そうな顔を浮かべた。
「では、サインか印鑑をお願いします」
「サインで」
北村は配達員の差し出した紙とボールペンを受け取る。サインを書いている北村の背中を、配達員は驚いた様子で眺めていた。北村が書き終えると、配達員は北村に段ボールを渡した。そして「ありがとうございました」と言い、走り去ってしまった。北村は返し損ねたボールペンを持ちながら首を傾げた。
北村は重い足でリビングへ段ボールを運んだ。中身が何か思い当たらないので、とりあえず開けてみる。「スマホ?」中には紫色のスマホが入っていた。
「あ!彼女のか。」
北村はスマホの紫色を見て思い出した。紫は彼女の好きな色だった。このスマホは北村が「それ」を湯船に沈めた日、購入したものだ。以前の色と機種が同じものを。北村はスマホを持って、風呂場へ向かった。
「君のために買ったんだ」
北村が「それ」を見つめて言う。そして満面の笑みを浮かべてスマホを差し出した。北村がスマホを離すと、スマホは湯船へ落ちる。だが北村の視線はただ「それ」だけに注がれている。北村は数秒の沈黙の後、優しげに微笑みながら「どういたしまして」とそれに向かって言った。
数日後、誰もいない部屋の片隅でテレビが流れていた。