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北方前線  作者: 水戸 連
0章 始まり
7/36

2-2

 我が家の少し前。

 全力で走りきって息を切らして家にたどり着いた僕を前にして、フィルンは悠々と手を振って待っていた。


「私の勝ちだな」


 得意満面な顔には疲れの欠片も見えない。

 皇女ってのは体力も人並み以上にあるらしい。

 自分も旅行続きで随分歩いてそれなりに体力はあるつもりだったのだけど、比にならないほどの体力差があった。


「――言い訳はしませんよ」

「それだけぜぇぜぇ息を切らせてもなおここまであきらめなかった辺り、精神的なタフさは聴いてた通りだな」

「なんですか、それは」

「学者連中の君に対しての評判さ。秘術に対しての見識もさることながら、難解な秘術書を根気よく読み進める執念こそが才能だろう、だとさ」

「そりゃどうも、とでも伝えといてください」


 皮肉の延長線上か、あるいはほめられているのかもしれないが、それを咀嚼する余裕がない。


「さあて、君の息が整い次第君の父上殿にお話といこうか」

「――待ってください、フィルン」

「うん?」

「どうか、最初だけは。ザルツの話だけは、十五分だけでも、私一人でさせてください」


 ずっと、隠してきたこと。

 その清算だけは、自分の手でやらせてほしい。


「ほう、皇女を外で待たせる気か」


 にやにやと悪い笑みを浮かべるフィルン。


「――いや、その」


 後ずさりした僕を見て、フィルンの表情はくすくすと少女のような笑みに戻った。


「構わないよ。代わりに後で私のお願いも聴いてもらおう」

「ありがとうございます」

「そして、十五分以上は待たないぞ。手早くするんだな」


 そっぽを向いたフィルンにもう一度だけ礼をしてから、家の扉を開いた。






 食卓はいつもより、少しだけ豪勢だった。

 盛り付けられたサラダと、まだ主食の入ってない皿だけで、今日はごちそうかな、とわかるくらい。

 キッチンに立つ父は、いつもと変わらない。ただ、その手元はほんの少し、手際が良く見えた。キッチンストーブの上に乗せたフライパンを、シャッシャ、とへらを回して火を通していくところは手慣れたものだ、と言わんばかり。


「おかえり、ジーナ。ずいぶんびっしょりじゃないか、先に風呂でも――」

「父さん。そのままでいいから聞いてほしい話がある」


 父の声を遮って、それでも意思表示をする。

 そうでもないと、十五分なんて一瞬で去ってしまいそうだから。

 父は一瞬こちらを見ると、すぐにフライパンに視線を戻した。


「なんだ、改まって」

「実は、さ」

「ああ」

「僕はジーナじゃない。ザルツなんだ」


 ぐい、と父の握っていたヘラが滑り、フライパンの中身が大空に飛びあがった。

 一瞬でフライパンを持ち上げてそれらを救出する様はまるで大道芸だった。


「危ないなあ、父さん」

「――待て待て、どういう冗談なんだ」


 父はフライパンをストーブから遠ざけてから、こちらに向き直った。

 紅の双眼を備えた、シワの寄った顔。

 面と向かって見つめたのは、ずっとともに住んでいたのに、久方ぶりのような気がする。


「冗談を言ってるように見えるか」


 父は一度口を開いてから、言葉を発する前に首を横に振った。


「――いや。ジーナはそんなウソを言わんし、ザルツはそんな目をするな」


 はあ、とため息をつくさまは、困ったようで、しかし、懐かしいようで。


「あんまり驚かないんだな」

「驚いてるつもりだ。それでも、納得することもいくらかあったからな」


 父はもう一度ため息をつくと、フライパンを火にかけなおす。


「今さら言い出したのは今でも不思議だが――外のお客人が原因か」

「気づいてたのか」


 フィルンの話は一切してないけれど、外の気配でわかったんだろうか。


「いやあ、さっきから窓から見えるんだよ」


 父の指さす方を見ると、フィルンがじー、とこちらを覗き込んでいた。

 ……外で待ってほしいとは言ったけど中を見るなとは言ってなかったっけ。


「わざわざ外で待たせるのも不憫だろう、さっさと中に入れてやりなさい。それと、そんな濡れたままでいるな。さっさとシャワーでも浴びて着替えなさい」


 小言じみたことを言われるのはいつものことだったはずだけど。

 ザルツに向けて言ってくれているのだ、ということが、何よりもありがたかった。

 今までずっとどこにもなかった自分の居場所を、認めてもらえたようで。


「なんだ? 言いたいことがあるならこの際全部言ってしまえ」


 ぼうっとしていたのが、父にはよほど不自然に見えたらしい。

 でも、言葉にしたいことはまだまだあった。

 その一つを口にする。


「今まで、嘘をついててごめんなさい」

「いいさ。俺もお前の苦しみに気づけもしなかった。すまなかったな、ザルツ」


 フライパンの表面から焼ける音だけが響き渡る。

 それだけなのに、ひどく、懐かしい。

 浸っているだけで、時間が溶けそうなほど。

 ようやく、ようやく。この家に帰ってこれたのかな、と言う気分になった。

 でも、そんな理由でフィルンを待たせられない。


「じゃあ、外のお客さんを呼んでくるよ」

「なあザルツ、ひとつ気になったんだが」

「なんだよ父さん」


 何気ないやり取りも、ザルツとして行うのは久しい。


「今までジーナを演じてきた、と言うのは理解した」

「うん」

「それで――女物を着るって言うのはどういう気分だった?」


 返答は近くにあった生卵の投射。


「まったく危ないな――そうだな、卵スープと言うのも悪くないか」


 父はこともなげに受け止めると、そのまま流れるように鍋のスープへ入れてしまった。






 シャワーを終えて。

 ダイニングに戻ってくると、談笑が広がっていた。


「へえ、そんな経緯で奥様と結ばれたんですか」

「いやあ、はっはっは、大した話じゃあありませんでしたがね」

「いえいえ、面白い冒険譚でしたよ」


 父と母の馴れ初め話でもして盛り上がっているらしい。

 ちゃんと聞いたことはなかったのだけど、そんな冒険譚と呼べるようなものなら僕も話に混ざりたかった。

 ただ、今は真っ先に問いたださないといけないことが一つ。


「フィルン。一つ聞いてもいいですか」


 フィルンはつーん、とそっぽを向いた。


「さっきも言ったが、私的な会話なら敬語禁止だ」


 フィルンが入ってきたとき、三つのお願いを聞いた。

 一つ目が、これから友達になるのだから余計な気は使わないこと。

 同年代の友人と言うのはフィルンにとっても数少ないらしい。

 だから頼むよ、と言われて断る理由なんて、一つも見つからなかった。


「悪い、慣れないんだよ、フィルン」

「なあに、これから慣れていけばいいさ、『サーレ』」


 二つ目が、『サーレ』と言う名前の提案。

 これについてはそれでどうか、と言う程度の物であったけど、承諾した。

 今後、フィルンに仕えるにあたっては『サーレ』と言う名前を使う、というのは僕にとっても都合のいい話だった。


 ザルツと言う名前を使う気にもなれなかったし、ジーナの名前を借りて活動していくのも申し訳ない、と思っていたところだったから。

 ちなみに、名前の提案者は父だったらしい。僕が女の子として生まれればサーレと名づけるつもりだった、と聞いた。


「それはいいんだ。――それで、どうしてこの服なんだ」


 上はいい。いつものブラウスだし。

 下がよくない。ひらひらと舞うスカートなんだ。

 今日この日まで、身に着けなかったものだ。


「いいじゃないか、似合ってるんだし」


 三つ目のお願いは、フィルンが指定した服を着ることだった。

 もともと妹の持ち物で、そりゃあ合わないはずはないのだけど。


「落ち着かないんだけど、履き替えてもいいかな」


 脚を覆うものがない、と言うのが妙にこそばゆい。


「構わないよ」

「そうなの?」


 一目見れれば十分、と言うことだったのだろうか。


「君が私を外で待たせた十五分を全く持って気にしない、と言うのであればね」

「……ひどい言い方をするね」


 僕は観念して席に着いた。

 そんな言い方をされて堂々とできるほど肝は座ってない。


「さて、そろそろ飯にするか。二人とも腹減ってるだろう」


 父の声に対しての、返事は僕の腹の音。

 二人が笑って、僕は思わず顔を伏せた。


「――じゃあ、いただきます」






 歓談を交えながら、むしゃむしゃと食卓のほとんどを平らげたころ。


「しかし、ずいぶんフィルン殿下と仲がいいじゃないかザルツ――いや、『サーレ』」


 父はにやにやとこちらを見てくる。昨日までの曖昧な微笑みとは大違いだ。


「父さんまでそう呼ぶんだ」

「なあに、ジーナと同じ顔のお前をザルツと呼ぶ方が違和感ある。それならまだ、もう一人の娘、サーレとして呼ぶ方がやりやすい」


 まあ、それはそうだろうけど。

 それにしたって、サーレと呼ぶのに何の違和感も持っていない。

 ずいぶん滑らかなもんだからかえってこっちが違和感を持ってるのがおかしいのか、と言う気分にさえなりそうだ。


「それに人目も気にする。もしも死んだ息子の名前で娘を呼ぶ父親、なんて世間に知れたら白い眼で見られるに決まってる」


 まあ、それもそうだろうけど。

 サーレの名前がなくても、人前ではザルツと扱わないでほしい、とは言うつもりではあった。


「向こうでもその名前でやってくつもりなんだろ。今のうちに慣れとけ」

「帝都に行く話、もう父さんに通ってたのか」

「通ってるも何も、二か月くらい前にフィルン殿下がこの家をたずねに来た時にはもう許可を出してたよ。都に仕える、なんて名誉どれだけ運がいい話かも分からんしな、オレが止めるような話じゃあない」


 そんな話は記憶にない――のだけど、ちょくちょく家を空けていたから、たまたま会えないタイミングでフィルンが家をたずねに来ていた、ということだろうか。


「それならわざわざフィルンはこの家に来なくてもよかったんじゃないか」

「君が行きたい、と言ってくれる前提だ。あくまで、君の自由意思がなければ連れて行く気もなかったんだ。だからまあ、君の最後の決断まで見送るのが筋だと思ったんだ」


 フィルンの言葉は優しい。

 それでいて、全てに責任を持とうとする、強い意志も感じさせる。

 皇族というのは、そういった端々からも雰囲気がにじみ出るものか、なんて感想を抱いた。

彼女は微笑みながらスープを飲み干すと、音を立てずに、カップを机に置く。

作法なんて欠片も知らないけれど、所作一つとっても美しいな、と見惚れてしまう。


「絶品でした。今日もご同伴できてよかったです」


 フィルンの笑顔に、父もつられて笑う。


「腕によりをかけた甲斐がありました」

「では、そろそろお暇します」


 がた、と席を立つフィルン。

 ご飯を食べてすぐに帰ろうというのは、なんだか随分気の早い話だ。


「この近くで宿を取ってるの?」

「いや、今から帝都に帰る」

「今から、って帝都まで列車で五時間はかかるよ」


 もう日は沈み切ってる。

 途中の道も考えれば、どうあがいたって、日を跨ぐことになる。


「色々予定が詰まってるからな。朝には城にいないといけないんだ」

「おつきの人とかいないの?」

「さっきもいったろ、お忍びだから従者もつれてきてない。大丈夫だ、迷ったりしないよ――ああ、君の方は明日、いや、準備があるなら来週だっていい。そのうち都に来てくれれば案内するとも」


 そんな心配をしてるんじゃあない。道に迷うこととか、あるいは自分がどうとかを心配してるんじゃあない。


「五分待ってて、すぐ準備する」


 ごちそうさま、と言い放って、すぐに二階へ駆け出した。






 ばたんばたん、と上で物をひっくり返すような音が響く。


「……ずいぶんあわてんぼうだな、彼は」


 フィルンは困ったように笑う。

 ザルツの父もつられて笑いながら、食器を片付けていく。


「察してやってください。あいつは兄を――いや、妹を野盗に襲われてなくしてるんです。夜道で女の子一人ほっぽり出せない、と思っちまうのも無理からぬことでしょう」

「――ふふ、そうか。ナイトのつもりだったか」


 思わず、と言う微笑みと吐息がフィルンから漏れる。


「皇女殿下、あんまり笑ってやらんでくださいよ」

「いやあ、つい。昔の話にそっくりだったんで、こらえきれませんでした」

「そんな昔話ありましたかね?」


 首をひねるザルツの父に対して、フィルンはもう一つ疑問を思い出したように口を開く。


「それで、ジーナの――いや、ザルツの父君に聞きたいことがあったんです」

「くく、サーレの、と言って構いませんぜ」

「ジーナの中身が彼と知って、驚いてない様子でしたが、いや、すぐに受け入れた様子でしたが、どうしてですか」

「ああ、そのことですか」


 水を食器がくぐる音が一旦止んだ。

 手元を止めた男は口を開こうとして、どう話したものか、と息をつく。

 フィルンはその奥にある答えを聞こうと、問いを続けた。


「疑っても、あるいは妄言と思っても仕方ないのに、すんなりと受け入れたようですから不思議だったんです。もとから知っていた、とか?」

「いやあ、ぜんぜん、全く、これっぽっちも気づいちゃいませんでしたよ」


 ザルツの父のうつむきながら目を背け後ろ髪をかく姿は、悔しさがありありと滲んでいた。


「恥ずかしながら、今日のこの日までジーナと全く疑っていなかった。ただ、『ザルツ』の真似事をしてるんだろう、とばかり思ってました」

「真似事、ですか」

「本を山ほど借りてきて、学者みたいにこもりっきりで勉強に明け暮れて。それが、兄を失った分を埋める、なんて意気込みならどこかで止めなきゃならん、と思っていたんです」


 少なくとも、フィルンが知る限りジーナが本の虫だった記憶はない。

 いろいろなことに手を出してはそれなりにうまくやってしまう天才型ではあったが、秘術に関しては文通の間に彼女が話題に出したことはただの一度もなかった。

 文通が途絶えてからしばらく、『魂』の秘術の研究によって噂が立ち上った『ジーナ』という存在を不思議に思って村まで尋ねに来た、と言う経緯があった。


「現実はずいぶん奇想天外だった訳ですがね」


 男の呆れたような、未だに受け入れきれてないような言い方にフィルンも心の中で小さくうなずいた。


「真似事じゃあなく、本物が入っていた、というのは誰にとっても想定外でしょう」

「ええ。まあ、ジーナであっても、ザルツであっても、大事なところで嘘をつくような子じゃあない。そういう信頼があったから、疑う余地もなかった、と言うところでしょうか」


 男は水桶にざぶんと手を突っ込むと、食器からからごしごしと汚れを落としていく。


「それを聞いて昨日までの真っ青な顔の理由も分かりましたよ。大方、自分が妹を殺した、とでも思っていたんでしょう」

「よくご存じで」

「――まさか。今日まで何も気づけなかった」


 こぼした言葉には、万感の意がこもっていた。

 水桶で洗われる食器の音がよく聞こえる程度に、上も静かになった。

 そろそろ、旅支度の大騒ぎも終わったらしい。

 笑いながら、男は手を布巾で拭く。


「でも、よかったですよ、フィルン殿下」

「何がでしょうか」

「――あなたが来てくれて、あの子がようやく笑ってくれた。それだけでね、俺には十分だった」


 男はフィルンに向き直ると、腰を九十度に曲げた。


「――どうか。どうか、あの子をよろしくお願いします」

「もちろん。彼が望む限り、彼の力が発揮できる環境を提供し続けますとも」


 男は顔を上げながら、歯を見せて笑う。


「息子が迷惑をかけます」


 フィルンも負けじと、ニカっと笑う。


「なあに、それ以上に頼りにさせてもらいますよ」


 ばたばた、とあわただしい足音が降りてくるのが聞こえて、二人は再度顔を見合わせて、笑みをこぼした。


「準備できた――って、二人して楽しそうにしてるけど何かあった?」


 きょとんとした一人息子の登場に、父は笑みを深める。

「なあに、別れの前の歓談ってやつだよ。――じゃあ、行って来い、ザルツ」


 息子は歯を見せて笑うと、バッグを背負って扉に手をかけた。


「ああ、行ってきます、父さん」






 夜の汽車。

二人は硬い座席で向かい合って、揺られていた。

 窓ガラスの向こう側は真っ暗闇。

 星空くらいしか、見る物はない。

 それも、未だかかる雲で月くらいしかはっきりしたものは見えない。


「なあ、サーレ」

「なんです――なにかあった?」


 フィルンの睨むような視線に、サーレは佇まいと、口調を直す。

 敬語禁止、と言うルールにはまだ慣れないらしい。


「いくらなんでも旅の準備が早いな、と思ってね。本当に五分で済ませたじゃないか」

「まあ、このところ色々出向いて情報を集めることが多かったからほとんど準備はなかったよ」

「その割にはドタバタしてたようだが」

「ちょっと探し物をしてたんだ」」


 サーレが髪を払うと、きらり、と紅いイヤリングが月明りを反射した。


「それ、君の趣味じゃないだろう」

「どうしてそう思ったのさ」

「飾り気のない君にしてはずいぶんきれいだ」


 サーレは反論しようと一旦口元に力を入れるが、特に思いつきもしなかったのか肩を下ろした。


「ご名答。妹の贈り物でね。これだけは持っていきたい、と思ったんだ」


 紅く輝くイヤリングをそっとなでる。

 めでるように、愛おしそうに。


「逆に言えば、それ以外は十分な準備があるくらいには旅行が多かったわけか。君の最近の旅行と言うと研究目的、になるのか?」

「そうだね。どうしても直接会って聞いた情報と、紙に書いてる話は温度感が違うんだ」

「そういうものかな。なんとなく、本に書いてる情報の方が信用できる気がしてしまうな」


 フィルンからすれば、周りの信用できない大人共の意見よりは、幾年の試練にも耐えた本の歴史の方が嘘はつかないだろう、と思っていた。

 しかし、サーレの方はと言えば難しい顔で腕を組んでいた。


「どれくらい信用していいのか、が分からないんだよ。紙の中だとこれが真実、って書きぶりだったのに、実際に聞くと仮説の中の一部でしかない話しぶり、ってくらいにはね」


 サーレにとって、本も人も、語った中身の信用度はそう大きく変わらない。

 本人がどれだけ、自分のことを信用しているのか、が重要だった。


「百の知識があったとして、たった一人の狂人がしがみついた異端の発想の方が真実に近いことさえある分野だから、その一にたどり着いて、そしてそれが本当に正しいかを確かめる、と言うのが僕の研究――というよりも調査の繰り返し。それをもって、自分にとっても信用できるものかを再検討する、って感じかな」


 フィルンはなるほど、とうなずいた。

 サーレの語りぶりが自分の知る学者に『どうしてあなたはそこまで博識なのか』と尋ねた時にもらった言葉にずいぶん似ていたからだ。


『君の言う私の博識さは凡庸な99の積み重ねだ。自分の知りたい真実の一に近づくには、凡庸な99を踏まえなければならない。その繰り返しがなければ、たどり着いた一が真実であるかどうかを確かめる能力がないからな』


 彼もまた、『魂』の研究に携わっていたし、その能力は類まれなく学者として優秀だった。


「川は流れて同じ海にたどりつく、だな」

「……なにそれ?」


 フィルンは思わず笑った。

 有名な慣用句にすら疎いほど、自分の分野にしか興味がない辺りもフィルンの知る学者と同じだったからだ。

 意味は、別の山から流れた川も同じ海にたどり着くように、別々の始まりから同じところにたどり着く現象を指す。


「本当に学者に向いてる、と言ったんだ」


 サーレは褒められてるのか、けなされてるのか分からない、と言った難しい顔をしつつ、

「真似事でしかないけどね」

 とつぶやいた。


 ぼんやりとした言葉には、自信はない。という心が浮かんでいた。

 それは知識不足から来るものではなく、向上心から漏れたものだ。


「それでいいさ。その先で本物になってもいいし、別の道を選んでもいい。どうあっても、君が努力を続ける限りは一角の人物になると私が保証しよう」

「……期待が重いなあ」

「おや、背負わせてしまったかな」

「…………いや、頑張るよ。どんな期待にも、応えてみたい」

「無茶をするなよ?」

「……すぅ」


 最後に返ってきた返答は、寝息の声。

 フィルンはまた笑ってしまう。


「ナイトが先に寝てどうするんだ」


 サーレは小さな荷物を抱えて、壁にもたれかかってしまった。

 フィルンはコートを彼女にかけて、じぃ、と様子を見る。

 安らかな寝顔だった。

 ここしばらく眠れていないという話だったから、ようやく気が抜けたんだろう。

 そして、その寝顔はフィルンにとって、守るべきもののひとつでもある。


 窓の外へ視線を向ける。

 都心の郊外に入って、ぽつりぽつりと明かりが見えてくる。

 この視界の向こうまで含めたすべて、一億にわたる民。

 それが、帝国が担う責任。


 ただ、そのすべてはすくわれない。

 帝国は、帝国のほとんどのためにあるのであって、一部にまでは手が届かない。

 ぽろぽろと、網目を抜けるように、零れ落ちる者たちは少なくない。

 その網目を、もっと狭くできれば。

 きっと、救われない人は、少なくなるはず。


「だから、君のような才人の力が欲しい。その英知を結集できればきっと、もっと世界は発展できる。どうか、その助けになってくれないか」


 フィルンのつぶやきは、返答を求めない独り言だった。


「うん、もちろん」


 けれど、その向かいからは、寝言の中に、確かな応答があった。

 むにゃむにゃと寝言を続ける様子から偶然だし、何の意識もないだろう、とはっきりわかるけれど。


「頼もしいな、私のナイトは」


 フィルンは安心して、夜の景色に没頭していった。

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