2-1 長い道を見据えて、前へ
雨の降りしきる中。
墓地の一角、『ザルツ=シェルドリッヒ』の墓の前に立っていた。
知っている。この中に眠っているのは、ザルツの肉体だけ。
その他に、何もない。
それでも。
祈りをささげた。
「ありがとう」
たぶん。あの日から一度も、ジーナに向けていったことはなかった言葉。
ずっと、ずっと、ずっと、罪悪感だけがあった。
謝罪だけをささげてきた。
それは今も消えない。
でも、この魂を救ってもらったのは紛れもない事実。
立っていられるのも、景色を見られるのも、食事を味わえるのも、全て、救ってもらったから。
届かないと知って、それでも感謝の祈りをささげた。
どれだけ膝をついていただろうか。
ふと、全身を包む雨が止んだ。
しばらく降るものと思っていたけれど、そんなに長い間ここにいただろうか。
顔を上げてみると、真っ黒い傘が、空を遮っていた。
「そんなに長い間雨に体をさらしていては風邪をひくぞ」
その持ち手は、フィルン皇女殿下だった。
今更ながら、きらめく銀色の髪と、透き通るような肌に目を奪われた。
青い輝きをもって揺らめく瞳は初めて海を見た時のような感動さえ覚える。
喪に服すような漆黒の装いとの対比も相まって、名画の中の住人にさえ見えた。
「なんだ、私の顔に何かついているのか」
声を掛けられて、はっとする。
――ただ見惚れていただけ、などとは口にできない。
いったん、自分の頭を占めてしまった美辞麗句を片隅に遠ざけた。
「礼を言いたい、と思いまして。ありがとうございます、フィルン殿下」
「あんまり恭しくするな、これでもお忍びなんだ」
辺りを見回してみると、おつきの人間なんていなかった。
皇女ともなると護衛の一人や二人は居そうなものだが、それすらいないのは本当に人目を抜け出してきたのか。
「よく気づかれないものですね」
「君みたいに私なんてそもそも知らん奴も多いし、こういう手品も使えるしな」
皇女殿下が銀色のロングヘアをサラリ、と撫でると、栗色のショートカットに変貌した。
身体操作の秘術。
宝眼も一種の秘術であるから、皇女殿下がそういったものに長けていることに驚きはなかった。
「意識してないとすぐに戻ってしまうんでそう使い勝手は良くないが、人目を避けるのには結構有用なんだ」
もう一度皇女殿下が髪を払うと、艶やかな銀色の長髪を取り戻していた。
しかし、そうまでしてこの村を訪れた理由は、ただの人材雇用が目的ではないはずだ。
「皇女殿下は――」
「フィルンだ。その顔と声をする以上、敬称も禁止だ」
そんなことを言われるなんて、よほどジーナはフィルン殿下と――フィルンと、仲がよかったらしい。
「――フィルンは、どうしてここに来たんですか」
「一つは君と同じく墓参りだ。この村に来た三つ目の用件だな」
「じゃあ、やっぱり、ジーナのことも知っていたんですね」
そうでなければ、この墓を訪れる理由はないのだ。
すでに、自分の知るジーナはいないと知っていたから、せめて魂にだけでも祈りをささげようと、この墓を訪れるつもりだったのだろう。
「――まあ、そんなところだな」
つぶやくフィルンの穏やかな微笑みの上を、一滴の水滴が滑り落ちた。
人が死んだと知って、それを実感して、涙を流すまでに至る。
それほどまでに、ジーナを大切に思ってくれていた証拠だ。
心の奥が、締め付けられるほどに、苦しさを覚えて、顔を背けてしまった。
「――いや。泣くだけが友への弔いになるものじゃないな」
フィルンは大きく一歩を踏み込んで、僕の前に回り込んできた。
その顔には、すでに堂々たる皇女の表情しか残っていなかった。
「この墓を尋ねに来た用はもう一つある。君に謝りたかった。さすがに言い過ぎたからな」
「気にしてませんよ。それに、正しい指摘でした」
妹が死んだうえでも生き延びようとしている、ということから目をそらそうとしたあげく、直面したならすぐに己の愚行としかとらえられず、あまつさえ己の死で報いよう、と言うのはどうかしていた。
妹の命をもらった、と言う事実を受け入れたうえで、それでも生きるなら、誰かの助けになりたいと、気づかされた。
きっと、目の前のこの人の言葉でなければ、僕は暗い迷宮の中をずっとさまよっていたことと思う。
「なら、もう一つだけ言わせてくれ。君はきっと、ジーナを殺してはいない」
「――どうしてそう断言できるんですか」
「私には人間の魂の色と形が見える。その魂が肉体とどうつながるのかもな。その体は間違いなく君を受け入れている。つまりな、君じゃなくて、ジーナの体が魂の交換をのぞんだんだよ」
崩れ落ちそうになった。
その言葉は、ずっと、自分で否定しつつも、求めていた言葉に近かった。
「事実ですか」
「たぶんな」
「でも、理由が分かりません」
「事件の話と盗賊共の話は私も調べたんだ。彼らは秘術の才能がある女の体をターゲットに人さらいをやっていたそうだ。夜に侵入し、女に麻痺毒を塗ったナイフを刺した後に誘拐する、と言う手口だ」
それには、いくつか覚えがあった。
倒れる前、下卑た男たちの会話の中で人を売るようなことを前提に敷いていた声を聞いた。
それに、この体を使ってすぐ。
身体が異常に重くて動かなかったのは、その麻痺毒のせい、と言われると納得があった。
「彼らがジーナを誘拐しようとして、その途中でアクシデントがあってジーナと君を火の海の中に捨て置いた。その時の君は、死の寸前だったんじゃないか」
「ええ、腹を刺されていました」
「麻痺で体の動かないジーナが、せめて君の魂だけでも助かるように『魂』の交換をした。そして、朦朧としたまま君はジーナの手足を魂の秘術で動かして強引に外へ脱出したんだ」
フィルンの推測は納得のある物だったし、否定の材料も特に思いつきはしなかった。
でも、信じがたかった。
それは、僕が盗人ではなく、せめて、ジーナの体だけでも『守れた』ことになる。
「――いいんですか、そんな救いが僕にあって」
「部外者の私でも推測できたことだ。君はとっくにこの仮説を立てる情報を手にしていただろうに、たどり着きたくなかったんじゃないか」
――そうだ。
僕はずっと自分が魂の秘術を使った、としか、考えていなかった。
妹が、ジーナの方がどういう想いでいたか、なんてことは考えもしなかった。
人を助けようと、心づかいのできる優しいジーナが、僕を助けようとしてくれたのだとしても、何の不思議もなかったのに、その可能性は一切考えもしなかった。
「そもそもね、こんなに気に病むような人間が、どんな苦境でも人の体を奪おうだなんて考えるわけないだろう。それは断言してやる」
「――」
「君は、妹にそんな決断をさせてしまったことを無意識に悔いていて、自分に罪があることにして、償うことで救われたかったんじゃないか」
あまりにも腑に落ちた。
そして、その事実に近いであろう結論にたどり着けなかった理由も理解した。
やはり、情けなくて、申し訳なかった。
ジーナに、自分の命を賭けさせる選択をさせてしまったということに。
でも、送るべき言葉は謝罪じゃない。
「――ありがとう」
前を向かせてもらえなければ、頭をよぎりもしなかった言葉を、もう一度天にささげた。
そして、僕を立ち上がらせてくれた人に向き直る。
「本当にありがとうございます。貴方の言葉のおかげで、前に進めそうです」
後ろを向き続けるのではなく。
この体が進む、未来にも目を向けて、歩き出さないといけない。
フィルンの瞳が、蒼くきらりと光る。
魂の色と形を見るという、宝眼の力を発揮させているのだろう。
ほんの数秒こちらを見つめてから、笑みをこぼした。
「そうだな、君の魂もさっきよりも良い色になった。生きようという活力が見て取れる」
「もらった命です。せめて、全うしないと申し訳すら立たない。そう気づかされました」
「友の顔であんな死に体の表情をされては見るに堪えなったからな、マシになってよかったよ」
冗談の色が一切見えない言葉だった。
「……どんな顔をしていたんでしょうか、私は」
「今だってひどいもんだ。クマを隠す化粧くらいはするべきだろうな」
しばらく、よく寝ていないし、鏡も見ていない。
もらった身体というのに、ぞんざいに扱っていてはいけないな、と今更ながらに思い直した。
「そうしょげるな。笑っていれば飾ってなくても美人だ」
「それはそうでしょう。自慢の顔ですから」
経緯はどうあれ、自慢の妹の顔である。
宝石の類に劣るつもりはないし、目の前のフィルンでようやくどっこいレベルだろう。
「――ナルシズム、いやシスコンか?」
フィルンのむむ、という顔に思わず口元が緩んだ。
なんだか張った表情ばかりのイメージだったけれど、年相応の顔もするらしい。
「――――」
かと思えば、呆けたようにこちらを見ている。
「どうしました、フィルン」
「――いや、中身が違えば顔も変わるものだ、と思ってな」
中身。ザルツとジーナの違いのこと。
これはどうしても、聞かなくてはいけない、と思っていた。
「フィルンは私の――いや、僕がジーナの中にいることをどう思っているのですか」
「色々複雑だよ。友人の兄が友人になっている、なんて得難い経験をした」
「すみません」
「いや、謝るようなことじゃあない。君たち兄妹は二人とも死ぬ運命だったが、偶然の因果があって肉体と魂が片方ずつ助かったんだ。そう考えた方が誰を恨むこともない」
ジーナはどう思うか、と一瞬頭をよぎったけれど、それを考えるのはやめにした。
フィルンが慰めようとしてくれて、そして自分はうれしく思っている。
ただ、それだけを素直に感じればいい。
「ありがとうございます」
「謝罪も礼もいらな――いや、待て」
フィルンは顎をさすりながら、考えるそぶりを見せる。
「君、今後はどうするつもりだった」
「見識を深めつつ、父の手伝いを続けるつもりでした」
もちろん、『魂』についての研究をおろそかにするつもりはないけれど、もう少し、自分の目標にも、その足を延ばそう、と思った。
それに、ここしばらく、父のことをないがしろにしてしまっていた。
少しでも多く、恩返しがしたい。
「なら、父親を除けばフリーな訳だ」
「特に所属がある身ではありませんが」
「そのうえで、私に対して恩義に思うところがあるなら話の続きといこうじゃないか」
「続きとは?」
「さっき丘の上で言ったじゃないか。君、私の元に来ないか」
「――あれは『ジーナ』に向けて言った言葉だったんじゃあないんですか」
旧来の友人である『ジーナ』を呼ぶ言葉であって。
僕に対しては、ただのカマかけでしかない言葉だった、と思っていたけれど。
「今は君が『ジーナ』だろう。この半年の評判は君が積み上げたものだ。なら、やはり、私は君を引き込みたい。どうだ、私と一緒に都に来てくれないか。君の蓄えた秘術についての知識だけでも私たちには欲しいものだし、都に来れば君が求める以上の未知の書物や出会いがあることを約束できる」
情熱的で、魅力的なアプローチだった。
自分の興味から言っても、着いていきたい。
まっすぐ前を見るフィルンのことだから、悪いことはないだろう、とも思う。
そのうえ、前を向かせてもらった恩もある。
「……本音を言えば、フィルンに報いたい気持ちもあります」
ただ、心残りも多い。
「気がかりなのは父君のことだろう」
「そうです。父にすら、何も伝えてませんからすぐに答えは――」
「よし」
フィルンは空を見上げて、傘を閉じた。
いつの間にか、雨は上がっていた。
「ならさっさと行くとしよう」
「――どこへ?」
「君の家。弁明も説得も直接会わないとできないじゃないか」
フィルンはすたすた、とすでに歩き出していた。
「――ちょっと待ってくださいよ!」
慌ててその後ろを追いかける。
フィルンはこちらを見て笑みを深めると、
「いいな、追いかけっこといこうじゃないか」
たったった、と足を速めてしまう。
なんだか、小さいころを思い出した。
くだらない理由をつけて、追いかけたり追いかけられたりを繰り返した、夕焼けの日々。
「――逃がしませんよ!」
こちらもつられて、水を吸った土を蹴って、追いかける。
風に向かっていくような感覚。
走る、と言うのも本当に久しぶりだった。