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北方前線  作者: 水戸 連
0章 始まり
4/36

1-1 果てない償いを求めて

 光が、満ちてきた。


 ――生きてる。

 感覚もあるし、風に揺れるカーテンの音もよく聞こえる。

 体を起こそうとして――異常に、重かった。


 筋肉が突っ張っているかのように、力がうまく入らない。

 全身の歯車が、空回りする。

 心なしか、呼吸まで辛いような気がする。


「よかった、目覚めたのね」


 優しい声が聞こえてくる。

 どうにか、その正体を見ようと、硬い首をひねる。

 白衣に身を包んだ、温和な表情の女性がいた。

 穏やかな表情に見覚えがあった。


 診療所で女医として勤めている人で、風邪をこじらせたときに一度お世話になった記憶がある。

 女医さんは、こちらと目が合うと、眉をひそめた。


「辛そうね。痛いところはある?」


 特にどこが痛い、と言うわけではない。

 ただ、体中が動こうとするのを拒否するかのような気がするだけ。

 筋肉が言うことを聞く気がないみたいだ。


「きんにくつう、みたいです」


 喉すら、その症状にもれず。

 かすれた、か細い声にしかならなかった。

 女医さんはううん、と首をかしげた。


「たった数日で筋肉が弱っている、なんてこともないと思うのだけど――うん、でも安心して。とりあえず、命に別状はないはずだから」


 命に別状、と言われて、今ベッドに伏している理由と、昨日の惨状を思い出した。

 自分は腹を刺され、妹も意識がなかったはず。

 そう、自分が無事であったのなら。


「――ジーナは、どうなりました」

「そうね、詳細を知りたいわよね。順を追って話すわね」

「おねがい、します」

「貴方たち兄妹を発見してくれたのは、軍人さんよ。ちょうどこのあたりを警邏に来ていたロード帝国の軍人さんが賊に襲われているところを助けてくれたんですって」


 うっすらと、記憶はある。

 燃える炎の中、巨人に助けてもらったんだ。


「そこでこの病院に運び込んだの。あなたの方は軽傷だったけれど、もう一人は――」


 そこまで口にして、女性はそっと目をそむけた。

 けれど、今の言葉はおかしい。そんなはずはない。

 腹を刺された僕が軽傷で、ジーナの方が手を付けられない、なんてことあるもんか。


「ジーナの、方が、重いんですか」

「――ちょっと混乱してるようね。いいわ、実物を見た方が安心できるでしょう」


 女性は席を立つと、そのまま視界の外へ行った。

 もしかして、容態の写真でも見せてくれるのだろうか。

 無事であることさえ、それさえ確認できれば、まずはそれでいい。


「見てごらんなさい、無事でしょう?」


 女性が手に持っていたのは、手鏡。

 ――そんなものを見せられても、自分の体が見えるだけじゃあないか。


「――――」


 そんな文句は、鏡に映った顔を見て霧散した。

 瞳の色は、草原の緑をまとった碧だった。

 ――僕は、父と同じ紅の色をしていたはず。

 髪の色は金色で、腰ほどまでに長い。

 ――紅い、短髪のはずなのに。


 なにより。映っている顔が、自分じゃない。

 ジーナのものだ。


「――どうして」


 最愛の妹の顔が、鏡の中に居た。






 しばらくして、父が来た。

 父は、医者の先生の「後遺症が残るけがはなさそう」と言う言葉を聞いて、


「そうか」


 とだけ小さくつぶやき、わずかに頬をほころばせた。

 その顔を見て、どういえばいいのか分からなかった。

 父の安心した表情は『ジーナ』に向けられたもの。

 僕に向けられたものではない。


「体が痛むのは知っているが、どうしてもこれだけは付き合ってくれ」


 そう、重い顔で言われた。

 意図は分からずとも、それに反対する理由もない。

 小さくうなずくと、父の手で抱え上げられ、車いすに乗せられた。

 ガタガタと床の振動を感じながら、思考にふけろうとして、考えがまとまらなかった。


 すぐに、その会場は見えてきた。

 重くて、湿った空気が漏れる、黒を誰もが纏う空間。

 葬式。

 ――だれが、なんて。もう、わかっているような、わからないような。






 奥に、花束を手向けられた棺桶が鎮座していた。


 その蓋は開いているけれど、座った状態では中身は見えない。

 からから、と車いすに押されながら、集まる人々の波をかき分ける。

 誰もが、こちらを見るとそっと一歩引いてくれた。


 ――こちらへの扱いの重さが、中身をどうしようもなく推測させる。


 棺桶の目の前にまで来て、車輪が止まる。

 そっと、その棺桶に手をかける。

 自分の物ではない手は、とても小さく見えた。


 ――夢を、思い出した。シチュエーションは、随分違うけれど。あの時も、棺桶にかけた手は、小さく見えた。


 力を入れて、軋む体を持ち上げて。

 どれだけ予測がついていても、中身を見るまで、確信はない。

 もしかしたら、違うかもしれない。

 そう、思って。覗き込む。


 ――棺桶の中に入った、自分の体を見下ろしていた。


 見間違いようもない。毎朝、鏡で見てきた自分の顔だ。

 ――どうして。


 心の中の疑問が、目の前の景色をよくとらえようと、目を凝らすきっかけになった。

 紅の短髪はほんの少し丁寧に切りそろえられていて。

 肌はわずかにでもよく見せようと、化粧が重ねられている。

 きっと、今まで自分が視てきた朝の顔よりも、整った顔に違いない。


 でも。そんなのは、小細工。

 目の前にあるのは血の気も通っていなくて、呼吸も、鼓動もない、肉の塊でしかないとはっきりわかるから。

 思わず、その手を握る。冷たくて、力も感じない、死人の手だった。


「どうして」


 自分の喉から漏れた声は、甲高い。

 かつての自分とは程遠い。

 声だけじゃあない。

 かつての自分だったモノは目の前に横たわっている。

 すべてが、過去の自分と隔たれている。


「もう、離れなさい」


 父の、優しくも低い声が後ろから聞こえてきた。


「気持ちはわかるが、式の邪魔になる」


 呼びかけた相手は、僕なのに。


「だから、離れなさい『ジーナ』」


 呼びかけられた名前が、妹の物である、と言う事実が、とても、とても。

 受け入れ、られない。






 ――それからは、なんだかぼんやりと、虚ろな気分だった。

 ジーナの友達に慰められたこと。

 レックスや友人たちが涙を流して花を手向けていたこと。

 父が参列者の相手をしてくれていたこと。

 彼らが無事な辺り、村も無事とは言わずとも、燃え尽きるような火事ではなかったらしい。


 あとは、盗人たちについて軍人さんたちが教えてくれた。

 彼らはあらかた、軍によって掃討されたらしい。

 ただ、彼らの奪った物の中で僕らの家から盗まれたものだけが見つからなかったそうだ。

 父の造った、生涯最高の傑作の高性能義肢。

 そんなものがあることすら知らなかったけれど、父の沈痛な表情を見るに、それはとても大切なものだったようだ。

 けれど、父がこちらを振り向くころには、穏やかな笑みが貼り付けられていた。


「いいんだ。――ジーナだけでも、無事でよかった」


 僕の頭を撫でながら、父の視線は棺に吸い込まれていた。

 僕も、その視線と同じように、自分の死体の入った棺を見つめていた。

 何も変わらないし、何も取り出せないと分かっているけれど、それでも目を離せなかった。

 今の僕は、何なのか。

 その問いの答えすら形にできない状況で、それでもぼうっと、棺の奥にいるかもしれない何かを視ていた。






 夜が明けて。


 甘い香りが、鼻を抜ける。

 同時に、空腹を強く感じた。

 なんだか、それすら場違いな気がしてならないけれど、体の欲求を抑えきれなくて、香りの根元を辿って階段を降りた。


 なんだか慣れない間取りが新鮮だった。

 燃えた家の代わりに、空き家を一つ貸してもらっている。


 この家が誰のものか、というのは聞かなかった。

 ほんの、昨日まで生活していたような跡があった。

 たぶん、盗賊たちに殺された誰かの家なんだろう。


 ダイニングに出て、父と目が合った。


「ジーナ、飯食うか」


 テーブルには、カゴに入ったパンと、鍋に入った野菜スープ。

 自分が座っていいのか、さえ迷ったけれど、ジーナの席に座った。

 空腹を満たしたかった、と言う根源的欲求もあるけれど。

 昨日と同じ量のパンとスープを前に、父を一人にしたくなかった、と言うのもある。


 味覚はあって、腹も満たされる。

 けれど、『自分』が生きているのかどうか、分からなかった。


 自分の内にザルツとしての記憶、魂は確かにあるけれど、この肉体はジーナのもの。

 外から見れば、自分はジーナでしかない。


 けれど、思考と記憶のすべてがザルツであろうとする。


「ジーナ、おかわりあるからな」


『ジーナ』と呼びかけられるたびに、自分の根幹が揺らぐような感覚を受ける。

 今の自分は、何なんだ。

 差し出された二つ目のパンには、どうにも口をつける気になれなかった。






 

 数日後。

 ようやく、真っ当に立つくらいなら体の軋みが弱くなってきたころ。


「こんにちは、お嬢さん」


 家を訪ねてきたのは、晴れやかな声を携えた、淡い緑の長い髪を携えた軍人だった。

 髪色だけでなく、振る舞いの柔らかささえも淡いもので、ひどく棘の少ない人だった。

 ただ鮮烈に、彼の影だけは、記憶の中にあった。


「助けてくれた軍人さんですね」


 村が襲われた日、火事になった家から逃げ出した僕を、盗賊たちの魔の手から巨人を駆って守ってくれた人だ。


「――僕はイヨーテ=ミンクール。君の兄を救えなかった軍人でもある。その謝罪に来た」


 端正な顔立ちが、悲壮にゆがむ。

 彼としては慚愧の念にたえずここを訪ねたのかもしれないが、自分にとっては何とも言い難かった。


 そんなことを謝られても今更、と言う気持ちもある。

 そもそも、イヨーテさんが来た時点でザルツの肉体はもう助からなかったんだろう。

 そのくらいは分かってるから、彼の謝罪は受け入れることもできないし、また必要もなかった。


「いえ。助けてもらったのに謝られても困ります。謝罪は不要です」


 自分でも抑揚がないな、と思うような声だった。

 助けてもらったのはありがたくて、感謝の気持ちがあるっていうのに、身が入らないのだ。

 ただ、謝罪されるような資格が自分にはない、と自分自身を卑下したくなるような気分になってしまうだけ。


「謝られても困る、というのは当然か。それなら、今日の訪問こそ詫びるべきかな」

「気にせんでください、まだ日が経ってなくてジーナも整理がついとらんのです」


 父のフォローを聞いてようやく、自分が怒っているような誤解をさせてしまったかも、と気づいた。


「すみません、本当に感謝はしています。ただ、自分のほうこそ申し訳ない気持ちでいっぱいなんです」


 誰に、何に謝るべきかも定まらないけれど。

 ひどく、ひどく、謝りたくて、申し訳なくて、胸が張り裂けそうだ。


「礼ならいらない、軍人としての責務だ。それに、君が謝ることは何一つない。生きること、生き残ることは人間にとって当然の権利だ」


 イヨーテさんの言葉は、あまりに正しく聞こえる。

 ただ、それはまっとうな手段であれば、だ。

 僕は今、妹の体をどうしているのかもわからない。

 僕が生きているのか、妹が生きているのか、さえよくわからない。


「違うな、そんな説法を垂れに来たわけでもない。用件はもう一つある」


 イヨーテさんは卓上に、二枚の紙を置いた。

 描かれた荒くれた人相画に、覚えがあった。

 僕の家に侵入した盗人の顔とそっくりだったから。


「私たちを襲った盗賊ですね」


 間違いないのは、自分の体を殺したのは彼らと言うこと。

 その恨みは、決して浅くないもので、今の自分にとって確かなものだと断言できる。


「彼らは帝都と西方を結ぶ山道のがけ下で死んでいた」

「――本当ですか」


 漏れた自分の声は、心底、低かった。


「ああ。複数の証言もあってね、間違いはなさそうだ」


 僕の体を殺した彼らは、あっけなく、僕の知らないところで死にやがった。

 復讐、などと言うものは始まりすらしなかった。


 ざまあみろ、と言う気持ちにもならなかった。

 爽快感も、後悔もなく、勝手に己の敵が死んでいる。


「盗まれた義肢は見つかったのか?」


 父の問いに、軍人さんは首を横に振った。


「いいや。行き先から帝都で売りさばかれたんだろう、とだけしかわかりませんでした」


 どさり、と重たい音を響かせる袋が置かれた。

 袋の口から、金貨がポロリとこぼれるほど、中身の詰まった袋だった。


「せめてな、その代金らしきものは置いておく。死体のそばの馬車にたんまりあったよ」


 もし、仲間割れなり、誰かの復讐なり、と言うことであれば金貨なんて放っておくことはしない。

 本当に、ただの事故で彼らは死んだんだろう。

 父は受け取りながら、その目は伏せたままだった。


「金に換えがたい大切なものだったのですか」

「ああ、人形遣いだった妻の遺品のような物でね。大切な思い出だった」


 父の声は震えて、悲しみに満ちていた。

けれど、僕にはひどく遠く聞こえた。

 やりどころのない復讐心に折り合いをつけながら、もう一つの疑問が頭をよぎっていたからだ。


 どうして、死んだはずの僕の心が、妹の体を動かしているのか。

 その疑問だけが、この体で目覚めてから楔のように心に刺さり続けていた。

 眠りについたままの妹の魂は、どうすれば起きるのか。

 くすぶった心の炎は、そちらにだけ関心を向けていた。






 部屋にある秘術書を片っ端からめくり返した。

 肉体を、別の人間の心が操る。

 通常の物理現象で、そんなことは起こりえない。

 あるとすれば、『秘術』だけだ。


 なぜ、あるいはどうして。

 古い秘術書や近代の研究までひっくり返すように目を通す。

 端々まで目を通して、わずかな糸口を手にする。


『魂』を操る秘術。


 それなら、他人の体を自在に操る可能性があることは分かった。

 けれど、足りない。

 根拠も、具体性も、理論も、そのすべてが、手で持てるほどの本では、不足している。






 今日も無言だった食事の後、「少し出かけてきます」と言って外に出た。


 父の前でも、あるいはほかの誰であっても、『ジーナ』を演じている。

 説明して信じてもらえる気もしない。

 それに、生きているべきはジーナとも思っていたから。外側だけでも、『ジーナ』を残したかった。


 唯一、スカートを履くのには抵抗があったから、スラックスを選んだけれど。

 村を歩く間、時折話しかけられては、気もそぞろな返事をした。


『ジーナ、学校これそう?』『ジーナちゃん、これ食べていきなよ』


『ザルツ』の葬式の話は村中に広まっているはずだし、気を遣ってくれているんだろう。

 それはありがたいはずだった。

 可能な限りの愛想で、礼をしつつ、無難な返事をして。

 彼らの視線から隠れ、路地の裏でうずくまる。


「……ごほっ、おぇ」


 吐くものもないのに、気管が体の中の『何か』を異物と認識して吐き出そうとする。

 何か、と言うのは分かりきっている。僕の魂だ。

 ジーナ、と呼ばれるたびに、罪悪感がやまない。

 視界の隅に垂れ下がる金色の髪が、華奢な腕と足が、どうしようもなく自分ではないと自覚させる。


 ――自分が、この体を乗っ取った悪党だと、否が応でも理解させられる。


 気持ち悪くて仕方なくて、喉元がむせ返る。

 嗚咽さえ、『ジーナ』の声であることになおさら、心がぎりぎりと締め付けられる。


 このまま、僕の魂ごと吐き出せれば、ジーナの魂だって戻ってこないだろうか。


 そんなことで魂を目覚めさせられるならとっくにやっているが、付け焼刃の『魂』の秘術の知識が、意味はないぞ、と自制を求めてきた。

 今僕の魂を手放しても、妹の魂は眠ったまま、空っぽの体が生命を停止するだけだ。

 妹を呼び起こす方法を見つけてからでなければ意味がない。

 不快感も、空想も、全てのみ込んで、もう一度歩き出した。

 まだ、くたばってはいけない。そんなことでは、妹の体を奪った罪滅ぼしはできないのだから。






 目的の建物の扉をギィ、と開く。

 ジーナの体の影響か、その扉はずいぶん重く感じた。

 眼に入ってきたのは、十か二十程度の本棚。

 広い、とは言えないけれど、この村中の書物が詰まっている。


「おや、ジーナちゃんいらっしゃい。珍しいね」


 出迎えてくれたのは、片眼鏡をひっかけた初老の男性。

 彼はこの街の図書館の司書さんで、『僕』はひどくお世話になった。

 けれど、この感じだとジーナはあまりここを訪ねることはなかったらしい。


「ええ、『魂』について書かれた文献を探してまして」

「――ふうむ、ずいぶんマニアックな。基礎論の話ならいくらかあるけれど、ねえ」


 司書さんは首をひねる。

 僕もそのあたりの、原典に当たるような話はいくらか読み込んでいる。

 けれど、それではだめだ。

 魂のという特殊な秘術について詳しく言及するようなものはなかった。


「取り寄せ、と言うのはできませんか」


 僕たちが住むロード帝国には、秘術の研鑽を誰でも行えるように、都から田舎へ書物の配達をほぼ無償で行っていて、中でも、注文すれば街の図書館に下ろしてもらえるサービス、というのがある。


「できないわけじゃあないが、名前のわからんものまでは取り寄せられないよ?」

「名前ならここにメモしてます。今帝都に送ってもらえれば、定期便の配達にも間に合うはず、ですよね」


 昨日読んだ秘術書の中にあった参考文献をメモしたものだ。

 少なからず、これを辿っていけばより詳しい情報に当たれるはず。


「……ずいぶん手際がいいねえ。兄貴に教えてもらったのかい」


 自分ですでに知っていたことだからつらつら語ってしまったけれど、あまりここに来ない『ジーナ』がいうには違和感が出てしまったか。


「ええ、まあ。そんなところです」


 どう答えた物か、という迷いが滲んだ曖昧な答え。

 司書さんは「しまったな」と小さくぼやく。


「悪い、余計なこと聞いた」


 申し訳なさそうに頭をかきつつ、目をそらされた。

 どうも、自分の表情の薄さが落ち込んでいるようにでも聞こえたようだ。

『ザルツ』の死からまだ数日。立ち直れていない、と思われても仕方ないし、必要以上の弁明をする気にもなれなかった。


「取り寄せとくから来週にでも来なさい、その頃には届いてるだろう」

「ありがとうございます」

 ついでに、家にはない秘術書もいくつか借りて、図書館を後にした。






 ひと月ほどかけて、秘術書を読み倒した。

 机の横には借りた本だけでなく、その写し、要点をまとめたもの、古語を翻訳するためのものがうずたかく積まれている。


 しばらくは学校にも行っていない。

 父の手伝いと、買出し、そして本を求めて図書館を訪れる程度しか外出はしなくなった。

『ジーナ』を演じきれない、という理由でもあったけれど。


 何か、漠然と、恐怖があった。

 だから、書物に没頭した。

 それでも、まだ、結論は遠い。

 もう一冊、積み上げた本に手をかけた。






 数か月たった。

 図書館に行って借りた本は百近く。

 論文集も合わせればもっとだろうか。


 ありふれたものだから、と司書さんに言われてもらったものも多くなって、本棚は埋まりつつある。

 外れもだいぶ引かされた。


『魂』と言う概念は大規模な死に関連して発展する。

 大切な人が亡くなった時。

 災害で、あるいは疫病で多くの人が亡くなった時。

『魂』の秘術を用いて、多くの秘術師が彼らをよみがえらせようと試みた。

『予防』あるいは『治療』が医術なのに対して、死人をよみがえらせようとする試みが魂の関わる秘術の根本だった。


 だから、歴史にも残るような事件には、その裏で『魂』の秘術を使って死人をよみがえらせようとする実験も多数行われていた。

 その多くは、失敗でしかない。

 動く死体、仮想思考、などという高度な技術についての研鑽は深まったらしいが、死んだ人間をよみがえらせる、と言う結論には至らなかったようだ。


 そして、調べ倒して、一つの秘術に行き当たった。

 魂の交換。

 余計な手順を踏むことなく発動できる秘術で、瀕死の自分でも発動しえた秘術。


 そして、生きている人間の肉体を奪う秘術は、これしかなかった。

 肉体と魂を入れ替え、知識と技術をより手早く教えこむ、という一種の教導のための秘術だ。古くは、師匠の出来上がった肉体で技を真似ることで、そのコツを掴ませる、なんて使い方をされていたようだ。


 発動するには、秘術師としての才と、当事者間の秘術的つながり、そしてそれを起こすための強い意志が必要らしい。

 本来は手順を踏んだ呪文や特殊な法陣を必要とするらしいけれど、死に瀕した時に暴走すると必要な手順を省略することもあるんだとか。


 才はある。母の名は大陸を超えて響き渡るほどだったらしいし、その血を受け継いでいるのだから。

 秘術的つながりなんて、兄妹と言う間柄では十分だ。

 でも。こんなこと、望んでいないはずだ。ただ、僕はジーナが無事であってほしかっただけ。


――違う。それだけを願ったわけじゃなかった。


自らの非から逃げ出そうとする思考を、理性の縄がつなぎとめた。

僕は、死にたくないと、願った。


 冷えた汗が、背筋を伝う。

 まさか、僕が死にたくないと願ったせいで魂の交換が発生した?

その結果、妹の体を奪ってしまった?


 じゃあ、それが事実なら。

 僕は、妹の魂を死体に押し込んで、妹の体を奪って生き延びてしまっている。

 妹の体を間借りしているんではなく。妹の魂を殺してまで、生き延びるためだけに妹の体を奪ったんだ。


 机に拳を振り下ろした。

 そんなこと、そんなこと。あっていいはずがない。

 自分がそんなことをしていないと信じたかったし。

 どうにかして、必ず、妹にこの体を返してやらないといけないと思っていたのに。

 それは、叶わないのか。

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