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彼女が好きなのは、俺か、俺の筋肉か(別章追加)  作者: 日室千種
彼女が好きなのは、俺か、俺の筋肉か
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甘露の恵みに生き返る

 三ヶ月間に及ぶ、東部地方遠征。

 鍛錬不足を実戦さながらの訓練中に補うため、俺は自分自身に無茶な負荷をかけた。

 疲労したおかげで夜毎気を失うように眠ることができたが、常に神経が過敏になり、逆に注意力は散漫になった。

 上級騎士として、後輩や配下に当たる騎士たちや従者たちには影響を与えないよう、歯を食いしばって踏み止まれたのは奇跡だ。


 血反吐をはいたし、血尿も出た。それでもなお、誰よりも動き、誰よりも自分を追い込んだ。

 過酷さに、俺の体は削ぎ落とされた。

 ただ筋肉が落ちたわけではない。余分な脂、余分な筋肉が失われ、動くための体としては、過去最高に研ぎ澄まされた。

 だが、地削獣を乗りこなすには軽くなり過ぎた。


 最終訓練の最中、激しい動きを強いた地削獣からあえなく振り落とされ、巨体犇めく地面へ落ち、圧死寸前を救い出された。

 何もかもが、上手くいかない。

 自業自得だ。

 死にたくなるほどに惨めだ。


 汚泥のような自己嫌悪にどっぷりと浸かりながら目を開けると、俺が寝ている寝台の脇に、真っ赤な目をした彼女が座っていた。


 窓にガラスが嵌っている。殺風景だが清潔感のある室内。僻地の東部ではなく、王都の医務室だろう。意識のない間に運ばれていたようだ。

 器に限界まで注がれた水のように、俺は表面上の静かさを保ったまま、状況を把握しようとした。


 だがダメだ。

 俺の全身、視線も嗅覚も、髪の一本、毛穴の一つまで、全てが彼女をうかがっている。

 吸い寄せられてしまう。

 同じようにこちらを凝視する緑灰の眼と視線が合って、水は溢れた。心が揺れる。滝を浴びるように、歌を歌うように、月を見上げるように。どうしようもなく。


「……っ」


 そんな自分が惨めで滑稽で、危うく俺は悪態をつくところだった。だが涸れだ喉は音を成さず、俺は未練と執着の塊を苦心して飲み込んだ。


 この期に及んで、最低にみっともない状態の俺の前に彼女から現れるとは。

 会わないままでいれば、あの日々もいつか甘酸っぱい思い出にできたはずなのに。

 万が一の希望も残さず、何事もなかったように風化に任せることも許さず、弱った俺の息の根を止めにきたのだろうか。

 なにしろ彼女は、もう俺も、俺の筋肉も必要としていないのだから。


 そう絶望する心と、彼女から目を離せない体が分離する。

 いかに屈強な体を持とうと、彼女の前では俺は落ち葉の小舟だ。

 俺に別れを告げる顔すら、見つめていたい。もう少しだけ。


「アルバイン様…」


 けれど彼女は、食い入るように俺を見つめているうちに、ふと唇を震わせて、それからどっと泣き出した。

 俺の手をしっかり握る白い手は細かく激しく震えている。

 咽び泣きが、医務室に響く。


「心配しました。心配しました。……よかった」


 ついに彼女は、握ったままの俺の手の上に顔を伏せ、頬を押し当てた。


 信じられないほど柔らかな頬が、涙に滑りながら何度も俺の手に擦り付けられる。だがその涙も、彼女と俺の手の間には入る隙がない。

 窓から差す薄い光が、彼女の細いうなじと肩をうしろから照らすのを、俺はぼんやりと見た。


 俺の冷たく粘ついた泥のような感情は、どこへ行ったのか。

 彼女はそこにいるだけで、いとも簡単に、恐ろしいほど俺を支配した。

 萎びた草が恵みの雨に縋って立ち上がるように、俺の乾涸びた心は、彼女の優しさをたちまち吸い上げた。


 なんという甘さだろう。もっと、欲しい。もっと。

 突き動かされて、掠れた声がこぼれ出た。


「心配、してくれたと?」

「し、んぱいするに決まってるじゃないですか」

「こんなに、情けない男を?」

「こんなに心配したのに、何をおっしゃってるんです!」


 彼女への未練も、任務中の失態も、終わらない夜をもたらした絶望も、俺にのしかかっていた暗く重たいあらゆる事柄が、彼女の涙が落ちるたびに、ひとつひとつ泡のように消えていく。


「若い方を庇って落ちたのだと伺いました。地削獣たちが、貴方を踏むのを恐れて、ぴたりと進行を止めたそうですよ。そんなの凄いって、コルティスはすごいって皆さんおっしゃって。でも、でも、もしかして、ってこともあるのに、そしたら、だって……もう、会えないなんて」


 目が、緑灰色の目が溶けそうだ。甘い涙で、とろとろと。


 今、体が動かなくてよかった。

 もし動いたら、俺はきっと心のままに彼女を捕らえて甘露を啜る。彼女の意思など、無視をして。


 だが、衝動的に食らいついても、一瞬の隙で逃げられるかもしれない。彼女を失う辛さをもう知っているから、それはできない。


「ネフィリア嬢」


 名前を教えて。

 そう問えば済むだろうか。

 ――だが、彼女は初めに名乗らなかった(・・・・・・・)のだ。

 だから俺は、彼女に差し出されたあらゆる手がかりを汲み取って、正しく答えに辿り着かなければならない。


 俺はずっとそう思っていた。

 薬が効いて痛みはないが、頭も大概ぼんやりとしている。

 だが、今たどり着かねば。また、見失う前に。


 彼女が今、部外者が立ち入れない騎士団の医務室にいること。誰かに俺の任務中の出来事を既に聞いていること……。

 荒れた自室に籠もる、酒と混じった石鹸の香り。薄暗い部屋でひたすらに彼女の名を求めて繰った紙、紙、紙……。

 点と点が結ばれ、線となり、彼女の輪郭をかたどっていく。

 もう今にも、彼女の姿が浮かび上がりそうだ。


 だが、間に合わない。

 現実の彼女は目を瞬いて、悲しげに眉を下げた。


「申し訳ありません。私ったらまた無理に押し掛けてこんなご迷惑を……」


 ダメだ。また、彼女は立ち去るつもりだ。

 俺は推理も何もかも忘れ、渾身の力を込めて、彼女に握られた幸福な指先を動かした。ほんの少し。


 どれほど立派な体をしていても、この様では何の役にも立たない。

 彼女の正体に辿り着くこともできず、これから先の療養生活で、彼女の好んでくれた筋肉はさらに落ちてしまうだろう。

 ああ、いいさ。

 この無力で情けない底辺の自分を晒して、剥き出しで、そのままで、聞くしかない。

 聞かずに終わるより、よほどいい。


 俺は、俺の指の動きに気がついて座り直してくれた彼女に向かって、唇を湿らせてから問いかけた。


「ご令嬢、俺に貴女の名を知る栄誉をくれないか」




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