第七節 「But a conflict arose.《しかし争いが起きた》」
「では始めましょう」
密閉度の高いプラスチックのマスクにゴム手袋をつけ、酒川は小型のクーラーボックスから試験管を取り出す。
「やけに厳重だな」
「他人の精子を触ったり嗅いだりしたくないだけです。私は潔癖症なので」
丸テーブルの上に置いた藁人形のそばに試験管を置き、酒川は懐から安定器を取り出す。
「スタビライズ!」
小さく叫びながら、酒川は左胸に安定器をかざす。
『Stabilize!!』
凱と似たような電子音声が流れ、酒川は鈍い灰色の光に包まれた。
すぐに光は晴れ、短い黒い毛並みに覆われた耳の尖った悪魔が姿を現す。両手には紫の宝石がはめ込まれた暗い鋼のような鎧が装着されていた。凱とは見た目も装いも違ったが、しっぽは凱と同じ先の尖った黒い鞭のようなものだった。
酒川は一時的に消失したプラスチックのマスクを新しくつけ直し、試験管の蓋を開ける。
「ゴム手袋はわかるが、変身する前にマスクつける必要はなかったんじゃないか?」
「私は完璧主義なので」
溶けかかった精液を取り出し、藁人形の腹に埋める。
「あとは精液が溶けて藁に溶け込むのを待ちましょう」
「いや、俺が溶かす」
凱は右手だけを毛むくじゃらな悪魔の手に変え、宿した獄炎で藁人形を軽くあぶった。
「便利ですね。私も安定器無しでそのくらい制御できればいいのですが」
「安定器無しでも少しは制御できないと、戦闘で困るから練習したんだ。あんたもすぐに慣れると思うぞ」
「やめておきます。リスクが大きすぎるので」
安定器は悪魔に変身した際に力を制御するための装置だ。凱のように安定器無しでも悪魔の力は使えるが、安定器を使用しないまま長時間悪魔の姿のままでいると、人間の姿に戻れなくなったり、思いもしない能力が発現して暴走する危険性を秘めている。もともと戦闘向きではない酒川が安定器無しで変身するメリットは薄かった。
「そのくらいで良いでしょう。藁にDNAが染み込んだようです」
酒川は凱の手首を掴んで藁人形から遠ざける。
「わかるのか?」
「あなたもハートブレイクの副産物として、なんらかの手段で相手の願いがわかるのではないですか?」
「まぁな。そうか、あれはみんなそうなのか」
「何人もの悪魔の力を見てきましたが、大抵の能力はそれを使いやすくするための別の能力が伴うようですよ。無自覚に使っている悪魔は多いですが」
「救世主もそうなのか?」
「それはわかりません。私の能力ではまず勝ち目はありませんから、戦ったことはないです。ただ、警戒するに越したことはないでしょう」
言いながら、酒川は藁人形を部屋に用意した大きな鉄の檻の中に置いた。
「藁人形と対象者の位置を交換するんだったな。その太い鉄格子の間に藁人形を置くとどうなる?」
「対象者の体を鉄格子が貫きます。ですが、対象者がどんな姿勢で現れるかわからないので、オススメはしません」
「そうだな、聞き出す前に死なれちゃ困る」
「……準備はいいですか?」
檻から十分に離れ、振り返る酒川。凱は安定器を取り出す。
「変身しておいたほうがいいか?」
「任せます。ですが、所持品は交換できないので、安定器や神器は元の場所に取り残されます。基本的には安全だと思ってください。それに今回のターゲットは最悪の場合でもイリーニの力を授かった救世主でしょうから、こちらが人間の姿でいれば攻撃してくることはないでしょう」
「そういえば、イリーニから力を授かった救世主は、どうも対悪魔専用の能力くらいでしか攻撃できないみたいなんだが、人間の姿の俺たちには、その攻撃は通るのか?」
「やってみなければわかりませんが、悪魔の居場所がわかる能力を持った救世主は、悪魔の姿に変身した悪魔しか居場所を認識できなかったそうです。まず通らないと思っていいでしょう」
「そうなのか。またいいことを聞いた」
凱は安定器をズボンのポケットにしまった。
「このくらいはサービスです。それだけの前金をもらいましたからね」
酒川が、藁人形に向けて手のひらをかざす。
「では、交換します」
酒川の手の鎧にはめ込まれた宝石が、妖しく光り輝く。
檻の中に置かれた藁人形が一人でに起き上がり、震え出した。
「ーーーーハァッ!!」
酒川がかざした手のひらを藁人形に向けて押すと、藁人形の周囲の空間がぐにゃりと歪んだ。
藁人形は歪んだ空間に呑み込まれ、次の瞬間、藁人形のあった場所に全裸の男が現れた。
「なっ、なんだ!? ここは、どこだ!?」
素早く変身を解いて人間に戻る酒川。
「成功しました」
うろたえる全裸の男は、風船のようにはちきれそうな腹をしており、毛深かった。
「なんで裸なんだ? 風呂にでも入ってたのか?」
酒川は眼鏡の位置をクイと直し、答える。
「言ったはずです。所持品は交換できない。服や身に付けた腕時計はもちろん、入れ歯や義手、ペースメーカーに至るまで、元の場所に取り残されます」
「そういうことか……つまりコイツは今完全に丸腰なわけだ」
「誰だお前たちは!? 私に、何をしたぁ!?」
鉄格子を握りしめて叫ぶ男。その指は水風洗のようにブヨブヨに膨れていた。
「騒がしいですね」
「だが救世主じゃなさそうだ。とっとと尋問を始めて、黙らせるか」
酒川は檻に近づこうとする凱を手のひらで制す。
「ここは私が。あなたでは聞き出す前に殺しかねません」
「それもそうか。悪いな、何から何まで」
眼鏡のレンズを光らせ、酒川は笑う。
「構いません。それに私は、人を痛めつけるのが結構好きなんですよ」
「な、何をする気だ……やめろ、金ならいくらでも出す」
全裸の男は檻の中で尻餅をついたまま後退りする。すぐに鋼鉄の檻がその行手を阻んだ。
「どうやって?」
せせら笑う酒川の表情は、悪魔と呼ぶにふさわしい。
「解放してくれれば、あとで必ず振り込む。本当だぞ? お前らが、一生遊んでも使い切れないような額だ」
目を泳がせながら無理矢理笑みを作る裸の男は、あまりにも無様だった。
酒川はますます笑みを口元に強く刻み、威圧するようにコツコツと足音を立てて男に歩み寄る。怯える男の反応を楽しんでいるようだ。
「信用できませんね。生きたまま解放すれば、あなたは間違いなく我々を殺すでしょう。命あっての物種です。死んでしまえば、いくらあろうと意味はありません」
「ならどうする? 俺を殺すか? ハハ、できるものならやってみろ、俺は、救世主だぞ?」
「なんですって?」
さすがに警戒する酒川。しかし、その背後で凱は瞳を光らせる。
「ハッタリだな」
断言する凱に、酒川は思わず振り返った。
「俺には、お前のあらゆる願いが見える。安定器や神器が欲しいなんて願いは、その中にない」
「なっ……」
言葉を失うその表情が、何よりの証拠だった。
「本当に、便利ですね、あなたの能力は。うらやましい限りです」
「そうか? あんたの能力も、俺には相当うらやましいがな」
「ーーーー嘘だ、嘘だぁ!! おい眼鏡。コイツは嘘をついてる。お前を騙す気だ!」
裸の男は凱を指差して喚き散らしたが、二人は動じない。
「指をさすな、気持ち悪い」
「私は眼鏡などという名前ではない。その呼び方は不愉快です」
言いながらゴム手袋をはめ直し、酒川は背後に置いたアタッシュケースから細いペンチのようなものを取り出す。
「少なくとも我々を攻撃できる救世主ではなさそうですね。安心して尋問できます。相当騒ぐでしょうから、あなたは退出していていいですよ」
「いや、ここで見学させてもらうよ。いい勉強になる。その道具は何に使うんだ?」
「爪を剥ぎます」
「なるほど、確かにそれなら死にはしないか」
なんでもないように交わされるやりとりに、震え上がる男。
「や、やめろ……目的はなんだ? 何が知りたい?」
「イリーニを呼び出せる救世主の名前を、知っているだけ教えていただきたい」
酒川が細いペンチをカチカチ開閉させながら言うと、裸の男はすがりつくように鉄格子を掴む。
「わ、わかった、教える、教えるっ! だから、何もしないでくれ!!」
「どうしますか?」
「その前に、イリーニの能力が知りたい。あいつに悪魔を攻撃できる能力はあるのか?」
「お、お前ら、例の鎧の悪魔か!?」
「早く答えろ、俺はせっかちなんだ」
凱が一歩踏み出しただけで男は悲鳴をあげ、懇願する。
「わ、わかった、わかったから! 教えるっ!! だから何もしないでくれ」
「ーーーーということは、イリーニにも悪魔を攻撃する手段があるのか」
「……あ、あぁ、そうだ。攻撃と呼べるかは知らないが、イリーニ様は、教典の通り心臓を持ってる!! 神聖な光を放つ金の心臓だ。その光にあてられた悪魔は正気を失って、悪魔の力も使えなくなるそうだ」
「なんだと!?」
顔を見合わせる二人。神格化された人間であるイリーニに神となった今でも心臓があるのはうなずける。二人が驚いたのはその点ではない。
「つまり……」
「ーーーーあなたの悪魔の力では、平和の神を倒せない、ということになりますね」