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悪魔の咆哮(あくまのうた)  作者: 金川明
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第二節 「I was lonely.《私は寂しかった》」

 麻倉(あさくら)(がい)には、尊敬する父と、敬愛する母がいた。二人はイリーニを信仰する小さな教会の司祭で、(がい)は平和の神イリーニの教えを受けて育った。

 しかし、彼には一つだけ悩みがあった。それは、時折酷い悪夢を見ることだった。泣きじゃくる若い女に首を()められるその夢は、夢と思えないほどリアルで、目を覚ましたあとも首が締まるような息苦しさを感じるほどだった。

 耐えきれなくなった凱はある日、そのことを父に相談した。するとその日から悪夢にうなされることはぱたりとなくなり、凱はますます父を尊敬した。父は、イリーニ様のおかげだと、優しく笑った。

 だが、悪夢を見なくなったその日から、母の様子がおかしくなった。

 心配する凱をなだめるように、父はイリーニ様が治してくれるから大丈夫だと言った。

 しかし、母の精神状態は一向に良くならなかった。凱は、また眠れなくなった。

 そんなある夜、凱は久しぶりにあの悪夢を見た。女に首を絞められる、あの悪夢だ。ただ、その日だけは少し内容が違った。凱の首を絞める人物が、若い女から、凱の母にすげ変わったのだ。

 凱がたまらず目を覚ましたのは、真夜中だった。周囲を見回すと、母と父のベッドが空になっていた。

「お母様? お父様?」

 不安になった凱は寝室を抜け出し、礼拝堂へ向かった。イリーニの司祭をする二人から、真夜中のこの時間に礼拝をすることがあると教えられていたからだ。

 礼拝は、イリーニが人間だったころ、見知らぬ名も無き少年を(かば)い銃弾を受けて命を落としたとされる時間の一時間前から始まる。一時間経つと、礼拝堂の天井付近の壁に設置されたいくつもの鐘が鳴り出し、イリーニを称えるとともに、イリーニを信仰するすべての信徒を祝福するのだ。

 その祝福の鐘が鳴る時間が迫る中、凱はついに礼拝堂にたどり着いた。凱の予想通り、礼拝堂の扉の隙間からは光が漏れていた。

 凱が扉を開けようと近づくと、扉の隙間から、礼拝堂の中の光景が見えた。

 凱は、自分の目を疑った。

 凱の重みで中途半端に開かれた扉の音に気づき、司祭である父が振り返る。

 下半身を露出し、泣きじゃくる信徒の女性を犯していた父親は、凱が見たこともない、悪魔のような笑みを浮かべていた。

 そのそばでは、凱の母が床に膝をつき、すすり泣いている。

「……お父、様?」

 凱は、言い現しようのない悪寒に襲われた。

「なんだ、起きてたのか。ダメじゃないか、凱」

 下半身を露出させたままいつもの優しい笑顔を無理矢理作り、歩み寄ろうとする父に、凱は絶叫した。

「ーーーー来るなっ、悪魔!! お父様を、僕のお父様をどこへやった!? お母様に、そのお姉さんに、何をしたんだ!!」

 凱は、目の前にいる人物を、父親に化けた悪魔だと思った。そう、信じたかった。

 しかし、凱はすぐに現実を突きつけられる。

 それは、礼拝堂に響き渡る高笑いだった。父親の姿をした、悪魔の。

「凱。面白いことを言うなぁ。私が悪魔に見えるのかい? この教会の司祭である、この私が」

 父親はしかし、笑っていなかった。その顔は怒りに満ち満ちていた。

 その矛先は凱ではなく、すすりなく凱の母に向いた。

 凱の父は、鈍い音を立てて凱の母を殴り飛ばす。

「お前のせいだ!」

 床に倒れ伏す凱の母の肩を掴み、何度も、何度も殴りつけた。

「お前が、凱の首を絞めたりするから、こんなことになったんだ!!」

「え……?」

 思わず、喉元に手をやる凱。確かに、首を絞められたように息苦しいその肌は、触れるとじんと痛んだ。

 血の気が引き、真っ青になる凱に気づかず、父親はなおも凱の母を殴った。

「どういう、こと?」

 凱がつぶやくと、ようやくその手が止まり、父親は、凱の方に振り向く。

「この女はな、お前が生まれたときから、毎晩毎晩、お前の首を絞めていたんだ」

「なんで、そんな……」

 言葉とは裏腹に、凱の頭の中で、いくつもの点がつながっていった。ただの夢なら、なぜ、目が覚めたあとも首が痛んだり、息苦しくなったりしたのか。泣きじゃくるあの若い女は、一体誰なのか。

 答えは、簡単だった。

「お前が見た悪夢はな、若いころのこいつが、お前の首を絞めたときの記憶だ。そして、それ以来首を絞められるたび、お前は過去の記憶を思い出して、悪夢にうなされたんだ」

「だから、なんで、そんな……」

 凱の母親は、床に倒れたまま一言も喋らなかった。それを見て、父が口を開く。

「凱、お前が憎いからだよ。なにせお前は、俺がこの女を犯したときに、(はら)んだんだからな」

 そのとき、凱を、人たらしめていた何かが、粉々に砕け散った。

「…………は?」

 凱の頬を、凍るように冷たい水滴が伝う。

「凱。凱旋(がいせん)の凱。いい名前だろ? 俺が考えたんだ。意味は、勝利。凱、お前はな、俺が他の男からこの女を寝取って生まれた子だ。お前は勝利の象徴なんだよ」

 凱は、床に手をついて嘔吐(おうと)した。父への尊敬も、母への敬愛も、全部吐き出して、凱は自らの父親を、(よど)んだ鋭い眼差しで(にら)んだ。

「なんだよ?」

 口元で笑みを浮かべる父親。しかし、その目は笑っていなかった。冷たい、ゴミを見るような目だった。

 凱の中で、どす黒い感情と、絶望が渦巻いた。

 その感情に名前をつけるなら、ーーーー殺意だ。


 目の前が強烈な光に包まれたかと思うと、

「あ、ああぁぁ……」

 凱の父が、突然、尻餅をついて(おび)え出した。

 凱の父だけではない。犯されていた信徒も、倒れ伏していた凱の母も、凱におびえるような視線を向けた。まるで、悪魔を見るような視線を。

 凱が自分の体に目を落とすと、そこには黒い毛むくじゃらの体があった。腕も足も、獣臭い体毛に(おお)われていて、不気味に発光する紫のタトゥーが、全身に刻まれていた。

「は?」

 理解が追いつかず、頭が真っ白になる凱。その尻からは、先の尖った黒い尻尾が生えていた。

「ーーーー悪魔だぁぁ!!」

 心底恐怖する父親を見て、凱は自分の口元に笑みが浮かんだ感触に気づいた。信じられず、猛獣のような爪が生えた手で唇を触る。やはり、笑っていた。

 笑いが、声になって溢れ出た。それは音程の外れた(いびつ)な笑い声だった。

 無様に失禁する父親に歩み寄り、顔を鷲掴みにする。

「やめーーーー」

 凱が手のひらに力を込めると、父親の頭はトマトのように潰れた。

 逃げようとした信徒が、服の裾に蝋燭をひっかけて転んだ。蝋燭の火が、絨毯(じゅうたん)に燃え移る。凱がその火に視線を向けると、それは途端に大きな火柱となって、礼拝堂の壁にまで引火した。炎は勢いを止めず、あっという間に狭い礼拝堂を包む。

 それさえもおかしくて、凱はまた笑った。笑い続けた。

 しかし、その笑い声を遮るものがあった。

「凱。私を、殺して」

 それは、凱の母親だった。

 凱の笑みが消えると、母親は凱に縋り付いた。

「ずっと、ずっと死にたかった。死ねなかった。でも、炎に焼かれて死ぬなんてごめんよ。だから、お願い。私を、早く、楽にさせて……」

 涙を流す母を見下ろし、凱は戸惑う。

「お母様……僕には、できません」

 凱にわずかに残された最後の良心が、そうつぶやかせた。

「やめて!」

 凱の母親が、髪を振り乱して叫んだ。

「お母様なんて、呼ばないで……。お前を息子だなんて、思ったことはないわ」

 最後の良心に、トゲが刺さる。そして、

「ーーーーお前なんて、生まれてこなければ良かったのに」

 その言葉が、とどめとなった。

 膝をつき、目を見開いて泣く母親に、凱は、獣のような手を伸ばす。

 喉元に手を()わせ、凱は、その首をゆっくりと絞めた。

「うぅっ」

 苦しげな生々しい声が上がる。

 凱が母親を絶命させたまさにその瞬間、礼拝堂の天井付近の壁に設置された無数の鐘が鳴り響く。イリーニを称え、イリーニを信仰するすべての信徒を祝福するその鐘の音は、悪魔となった凱に降り注いだ。

「……馬鹿にしてるのか?」

 凱は、炎に照らされたステンドグラスを睨みあげる。そこには平和の神イリーニが描かれていた。

 凱の中の、行き場のない怒りが、絶望が、平和を司る神イリーニに差し向けられる。

 凱に、機嫌を損ねた子どもの、やつあたりのような感情が生まれた。

「ーーーー殺してやるよ、イリーニ」

 悪魔の、決意だった。

 父親の正体を、母親のどす黒い感情を知り、信仰してきた神に嘲笑(ちょうしょう)された少年の、神への復讐劇が、幕を開けた。

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