回想 百穂村研究室設立
1943年 1月
陸軍技術本部第九研究所
この敷地内に、研究員たちしか出入りしない大き目の小屋が建てられている。ここには百穂源一を科長とした実験科の人間たちが詰めており、クモ吉と鉄格子で仕切られた空間で毎日を過ごしていた。
鉄格子の近くに置かれた机で書類を書いている研究員の足を、クモ吉が長い右前足で突いてちょっかいを掛ける。
「おいクモ吉、仕事の邪魔をするんならメシ抜きだぞ?」
この頃のクモ吉は、話す事は当然出来なくても殆どの言葉を理解し、それに合わせたリアクションを起こすようになっていた。叱られたり怒られると、部屋の隅に蹲って反省しているような仕草を見せたり、体液採取などの嫌いな検査が目前に迫ると寝たふりをして誤魔化そうとした。
大きい割にとても大人しく、こちらの言葉に良く反応するクモ吉を、研究員たちは可愛がっていた。
「どうしたクモ吉、構って欲しいのか」
「腹が減ったんだろ。体がデカくなって代謝の効率が悪くなったんだろうな」
研究員たちがそうやっている頃、源一は年明け早々にまたやって来たあの将校に研究結果を見せていた。成長に連れて体重も増え、自身が出した糸を使って天井を這っている最中に落下した時、かなり大きな音がした割には無傷だった事から考え、それなりの強靭さを備え始めている事が分かっている。
「ふぅむ、糸を……」
またとんでもない事を言いそうな感じがした。遠回しに何かを要求するような会話が始まる。
「貴様も知っていると思うが、全軍の状況は芳しくない。海軍はミッドウェーで4隻の空母を喪失し、我が陸軍も戦線の縮小を余儀なくされている」
そんな物は総力戦研究所が開戦前に出した結果を見れば明らかだ。これは勝てない戦争である。零戦もここ最近は被撃墜数が増えており、ベテランパイロットの技量だけでは支えきれないのが目に見えていた。
「大本営ではそう遠くない未来、敵による本土爆撃が行われる事を予想しておる。これにより、陸海軍の共同による防空監視態勢の強化が日夜議論されている最中だ」
「……それとこの研究がどう結び付くのですか」
「このままあのクモが巨大化を続ければ、いずれここも手狭になるだろう。貴様の故郷、それなりに広い農村らしいな」
何所で聞いたかは知らないが、調べれば分かる事だ。確かに昔から広大な農地で稲作を行う農村ではある。
「現状、クモが出す糸の強度に関心がある。同時に、これが巨大化に連れて変化していくのかを半年ばかり使って調べてくれ。予想通りか近い結果を得られた場合、貴様の故郷に研究支部を作ろうと思う」
何を言っているのか理解出来なかった。なぜ自分の村に支部を作らなければならないのだろうか。将校の言葉を反芻しつつ、脳内で再構築を試みる。そこから導き出された答えをぶつけて見た。
「まさか、巨大化したクモ吉の糸を使って、敵の航空機を落とそうなんて考えているのですか」
将校は面食らった表情になるも、次の瞬間には破顔していた。我が意を得たりと言った仕草で捲くし立てて来る。
「よく分かったな!正にその通りだ!延いては本土決戦への備えとしても考えている!貴様とあのクモで我が大日本帝国の未来を切り開いて欲しいのだ!」
唾を飛ばしながら喋る将校を見ていると頭が痛くなって来た。正気の沙汰とは思えない。
言うだけ言って満足した将校が帰っていくのを尻目に、源一は懐から朝日を取り出して火を点けた。日に日に袋小路へ追い込まれるのを感じていた源一は、ここ最近になり酒の量が増えて登庁ギリギリか遅刻気味の毎日である。
「海軍にでも逃げ込むかな……」
出来るならば何所か遠くへ行ってしまいたい気分だ。今から根拠地隊にでも志願すれば、南方戦線へ出兵してあの鬱陶しい将校ともおさらば出来るだろうか。そんな事ばかりが頭の中を駆け巡っている。
同年2月、日本軍はガダルカナルより撤退。2ヵ月後の4月18日、山本五十六連合艦隊司令長官がブーゲンビル島上空で戦死。翌月の学徒戦時動員体制の発表により、日本の戦況悪化は口にせずとも一般市民が肌で感じ取れるまでになっていた。この頃の源一は、既に「心ここにあらず」を体で表すように小屋へ入り浸り、日に日に巨大化を続けるクモ吉を眺め続けていた。
「……まだお前はクモ吉なのか?」
源一がそう呟く度に、クモ吉はそっと右前足を差し出して源一の手に先端を乗せた。成長に連れて筋肉質になっていく8本足の先端は、己の体をしっかりとささえるだけでなく、獲物を確実に捕らえられる鋭さを兼ね備えていた。そんな足の先端を、源一に刺さらないよう絶妙な力加減で乗せる事から、目の前に居る男が自分の傍にずっと居た人間であると理解しているのは察しがつく。
同年7月29日、キスカの奇跡と呼ばれるキスカ島撤退作戦が実施された。しかし、戦局は数千人の将兵を救った所で有利になるほど生優しいものではなかった。
この年の10月に学徒出陣が始まるよりも約1~2ヶ月前、研究結果を見た将校は源一の故郷である百穂村に陸軍登戸研究所(第九研究所)の研究支部を設立する事を決定。これを百穂村研究室として位置付け、源一を始めとする研究員数名を第五科として部署も新設。クモ吉を運ぶためのトレーラーや研究室建設用の資材を積んだトラックが集結する中、ささやかな別れの集いが開かれていた。
「クモ吉、皆と握手だ」
関わりのある全員が見送りに来ていた。一番前の両足で2人ずつ握手し、別れを惜しむ者はクモ吉の頭を撫でたりと、まるで自分たちの弟が出征していくかのような光景である。
「百穂、これを持ってけ」
「何でしょう」
源一が元々居た第四科の科長が、1枚の紙切れを源一のポケットに押し込んだ。顔を近付けて小声で話される。
「憲兵に知人が居る。それなりの役職に居る人間だから末端のような馬鹿はしない人だ。もし何かあればこの番号に掛けろ。あの将校、どうやら軍内部でも相当のタカ派らしい。もし身の危険を感じたらすぐに行動を起こすんだぞ」
考える事を半ば放棄していた源一の目に、少しだけ光が戻った。項垂れたまま小さく嗚咽を漏らす。
「……ありがとう…ございます」
「部下の居場所も守ってやれない上司で済まないと思っている。この戦争はもう長くない。戦争が終わったら、お前らのような若い世代こそ日本には必要だ。命は投げ捨てんようにな」
「…はい」
このぐらいの時期から行われ始めた都市部での灯火管制訓練に乗じ、源一とクモ吉、他の研究員を乗せた車列は、薄暗くなった街中を走って百穂峠を目指した。このために物資を優先配給させた割には質の悪い燃料ばかりで、車列は幾度と無くエンジントラブルを起こしながらも山道を登っていった。脱輪やスタックを繰り返しつつ、明け方にようやく百穂村へと辿り着く。
「…………クモ吉、俺たちの故郷だ。覚えてるか?」
クモ吉は一番前の両足を源一にそっと絡ませ、体をゆっくり近付けた。まるで子供が親に甘えるような仕草に、源一は思わず驚く。こんなに素直な感情を表した事は未だ嘗てなかったのだ。
「クモ吉…」
ゆっくりと頭を撫でる。産毛程度だった体毛は立派に生え揃い、手触りは悪くなかった。そこへ運転席の上等兵が声を掛ける。
「中尉殿、どの道を進めば宜しいでありますか」
「田園を左右に二分する道が家まで続いています。そこを行けば大丈夫です」
車列は土煙を上げながら、静まり返った農村を突き進んだ。20分と走らない内に源一の実家である屋敷へと到着し、研究支部の設立が大急ぎで始まる。
1943年。夏。ひとりと1匹は、不本意ながら3年ぶりの帰郷を果たした。




