百穂村へ
行動を開始した2人は、まず加川の会社に出向いて事のあらましを説明。取りあえずでも正式な取材行動として許可を得た。そのまま加川の自宅がある中目黒まで電車に乗り、駅から20分ほど歩いた所のマンションに辿り着く。
「大きく見えますけど完全に見掛け倒しです。中は二部屋しかないんですぜ」
「郊外で探せばもっと安い家賃で三部屋ぐらいあるアパートはザラですよ」
「いやぁ買っちまったもんでしてね?さっさと手放せば良かったんですけど、もうそれなりに愛着が」
なんて事を話しながらエレベーターで5階へ上がる。加川の部屋は文字通り独り者の部屋で、全てが自分にだけ都合よく無造作に配置された食器類やら衣類が散乱していた。
「取りあえず買出しに行きましょう。トイレはそっちですんでお早めに。えー車の鍵はと……」
下河原は俄かに感じていた便意を解消するためにトイレを借りた。不思議な事に水周りだけは綺麗で驚く。
(まぁ……この辺が汚いと色々とね)
いくら自分しか用を足さないとは言え、そこが汚いのは精神衛生的にも宜しくない。意外に綺麗な空間で用を足した下河原は手を洗い、リビングへと向かった。
「センセイ、ご準備は宜しいですか」
「遠出は考えてませんでしたけど着替えは2~3日分あります。行きましょうか」
施錠を済ませて駐車場に降り立つ。そこそこ乗り回しているらしく、微妙な小汚さが謎の安心感を与えた。
「中は臭くないんでご安心下さい。アタシも先生と居る間は暫し禁煙しますよ」
「そいつは有り難い事で」
車に乗り込んだ2人は一路、業務用スーパーを目指した。加川の持ち込んだ道具にはキャンプ用の物も多く、中には災害用の乾パンまで忍ばせてあった。普段どんな取材をしているかが浮き彫りになったのを感じる。
「この車と一緒にいつも危ない橋渡ってんですか?」
「見掛けによらず修羅場は潜ってますよ。最近でヤバかったのは、裏金で怪しいと言われてた某政治家の執務室に忍び込んで、机の裏に集音マイク仕掛けた時ですかね」
「誰ですそれ」
「ほら、先月に国会で吊るし上げ食らった人が居たでしょ。あの人ですよ」
確か秘書に金を使わせて自身は使ってないなんて子供のような嘘を吹いて回ってた大物政治家だった筈だ。結局、秘書が証言してしまったせいで身から出たサビ以上のしっぺ返しを食らっただろう。
「……結構なヤバい事してますね」
「まぁ今回はそれなりに自重しますよ。センセイも危ないと思ったら一声お願いしますね、どうもアタシは視野狭窄に陥るクセがあるもんで」
そうこうしてる内に業務用スーパーへ到着した。約2日分の食料や水を買い込み、近くのコンビニで地図も買っておいた。加川の車にカーナビは取り付けられているものの、これから目指す場所は下手するとGPSが利かない恐れもあるため念を入れての購入だった。
「センセイは寝てらして大丈夫ですよ。運転はお任せ下さい」
「眠くなったらそうさせて貰います」
車は一路、西を目指した。23区を抜け、青梅市方面へ走り続ける。途中で休憩を挟みつつ、車は東京の郊外へと出て行った。
「センセイ夜通しは言い過ぎでしたね。この分だと夕方前には着きますよ」
「え、もっと遠いもんかと思ってましたよ」
「いやぁ失礼。アタシもてっきり山奥だと思ってたんですけど、意外と近かったですね」
青梅市を抜けた車は、奥多摩へ通ずる山道へと入って行く。太陽が木々に遮られてどうにも肌寒い光景が続いた。路面は幸いにもしっかり舗装されており、脱輪やスリップの危険が無い事が救いに思える。
運転する加川を横目に、下河原は地図を開いた。百穂村は住所で言うと埼玉県飯能市百穂村となっており、その通り埼玉県に所属する自治体である。しかしこの村から外に通ずる道は奥多摩方面にしかなく、埼玉県飯能市でありながら飯能市から行く事の出来ない辺鄙な村となっていた。この特殊な立地のため、警察消防では東京都と埼玉県の合同管轄として設定しているらしい。火災が発生した場合は埼玉県側から消防ヘリを送り込み、東京消防庁の消防車は奥多摩への道を通って村に向かうそうだ。
「そんな閉鎖的な環境で、日本軍が得体の知れない何かを密かに研究してたって訳です。これだけでも十分興味を惹く内容じゃありませんかセンセイ」
「確かに都市伝説の成り立ちとしては十分に物証が揃った上での事みたいですね。少しずつワクワクして来ましたよ」
細い道をそれなりのスピードで走り続け、ついに「百穂村 左折5キロ」と書かれた標識を発見した。もう少しである。
「どうしましたセンセイ、そんなにそっちは凄いですか」
「これは正しく切り立った崖そのものですよ。確かに地元の人間以外は足が竦むでしょうね……」
山を削って作られた道をひた走る。片方は山の斜面だが、もう片方は申し訳程度のガードレールしかなく、しかもその下は落ちたら間違いなく死ぬと思えるぐらいに、深い深い谷が大口を開けて待ち構えているように感じた。
そんな峠道を越え、車はついに件の百穂村へと辿り着く。
「何だかんだ15時前ですか。聞き込みは明日の方がいいかも知れませんね先生」
ふと、有給が何時までだったかを思い出した。確か4日で申請したから、既にもう半分の日々が経ってしまっている。となると、残りは明日と明後日しかない。しかし件の村に辿り着いた今、残った2日で十分な調査は可能だと思った。明日丸1日と翌日の半日程度を費やせば、それなりに納得のいく情報を仕入れる事は難しくない筈だ。
「今日はもう休みましょうか。所で、どっか民宿でも入るんですか」
「残念ながらこの辺は宿泊施設がないんですよ。狭い車内で申し訳ありませんがね、一緒に朝を待ちましょうや。毛布は後ろにありますし、晩飯もお粗末ですが暖かい物をご用意しますよ先生」
と言う訳で、車を山道の横道に入れたまま車中泊となった。周囲は日の入りと共にみるみる暗くなり、気付けば漆黒の闇が支配する世界へと変貌していた。
「よいしょっと」
加川がサイリウムを2~3本ばかり取り出して車内に置く。そればかりか、大きめの懐中電灯まで引っ張り出した。
「こいつはソーラー蓄電でしてね、12時間は光り続けます。このサイリウムも同じぐらいの時間は光りますよ。それより、ぼちぼち晩飯の準備をしますぜ」
バックドアを開け、ガサゴソと何かを取り出した。アウトドア用の鍋やらバーナーコンロやらが地面に敷き詰められていく。
「先生、この2つの鍋に水を入れて下さい。半分よりちょっと多いぐらいでいいですよ」
言われるがまま、2Lのペットボトルから水を入れた。それを2つのバーナーコンロに置き、お湯を沸かし始める。懐中電灯で照らしているとは言え、暗い手元でも意外に素早い加川の手つきに驚きつつ、暫しの間だけ彼の助手を務めた。そうして出来上がったのは、炒めた野菜とベーコンの乗った味噌ラーメンだった。寒空の下で食べるだけあって濃い味が嬉しい。
「トイレをしたくなったらこの野外用のやつ使って下さい。トイレットペーパーも後ろにありますからね」
「本当に何でもありますね」
「まぁ取材で2つ3つ隣の県ってのもよくあるんでね。これぐらい出来なきゃ勤まりませんよ先生」
時刻は既に19時を回った所だ。加川の淹れたお茶を啜り、ゆったりとした時間が流れていく。
「明日の確認ですけどね、取りあえず役場に行ってみましょう。そんで資料か何かを拝見出来るならそうして、後は適当に村をブラブラって感じでどうです」
「いいと思います。可能なら村長の自宅も見てみたいですね。この村で代々の蜘蛛師をやっていたのは、村長の一族らしいですから」
「おや先生、そいつはアタシも知りませんでしたね。と言うのも、かつてはその蜘蛛師、村人が弟子入りしてなる事もあったそうですぜ」
果たして核心に迫りつつあるのかどうか、まだ2人には分からなかった。しかし、件の村を目の前にして一種の興奮を覚えているのは事実である。子供のように頭の中で様々な想像が渦を巻いて仕方がない状態だ。逸る気持ちを抑え、車のシートを倒して気持ちを落ち着ける。気付けば2人ともすっかり寝入り、あっという間に朝を迎えていた。
「……ん、寒っ」
山の中で車中泊は初めての体験だ。そしてこの気温の低さ。山の中なだけはある。上に掛けていた毛布を思わず抱きしめた。
「おはようございますセンセイ、コーヒーでも淹れましょうか」
「コーヒーは嫌いじゃなかったんですか」
「朝はコーヒーなんですよ。昼間と夜はお茶の方がってだけの話でしてね」
コーヒーを淹れながら、朝飯の支度が始まった。パックのご飯を湯煎で温め、カップ味噌汁やら缶詰の質素な朝飯を済ませる。それを胃に収めてコーヒーで一息ついた2人は、いよいよ村への道のりを進み始めていた。