隠された歴史の片鱗
昼飯の終わった2人は、一旦会社に戻って加川の退社を報せてからそのまま電車で西日暮里方面へと向かった。暫し電車に揺られながら思案に耽り、亀有で下車する。
「この辺はまだまだ東京の下町が残ってるんです。いい景色でしょう先生」
昔の映画でよく見るような、如何にも下町と言った情緒ある風景が広がっている。「男はつらいよ」の世界にでも入り込んでしまった気分を味わいつつ、2人は路地裏へと入って行った。その一角にそこそこ大きな古い家が現れる。
「ここです。まぁアタシの生家ってやつですね。誰も居ないんで遠慮せずどうぞ」
「誰も居ないとは…」
「色々ありましてね、アタシ自身は中目黒に住んでるんですよ。ここは祖父母の家なんですが、再開発で1年後に取り壊しが決まってるんです。そんで中を整理してたら、例の写真を見つけたと、こういう訳ですね」
家の周りを取り囲む木の塀が何とも昭和だ。その中にある出入り口から敷地内に足を踏み入れると、古き良き日本家屋が目に飛び込んで来る。
「さぁどうぞ」
ガラスと木で出来た引き戸がガラガラと開き、懐かしい空気が下河原を包み込んだ。田舎に帰って来たような感覚が支配していく。そのまま加川に連れられて2階へ上がり、襖の開いた一室に通された。山積みのダンボールや木箱が2人を出迎える。
「この部屋に写真があったんです。記憶が正しければウチの親父の部屋なんですけどね」
「ご両親はどうされたんですか」
「かなり前に交通事故で2人ともポックリですよ。今残ってるアタシの親戚は、叔父叔母と従兄弟たちだけでさぁ」
聴いては拙い事を聴いたかと思ったが、加川は飄々として自分の身の上に関する事を語り始めた。厚顔無恥を装っているのは、それなりに折り合いをつけて生きて来た証なのだろうか。
「先生の背丈だと、親父の浴衣がいいサイズですね。今夜はこれで寝て下さい」
白地に青い線が入った浴衣を手渡される。確かに自分の体には丁度いいサイズだった。
「風呂沸かして晩飯こさえますんで、先生はここで写真をご覧になってて下さい。このダンボール2つとこっちの木箱に入ったのが全部です。報告書みたいなのもあるんですけど、字が掠れてて読めたもんじゃありませんから気にしないで下さい」
そう言うと加川は1階へバタバタ降りて行った。電気を点けて窓を開けると、夕日が銭湯の煙突と被って懐かしい感じの光景が広がる。
ブルゾンを畳んで鞄の上に置いた下河原は、封の切られたダンボール箱の中へ手を伸ばした。
「…………これは」
1枚目から驚愕した。山の上に居る蜘蛛を横から撮った航空写真である。裏返すと「大日本帝国陸軍 第六十航空団 昭和二十年百穂峠防空演習」と書かれてあった。携帯端末を取り出して、第六十航空団について検索したが何も引っ掛からない。もしかすると秘密部隊の可能性もある。そんな中、写真の海に埋もれていた一冊の本が目を引いた。
「……陸軍の編成表だ」
表紙に『大日本帝国陸軍第一航空軍 第六十航空団 軽偵察飛行戦隊 編成表』と書かれた本を捲る。どうやら大戦末期に戦況の情勢を鑑み、臨時編成された部隊のようだ。しかしロクな航空機が残っている筈もなく、装備はあちこちをたらい回しにされたであろう一式戦闘機こと隼が数機と何ともお粗末である。
しかし、下河原の目線はページの隅に書かれた一行の文章に釘付けだった。
「登戸研究所第五科、実験兵装直援部隊、百穂村研究室防空任務ヲ命ズ」
百穂村研究室。その文字から目が離せなくなった。小さな農村で、日本軍が何かを研究していた証拠を掴んだと言えよう。その何かとは、恐らくこの写真に写っている巨大な蜘蛛に他ならない。そこにやって来た加川が声を掛けた。
「センセイ随分とご熱心ですね。何か見つけましたか?」
下河原は空いた口が塞がらないような顔で、加川に本を見せ付けた。しかし加川は「そんな事は既に知ってますよ」と醒めた反応である。
「自分なりに随分と調べましたよ。登戸研究所と言えば、その筋では有名ですからね。しかもその研究所は公式ですと第一科から四科までしか部署がない筈なのに、そいつには堂々と第五科って書かれてるじゃないですか。しかも百穂村研究室なんて、日本軍に関するほぼ全ての文献を引っくり返しても見つからなかった言葉なんですよ?何かあると考えるのが妥当じゃありませんか」
「あんたの曾爺さんは、この部隊に居たって事ですか」
「終戦直前に特攻隊へ志願したようでしてね、部隊解散の前に異動となったらしいです。この諸々は原隊に留まった友人が祖父宛に遺品として送ってくれたと聞いてます」
少し冷え込んで来た空気を遮るため、加川は下河原が開けた窓を閉めた。
「……これは下手すれば戦史が引っくり返る事実ですよ」
「だからセンセイの研究室を訪ねたって訳です。それよりも風呂が沸きましたんで、先に入って下さい。晩飯はまだいいですよね?酒もあるんで議論を兼ねて今夜はゆっくりやりましょう」
2階に1人残された下河原は、他の写真も目に焼き付けるように見続けた。驚きの連続で言葉が全く出て来ない初めての体験である。暫くして加川に促されるまで、下河原の意識は写真が撮られたであろう時代にタイムスリップしていた。
風呂に入って居間に戻ると、テーブルに広げられた酒の肴たちが出迎える。腹の虫もいい具合に鳴り出していた。浴衣を着てこの空間に居ると、まるで本当に昭和へ来てしまったような錯覚に陥った。
「アタシがまだ普通にサラリーマンしてた頃の後輩が、年に1回送ってくれる酒なんです。田舎に引っ込んで久しいんですけど、今でもこうして繋がりがあるってのは嬉しいじゃないですか」
加川がテーブルに一升瓶を置いた。それをちみちみとやりながら、一連の事象について議論を重ねていく。口当たりのいい酒のお陰で、普段はそこまで飲まない下河原もすっかり気分が良くなっていた。
「何であんな所で記事を書くようになったんですか」
「前に勤めてた会社で、資金流用問題のトバッチリ食らって首になりましてね。何も信じられなくなって町をブラブラしてて、本屋であの雑誌を呼んだんです。それで門を叩いたらまぁこっちの仕事が面白すぎたんですよ」
それを聞いた下河原の顔が険しくなった。次第に表情が悲しい物へ変化していき、コップの酒を飲み干してボヤき始める。
「仕事が面白いってのはいいですねぇ……俺は何やってんだろうな」
「センセイはその分野でも第一人者として名高いお方じゃありませんか」
「師事してた教授が遺した物を受け継いだだけですよ。一応言って置きますが、自分以外にも弟子は沢山居ましたからね。どいつもこいつも、都合が悪くなるとすぐに逃げ出して俺に押し付けやがる」
加川の手酌を引ったくり、自分で酒を注ぎ始めた。どうやら悪酔いさせてしまったらしい事に加川が気付く。
「まぁまぁセンセイ、今日はもう飲んで忘れましょう。明日は夕方から出掛けますからね。準備忘れないで下さい」
その後、2人は一升の酒を飲み干して布団に入る事もなくそのまま寝入った。翌朝になり、酒が抜けない2人はフラフラしながら起き上がる。
「あぁ……くそ、飲みすぎた」
「やっちまいましたねセンセイ」
水を飲んだりトイレに行ったり軽く運動したりと、酒を抜くための行動が始まる。暫くして胃が動き出した2人は空腹を覚え、加川がよく行くと言う店に向けて歩き出した。
「どうぞ先生、汚い所ですけど」
暖簾を潜り、店の中に入った。カツオ出汁のいい匂いが鼻を突く。
「あら、またこっち帰って来てたの」
「ちょいと仕事でね。月見うどん2つ頼むよ」
店主とは顔馴染みのようだ。先に腰掛けた加川に促されて自分も席に座る。ここも古き良き昔の店と言った感じで、とても落ち着きのある空間だ。
「味は保証しますよセンセイ。所で、夕方からの事なんですがね」
「何所へ行くんですか」
「例の村ですよ。一旦アタシの家に戻って、車で夜通し走れば明日には着きます」
はて、例の村とは何だろうか。思案を巡らせていると、運ばれて来たうどんがそれを遮った。
「はいお待ち」
「どうもね」
村の事を忘れ、匂いに誘われるまま暫し空腹を満たす。支払いを済ませて店の外に出た所で、忘れていた事を考え始めた。現状においてまだまだ少ないピースを嵌めていくと、答えは1つしかない。
「……まさか、百穂村に行こうってんですか」
「それしかないじゃないですか。やだなセンセイとぼけちゃぁ」
ケタケタ笑う加川と目が点になる下河原。一見すると反りが合わなそうな2人の、都市伝説に端を発する奇妙な冒険が幕を開けようとしていた。