新橋 週刊発掘ミステリー編集部
後日、加川と連絡を取り合った私は、彼が書いている雑誌の編集部がある所へやって来た。所は新橋の一画である。
「えーと、守川ビル、守川ビル」
相変わらず、この辺の人通りは激しい。勤め人だけでなく、様々な人々が闊歩していた。そんな人波の中を器用にすり抜けながら、目的地のビルを探す。
「……こっちか?」
件のビルはあったが、入り口が見当たらない。横に奥へ進む路地があったのでそこに入っていくと、ビルの出入り口は裏側にあった。何とも分かり難い造りをしているビルだ。足早に建物の中へと入る。
「日当たりが悪くて雰囲気が宜しくないな。それに何だよこのエレベーターは」
昔は普通だったが、今はないタイプのエレベーターだ。壁にボタンが埋め込まれているのではなく、壁から突き出るように取り付けられている。加川の居る編集部は3階にあるので、上階へのボタンを押してエレベーターが下りて来るのを待った。
(よく見ると内階段も無いのか、相当古い建物だぞ)
照明も薄暗く、何かしらの化け物が出て来そうな雰囲気が満ち溢れている。まるで昭和の中頃にでもタイムスリップしてしまったような錯覚に陥った。そんな不思議な気分を味わっていると、エレベーターがガタガタと音を立てながら1階まで下りて来た。激しい機械音を鳴らしながらドアが開く。
「……これ落ちないよな」
そう言いたくなるような古臭くて狭いエレベーターだ。定員数5人とあるが、実質2~3人がいい所と思える広さである。そのエレベーターに乗り込み、同じく突き出たボタンの3を押して目的地を待つ。編集部のある3階で停まったエレベーターから降りた下河原は、目の前に広がる光景に唖然とした。
「…………受付もなしに直接フロアとは」
そこには受付も何もなく、部屋中に敷き詰められた棚と机が10個ばかりの世界が広がっていた。空調も動いてるんだかどうか分からず、天井にはタバコの煙が目に見える濃さで残っている。
「あ!先生!こっちです!」
加川がひょうきんな声で呼んだ。咥えていたタバコを消してドカドカと近付いて来る。
「ようこそお越し下さいました。こちらへどうぞ」
タバコの残り香が強烈な彼に連れられるまま、奥のフロアへと案内された。棚で仕切られた応接間のようなスペースに入ると、申し訳程度の椅子とテーブルが置いてあるのが目に飛び込む。
「ちょっとお待ち下さい。ウチのボスを呼んで来ますから」
そう言うと彼は踵を返して立ち去る。チカチカと半分切れている蛍光灯の光りに鬱陶しさを感じつつ、一種アンダーグラウンドなこの雰囲気にドキドキしている自分が居た。そうこうしてる内に加川ともう1人の男性が入って来る。
「さささ、先生。まずはお茶をどうぞ」
「昨日はこの者が不躾にお邪魔して申し訳ありませんでした。私、編集長の小串と申します」
加川とは対照的で清潔感のある服装だ。それだけで好印象である。こんな男が場末の雑誌編集長をしているとは、世の中は分からないものだ。
「城洋大学で教授をしております、下河原と申します。この度は大変に興味を引く情報を頂いて恐縮です」
「どうぞお座り下さい。ゆっくりお話しましょう」
椅子に腰掛け、瞬く間に数時間が経過した。殆どは自分が持っている情報と変わらなかったが、中には幾つか衝撃的な物まで含まれていた。
「ほぉ、豊臣秀頼が調教された蜘蛛を飼っていたと」
「それだけではありません。最後の将軍こと徳川慶喜も、これの成長記録を留めていたと言う文献が少なからず残っています」
「明治政府が戊辰戦争の後始末に躍起になってる間に繋がりが閉ざされてからは衰退の一途。年に数回ばかり書簡のやり取りが続くだけで、天皇に終ぞ謁見する事は叶わなかったようですぜ」
普通であれば信じられない内容だ。片田舎の小さい家業が、当時の日本の中枢に一部とは言え食い込んでいたこの事実。どういう経緯で関係を構築していったのだろう。
「そもそもの起こりがどういう物なのかは、ご存知ないですか」
「私たちが掴んでいる情報によりますと、どうやら最初は人の言う事を聞く珍しい蜘蛛として見世物小屋に売っていたようです。それをたまたま見掛けた幕府の重役が興味を持ち、購入ルートを調べたらしいですね。そこから政府筋との繋がりが出来ていったと言われています」
「それだけじゃないんですよセンセイ。この村は当時にしては珍しく教育熱心な集落でしてね、諸藩に若者を仕官させる事も多かったそうなんですよ」
幕府との繋がりが生まれた事で、中央へ組み入る欲望か何かに駆られたのだろうか。一時の夢は長続きする物ではない。その後の結果が全てを証明していた。
「どうにも分からないのは加川さんの持って来たあの写真だが」
「……アレを見せたのか?」
小串編集長の顔色に陰りが出来た。どうやら簡単には見せたくなかった代物らしい。
「だって編集長、アレはうちの古い家から出て来た写真ですよ。だったらアタシがどうこうしようと勝手じゃないですか」
「この大馬鹿者め。あれはおいそれと他人の目に触れさせたら不味いと何度も忠告したろうが」
昭和19年と言えば太平洋戦争の末期もいい所だ。そんな時に行われた防空演習と言う事は、明らかに首都圏への空襲に備えているのは明白である。であれば、軍と蜘蛛がどう繋がるのか、俄然興味が沸く所だ。
「休憩を兼ねて昼にしませんか。いい具合に腹も減った事ですし」
「そうですね。おい、これで下河原さんを何所かへお連れしろ」
小串は財布から三千円を取り出して加川に渡した。1人分の昼代にしては少し多いように思える。
「何です編集長、アタシの分も含まれてるんですかい?」
「お前さんは自腹だ。こんな吹き溜まりに来て下さったお礼に美味い店を紹介しろ」
「いえそんな気を使って頂かなくても」
「センセイこういう時は黙って受け取るモンですよ」
そう言うと加川は金をむしり取り、下河原を連れ立ってビルの外へ出た。表の通りを暫し歩く。
「偏屈な設計ですよね。何で裏側に入り口があるんですか」
「ビルの出入り口がある方に、元々は道路があったんです。区画整理に取り残されたんだか見捨てられたんだか分かりませんがね、回りの開発が進む内にこうなっちまったそうですよ」
2人は新橋から虎ノ門の飲み屋街まで歩き、路地裏の小さい店へ足を踏み入れる。カウンターが10席と座敷が数席の小じんまりとした店だった。
「おいちゃん、まだ昼いい?」
「ギリギリアウトだな。夜にでも出直して来い」
「いやそこを何とか!」
煙管を銜えながら新聞を読む老齢の店主が居た。何とも昭和風味溢れる店と店主である。
「そろそろ夜の仕込み始めにゃならん。悪いが出てってくれ」
「おいちゃん頼むよ、この辺で客人に食わせられる店ここしかないんだから」
「角のシゲ婆ならまだランチタイム中だ。そっちにでも行ってやんな」
「お、これはいい情報をどうも。シゲ婆さんに偏屈爺がお客さん譲ってくれたって伝えとくね」
「勝手にしろ」
その店を後にし、件の婆さんがやってる店へ入った。ランチタイムギリギリの入店だが、店主の老婆は暖かく迎え入れてくれた。
「偏屈爺さんがこっちに行けって言うからさぁ」
「あらやだ、あの頑固爺。あんたの助けなんかなくたって立派にやってるって、今度言ってくれるかしら」
「任せてよお婆ちゃん。それよりも日替わり大至急でお願いね」
何となくだが、どうやら元夫婦であるらしい事が分かった。そんな考えを余所に、運ばれて来た定食を食べながら話を続ける。
「センセイ、あの写真なんですがね、実はアタシの手元にまだ沢山あるんですよ」
思わず箸が止まる。掴みかけたお新香からゆっくり手を引き、箸を茶碗の上に置いた。
「……単刀直入に言いますが、この件をどうしたいんですか」
「そりゃ出来るなら記事にしたいですよ?ただあの写真から読み取るに、事を公にされると拙い連中がまだ生き残ってる可能性もあるじゃないですか」
戦後から既に75年が経過しつつも、当時に置き去りにされたいざこざは未だ日本の各所に潜んでいる。これらが公になった時、少なからず損害を受ける人間はまだ沢山居るのだ。この事を考えると、真相を追い求め続ける事に忌避感を覚えるのは無理もないだろう。
「だからセンセイに協力を仰いでるんですよ。学界にその人ありと言われたセンセイのお墨付きなら、間違いなくいい記事になりますぜ」
「学界は既に退いて久しいです。元々、誰かと意見をぶつけ合わせるのが性に合わないんですよ。なんで自分の意見を言うだけで誰かに指摘されて、そこから討論しなきゃならんのか私には未だに理解出来ない」
「それはセンセイだって学生さんにやらせてる事じゃないですか」
「着地点を見出すための討論と自分が正しいと思ってる人間同士の言い合いは違います。前者はまだしも、後者は最終的に罵り合いになって喧嘩別れするのも多かったもんです」
「じゃあセンセイこうしましょう。これはお互いに、あくまで知的好奇心を満たすための行動とします。損得は抜きにして、薄っすらと見え始めている物の正体を見に行きませんか?」
自分にとっては麻薬のような言葉だった。ここまで来ては既に引っ込みが付かない。善意と言う名の誘惑が手を差し伸べているこの状況では、乗っかる以外の選択肢は考えられないだろう。
「……やるだけやって見ますか」
「さすがセンセイです。全部食ったら今日はアタシの家に泊まって下さい。写真をじっくりお見せしますよ」
底なし沼に飛び込んだ気分である。謎に迫る高揚感を感じると共に、もう二度と這い上がれない恐怖が表裏一体となって襲い掛かっていた。