失恋した日
序
ベトナムの国花である蓮の花は泥の中から抜け出し、飾り気なく質素に、そして美しく咲く。
美しい蓮の花でも、泥の中を通ってようやく花を咲かす。
恋だって美しく咲くためには、ぬるくドロドロした沼の中を進まなくてはならないのだ。
***
彼は“新鮮”だった。
私の中にないものを持っていた。
その恋は、ピンク色の花びらが舞うようなものではなくて、
透き通るみずみずしい艷やかな湖のようだった。
浅いのか深いのか分からない、波がなく音に波紋する繊細で神秘的な湖。
私にとって新鮮であった彼の中に深く溺れてみたかったんだ。
第一章 失恋した日
恋は案外あっけなく終わる。
「俺の"彼女"もこれ好きなんだ。」
そういって私のリュックサックについてる"親父うさぎ"のマスコットを指で弾きながら奈良は言った。
大学のカフェ「風のテラス」(通称カゼテラ)の夕方は、サークルのグループではしゃぐ下級生たちの声が鳴り響く時間帯だ。
私はその隅っこのテーブルで卒業論文の執筆に打ち込んでいた。今年で大学を卒業する私のゼミの4年生は、この場所に集まって論文を書く日課となっていた。
奈良は確かに「彼女」と言った。
少しの間時が止まる。
そして、文字で埋め尽くされたパソコンの画面を無表情に注視しながら私は口を開いた。
「あ、そう、なんだ。"親父うさぎ"ってあんまりメジャーじゃないけど。だってこれ、一般の人が考えて販売してるキャラだし。ネットでしか買えないし。だから、・・・なんか、びっくりした。」
つい早口になる。
「へぇー。あいつ変わってるからな、はは。」
何かを気にする様子もなく、真っ白な歯をニカッと見せて奈良はいつもみたい笑った。
うざったい眩しい笑顔。
"親父うさぎ"のマスコットは奈良の指で弾かれて痛そうだ。
そうか、奈良には彼女がいたのか。
とようやく気が付いてから、一種の喪失感のようなものが胸の底にストンと落ちた。
パンっとキーボドのEnterボタンをはじいて奈良を見る。
「てか、論文!今何章まで書いたの?」
"彼女"という言葉をdeleteして話題を切り替える。
「あ?論文?完璧っしょ。ミナも大部褒められてたじゃん?先生から。」
「私はまだまだこれじゃだめ。てか、完璧って、んなわけないじゃん。」
「これから完璧になるの!今日の朝めちゃいい序論の切り出し閃いちゃったし。」
奈良はさっきの会話をすっかり忘れて、バンっとリュックを机の上に置き、整頓されてないごぢゃごちゃのリュックの中から「卒論のーと なら」と表紙に殴り書きのような字で書かれたノートを私に見ろとばかりに手渡してきた。
私は浮かない顔でそのノートを開く。
『集団心理における考察と研究 奈良拓斗
序論 現代の社会を生きる人々は見えない硬い鎖で繋がれてるように思える。鎖はふつうは見えやすくて、あまり触れたくない。だけれども、社会の中では多くの人が知らぬうちに、この目には見えない鎖にによって繋がれている(•••)。人と同じでないと変だとか嫌だとか、周りが賛成するからそれに従うとか、そういう僕たちの心情はどこから来るのだろう。僕は現代を生きる人間の代表として、また社会学を学ぶ者の一員としてこの捉えがたい問題を解決してみたい。』
「どう?」
顔が近い。奈良はノートを読む私の真横に来てワクワクとして、いい感想が貰えるのを待っていた。
しっぽをふっておやつが貰えることを期待する犬みたい。
『はっきり言って抽象的だし、鎖ってよくわかんないんだけど。文章的にも論文っぽくないし自己本位で書いてる感じする。』
とか本当は言いたいけれど、今は議論しようという気になれなかった。
「まあ、いいんぢゃない。でも、テーマはもう少し具体的にしたほうがいいよ。」
横目で奈良の顔をちらっとみて、ノートを突き返した。
「あれっ?いがーい。三菜、いつももっと突っ込んでくんのに。なんだよー。嫉妬か?嫉妬してんだろ、俺の文才に、ははは。」
そういって奈良はまたニカっと笑う。
バカ。
そう、ゼミの同期生である奈良拓斗は何でも言い合える気を使わない男友達だ。
ゼミ内で私たちの言い合いは、ある意味見物みたいになっていてみんなが笑ってくれる。
みんなが笑ってくれるならまあいいか、と思って私も遠慮なしに奈良とは討論するし遠慮しない。
そんなお笑いコンビみたいな友達で四年間同じ学部、入ったゼミも一緒だった。
ただの気の合う男友達・・・と思っていたのに、あさ美があんなことを言ったからおかしくなった。
***
奈良のことを急激に意識するようになってしまったのは、同じゼミで一番仲がいいあさ美のさり気ない言葉だった。
それは、先輩たちの卒業式のことだった。
私たち三年生は卒業式の日、ゼミでお世話になった先輩たちにお花と手紙を渡すサプライズを用意することになった。
そこにはバカみたいに先輩たちの写真に写り込もうとする奈良。
彼をバカだなあと思いながらぼんやり眺めていると、
「奈良って三菜のこと好きなのかもね!」
とあさ美が何の前触れもなく言った。
「は?」
あさ美は10歳も年上の恋人がいて、ファッションセンスや香水の匂いなんかに色気を感じる女子力高めの女の子だ。
だけど、顔は高校生に間違われるくらい童顔で、発言がはっきりしている。
大人っぽいような、子どもの心を持ち続けているような雰囲気。
奈良が私のことを好き?そんなことを考えたこともなかった。
私がそんなわけないじゃん!とつっこむと、
そぉ•••?とだけ答えて、それ以来話は進展しなかった。
あさ美の何気ないこの一言が私を沼に落とした。
ヌメヌメしててぬるい温度を身体に感じる。
それから奈良のことを見ると変に意識してしまうようになってもう最悪、という具合だった。
***
「奈良くん、サークルの後輩が入口で呼んでますよ?」
そう言ってやってきたのはゼミ長の竹岡だった。
両手に地域社会研究の書籍とやらを大量に抱えてやってきた。 何故かパソコン用のブルーライトのメガネをつけたままだ。
「おお、タケ!つか、まだ序論だし。つか、おまえこれ全部読むの?やっべ。あと10日だぜ?」
タケは竹岡が持つ本の背びれを指先で上から下になぞって目を丸くた。
「あと10日もあります。」
「くぅ〜!ムカつくけど、いつも余裕だな。クッソ!俺だってお前より文字数稼いでやるからな!」
相変わらず大きな声でそういって、奈良は6人掛けのテーブルにリュックを置きっぱなしにして後輩の元へ去った。
そんな彼の後ろ姿は見ないようにした。
「三森さん、データ分析進みました?この間だいぶ手こずってたみたいだけど。」
竹岡は乱暴に放り出された奈良のリュックを手際よくテーブルの端っこに避けて私の斜め前に座った。
私たちのゼミはこうして今日も「カゼテラ」に集まって、一緒に支え励まし合いながら論文を書くことに専念する。
「あ、ああ。うん、なんとか。てか、もう今はひたすら文字書かないと危ないなって。期限迫ってるし…。」
「奈良くんは余裕そうでしたね。」
竹岡は借りてきた本を机の上に並べてそれを一冊づつ眺めている。
もともと細い目がさらに細くなって険しい表情でほんの表紙を交互に眺める。
恐らくどの本をどの順番で読もうかとか、どの章で使おうかとか考えているのだろう。
「あいつは余裕ってかバカポジティブだからね。まだ序論とかありえないし。」
さっきから私のキーボードを打つ手は進まないままだ。
「まあ、そこが彼のいいところでもありますよね。うーん…これをこうして、いや待てよ、まずはこいつから読むか。」
やっぱり読む順番を考えていたらしい。
7,8冊ある本を積み重ねず、並べて見る人ってあんまりいないだろうなとかぼんやり竹岡を見ながら、さっきの言葉を思い出す。
"彼女"•••。
まさかあいつの口から彼女とか出てくるとか思わなかった。
奈良はお調子者でサークルにも入っていて、後輩たちから慕われているのは知ってたけどあまり恋愛の話をしたことがなかった。
いつもバカ話ばっかりしていた気がする。
驚きとなんでか消失感。
気持ちの悪い沼の中から抜け出せるどころか、このぬるりとした感覚はもっと私を苦しめようとする。
今は論文、論文...!消えろ!消えろ!
すでに竹岡は本を綺麗に積み上げて一冊目を読み出していた。『無意識からの形成』というタイトル。
今ここにいるのが竹岡だけでよかった。
書かなきゃ。キーボードを打つはそのまま止めておいて題目から読み直していくことにした。
『就職活動から見る集団心理の現象 三森三菜
就職活動。大学最後のビックイベントである。イベント?いや、学校教育を抜け出し自立のための進路を決定する重大な時期だ。現代の就活生のほとんどは「就活」という名のイベントに参加をする。真っ黒なスーツを身にまとい、前髪をワックスでガヂガヂに固め、目は三日月目、口角は15°上げるような笑顔を意識しましょうといったような笑顔を表情にして、合同説明会、集団面接やグループディスカッションというポイントをクリアしていくレールの列車に乗り込んでいく。自己PRという名の自己主張。留学、インターンシップ、ゼミやサークル活動、学生生活の醍醐味で満喫したことを力を尽くしたことに言葉を選び変えてきれいに仕上げる。掘り下げて、掘り下げて、もっと掘り下げて考えてみようよ。どうしてこの仕事がやりたいの?どうして、うちを選んだの?企業研究、自己分析、企業訪問。』
「ミナ!」
突然頭の上から声を感じた。
東洋雑貨店にあるような香水の香り。
顔を上げるとやっぱりあさ美が立っていた。
大胆なカットのロングワンピースに、大きなイヤリングをぶらさげ、ぱっちりとした目をこちらに向けている。
「あ、あさ美来たんだ。今日はバイトって言ってたから来ないかと思った。」
大学4年生になると、授業はほとんどなくゼミで週に1,2回ほどやってくるだけになる。
そんな人が大半だ。
しかし、勉強家で活動的なあさ美は「せっかく大金払ってんだから!」と言って、授業をいくつか履修していた。
「バイトは今日からストップ。あと提出まで10日だし。今日3限の授業だったからさ、このまま夜まで残って書いてくよー。あー、論文ほんとやばい!」
アサミは黙々と本を読みメモを取る竹岡の隣に座る。
カラフルなステッカーがペタペタと貼られた薄っぺらなノートパソコンを取り出して作業に取りかかった。
みんなが各自の世界に集中する。
こんないつもの風景なのに、ただ一つだけ違うのは論文の期限が迫ってきていることではない。
それは、私の中で起こっていることだった。
消してしまえばいい。
これは勘違いだったんだって。
過去の感情なんて実証のない現象だ、とかって言い訳して、なんとか寂しい気持ちを起こさないように言い聞かせる。
こんな時にも社会学の用語が浮かぶのはもう論文病かもしれない。
あいつのバカみたいに大きな声やはじける笑顔、犬みたいに近寄ってくる可愛らしさに胸が擽られるのは、友達だったから愛着が湧いていただけだ。
これは恋じゃなかった。