帰宅鉄道の夜 〜ビロードの少女と目覚まし時計〜
1
車窓には夜の星々が流れている。
なんだか心許なくカタコトと揺れる車内は妙に明るい。
「この電車はどこに向かっているんだい?」
私は思い切って声をかけてみた。
「あなた、はずれやすいのね」
天井も床もつり革も、横長の椅子も見慣れたものだ。しかし、まるで現実感がない。
カタコト、カタコト。
乗客はふたりだけ。
私と、
眼前の少女と。
「子供の頃、神隠しにあったことはない?」
年の頃は十五・六だろうか。提灯袖のついた紺のビロードのワンピース。そこかしこにあしらわれたレースのリボン。亜麻色の巻き毛。長い睫毛。まるでフランス人形のような、どこまでも時代がかった風体で、横長の椅子の真ん中に座っている。
「私は最終電車を終点で降りたはずだ。なのに……」
「あなた、自分で頼んだじゃない」
「え?」
軽やかに、まるで体重を感じさせない仕草でビロードの少女は立ち上がった。つい、と私の顔をのぞき込む。
「さあ、思い出して」
少女の長い睫毛が車内灯にきらきらと輝く。
ふと、私はこの少女とどこかで会ったことがあるような気がした。
思い出せというのは、この電車に乗った経緯のことだろうか。それとも、少女とどこかで出会ったことだろうか――
2
今日の私はひとつの問題をかかえていた。言葉の上だけではなく、それは本当に鞄の中に入っている。
――ちいさな古ぼけた目覚まし時計。
妻が大事にしているこの時計を、私は昨日うっかり落としてしまった。ひびの入ってしまった時計を手に、「なんだこんな古ぼけた時計。新しいのを買ってやるよ」と、深刻ぶらずにもらした私の言葉が妻の逆鱗に触れた。
そのあまりの怒りっぷりに、替えがきかないほど大事なものだったのだと気づいたときには後の祭りだった。いたたまれない一晩を過ごし、時計を詰めた鞄を抱えて、今朝はほうほうの体で自宅を飛び出したのだった。
会社で機械に強い部下に見せたところ、もうずいぶん前から動いていないのではないか、とのことだった。とすれば、妻が怒ったのは私の言葉に対してのみということになる。直せば機嫌がとれるのでは、という逃げ道をふさがれてしまった私は、ますます気が重くなった。いろいろと仕事にかこつけているうちに、とうとう帰宅が最終電車になってしまったのだった。
私の家は都心から随分と離れたベッドタウンにある。海沿いを走る電車に終点まで乗り、そこからは妻に車で送り迎えをしてもらっている。もっとも、遅くなるときはタクシーを使うようにしているので、今日もそのつもりだった。
駅でホームに降り立つと夜の匂いがした。
ホームの向かいには、乗ってきたのとは別の電車が止まっていた。
車内灯が消えた真っ暗な電車。この後は操車場へと向かうのだろう。
乗客を乗せずに走る電車――それは、なんだかとても寂しいものに思えた。
「おまえ、私を家まで送ってくれないかな」
閉じた電車の扉に触れ、私はそうつぶやいた。そして、ひとりでくつくつと笑う。人に聞かれたら、さぞへんなオヤジだと思われるだろう。
ふいに、パッパッと車内灯が明滅した。
一瞬、私の言葉に応えたのかと思ったが、そんなことはあり得ない。これから移動を開始するのだろうと思って――
思って――
気づいたら、ビロードの少女と向かい合って電車に揺られていたのだった。
3
「私を家まで送ってくれるのか?」
「頼んだのはあなたでしょ?」
「たしかにそんなことを言ったが……まってくれ。うちの前に駅はないぞ。それに、こんな電車があるなんて時刻表にも載っていない」
「そりゃそうよ。無断でやっているんだもの」
ビロードの少女は楽しそうにくるくると回る。
電車はあいかわらずカタコトと揺れる。
私の頭の中もぐるぐると回る。
「まてまて……もしかして、私は死んだんじゃないのか?」
「あら、『銀河鉄道の夜』ね」
「そうだ。ジョバンニとカムパネルラが乗った銀河鉄道は、あの世への汽車だっただろう?」
「天に昇る魂を乗せられる汽車はエースだけなの。この子には無理ね」
そんなものなのか。
「でも、あなたみたいに〈はずれた〉人を乗せるぐらいならできるわ。そうね、さながら『帰宅鉄道の夜』ってところかしら」
見かけによらず、センスのかけらもないネーミングだった。
「ええと……つまり、私は死んではいないが、世界からはずれてしまったというわけか」
「やっぱり素質があるわ。体が状況を理解しているのね。でも、はずれたのはほんの少しだけ。何か逃げたくなるようなことがなかったかしら?」
少女の意味ありげな視線に、私は目覚まし時計の入った鞄を抱きしめた。
「そ、そういえば、君の名を訊いていなかった」
「そんなことに意味はないわ」
「……君は車掌さんかい? それとも電車の精? まさか、死神なんてことはないよな」
「ふふふ。あはははは」
ビロードの少女は楽しそうに笑い、スカートをひるがえしながら車内を踊る。
「ねえ、うちに帰りたい?」
「そりゃあ、帰りたいさ」
「うそ」
「うそじゃない」
「ほんとうに? このままどこかへ行ってみたいと思わない?」
「思わない」
「ふーん」
少女は少し口をとがらせた。それから、くるっと私に背を向ける。
「なんか、つまんない。私はもっと遊びたいわ。帰りたかったら、私を捕まえてみて!」
「え?」
ビロードの少女は風のように隣の車両へと消えた。
私は鞄を抱えると、慌ててその後を追った。
4
隣の車両に飛び込んだ私は、口をあんぐりと開けて棒立ちになった。
一面の花畑だった。
なんとまあ――唐突な展開だ。
右も左もはてしなく広がる花畑。天井――いや、空には夜の星々。舞台上で照明をあてられたように、花々が鮮やかに咲き誇っている様が嘘くさい。
カタコトと、あいかわらず足下だけが揺れている。
「さア、アタイの花を見つけてみな」
少女の声が辺りに響いた。さっきまでとまるで違う、はすっぱな口調だ。
「君の花だって? それだけじゃわからないよ」
「フン。ウチに帰りたいんだろう?」
私は周囲を見渡した。
咲いているのは、スミレ、菜の花、チューリップ。ラベンダーにバラ。蘭に菖蒲に百合。そのほか、私が名前も知らないような花また花。季節感も地域性も無視しためちゃくちゃな花畑だ。さっきの『帰宅鉄道の夜』といい、少女のセンスだとすれば、オヤジギャグの世界だとしか思えない。
――まてよ。
私はとある可能性に思い当たって、花畑の中へと足を踏み入れた。
一車両の中だとは思えないほど――いまやそれは怪しいものだが――そこは広大だった。むせるような花の香りになんどもくしゃみをしながら、私はひたすらある花を探す。
そして、見つけた。
他の水生の植物に混じって、それは水面に大輪の花を咲かせていた。
蓮の花だ。
少女が急にはすっぱな声になったから蓮の花。
これしか思いつかないのだから仕方がない。
半ばやけくそに、えいや、と蓮の花に手を伸ばした。
とたん――
蓮の花はビロードの少女へと変わり、ひらりと私の腕の間をすり抜けた。
「見つかっちゃった。でもまだまだ」
花の香りを残して、少女はまたも隣の車両へと駆けていった。
5
次の車両は――一応車両としておくが――一面の海だった。空には星。それは基本設定らしい。当然、足下はカタコト。
「海の向こうであなたを心待ちにしているからね」
今度の少女のお告げはそれだった。
星空の下に、水平線が綺麗な曲線を描いている。
そして、海岸にはありとあらゆる動物がいた。
犬、猫、猿、馬、牛、象、ライオン、キリンなどの陸上の動物から、アシカやイルカやクジラのような水生の動物まで、ノアの方舟に乗る順番を待っているのではないかという眺めだった。
この動物たちのどれかに乗って海を渡れということだろう。
さて――
普通に考えたらクジラかイルカだろう。ましてや、少女は「まってイルカらね」と言った。ここまでのだじゃれ具合を考えるとありそうな話だ。
しかし、それでは直球過ぎる気もする。もう少しなにかないだろうか。
私はしばらく悩んだ末に、一頭の動物に近づいた。
「君にお願いしたいんだが、いいだろうか」
「もちろん」
驚いたことに、その黄色い動物は返事をした。そして、長い首を折り曲げて私を誘った。
もちろん、それはキリンだ。
少女は「あなたを心待ちにしている」と言った。つまりは、首を長くしてまっていると。
ひねりすぎだろうか?
「いきますよ」
キリンにそう言われて、私はその角を握った。
ぐん、とキリンの首が伸びた。伸びた。どこまでも伸びた。
やがてそれは、水平線に達した。
すると、きれいな曲線を描いていた水平線がビロードの少女に変わった。
「さすがね。次こそ負けないわ」
どこに勝ち負けがあるのかわからないが、少女は沈みゆく太陽のごとく、速やかに隣の車両へと潜っていった。
6
さすがに三度目となると驚きも半減する。次は何だろう、と予想する余裕も出てくる。
案の定、次は砂だった。どこまでも続く砂漠。
空は暗くて――暗いだけ。
目の前に大きな滑車のついたハンドルが三つ並んでいる。
足下はカタコト。
「カサカサに干からびてしまえばいいわ」
そんな少女の声が響いた。
ハンドルに近づいてみると、それぞれに絵の描かれたプレートがかかっていた。右から、太陽、雲、星。
なるほど、今回は三者択一ということらしい。
いままでは単なる背景だった空を、この三つのうちから選ぶわけだ。
問題は、今まで無数にあった選択肢が、なぜ今回に限って三つに絞られたか、だった。
少女は、カサカサに干からびてしまえと言った。でも、干からびたくはない。
とすれば、今回はそうならないものを選ぶと言うことか。
私は真っ暗な空を見上げた。やっぱり、あれは忘れてはならないのだろうな――
だじゃれ。もしくはオヤジギャグ。
ということは――
私はまっすぐ真ん中のハンドルへ向かい、力一杯それを回した。
ハンドルにつながる滑車が回り、長い長いロープが何かを引っ張り、書き割りのような雲が空につり上がった。
そして、ぽつぽつと雨が降り始める。
私は雨の中をまっすぐに歩き始めた。
しばらくすると、大きな水たまりに出くわした。
ビロードのような水たまり。
「見つけた」
「なんで?」
水たまりのビロードは、ビロードの少女へと変わった。
「カサカサになるってことは。『干上がる』もしくは『干し上がる』。転じて『日上がる』『星上がる』。それを避けてみた」
「ふーん」
「さあ、そろそろ終わりにしよう。うちに着く頃じゃないか?」
少女はまじまじと私の顔をのぞき込んだ。
「何?」
「まだだめ」
「なぜ?」
「教えてあげない」
そうしてビロードの少女は、砂塵を巻き上げて隣の車両へと吹き抜けていった。
7
次の車両に入ったとき、私は今までと違う驚きに打たれた。
すり切れた畳の四畳半。使い古したタンス。立てかけたちゃぶ台。部屋の四隅から吊った緑色の蚊帳。その中にしかれた布団。
「ここは……」
子供の頃、私が母と一緒に寝ていた部屋だった。
ビロードの少女の言葉は響いてこない。
足下はあいかわらずカタコトしている。
でも――そんなことはどうでも良いほど懐かしい光景だ。
私の心は数十年巻き上がり、気がつくと布団に横になっていた。
いつの間にか、隣の布団には母がいた。
母は安らかな寝息をたてている。
時刻は真夜中だった。
ぼくは――おかあさんの寝息のリズムに身をゆだねた。
蚊帳に囲まれた、おかあさんとぼくだけの小さな世界――
ふと、誰かに呼ばれた気がした。
夏の暑い盛り、田舎のわが家では雨戸を開けっぱなしで寝ていた。蚊帳を透かして外を見る。
月明かりの中に誰かが立っていた。しきりにぼくを手招いている。
ぼくは布団から這い出した。
蚊帳を抜けると、縁側へと歩み出る。
「遊ぼう」
それは小さな女の子だった。夜そのもののような、不思議な色をした洋服を着た女の子。
「今は夜だよ。だめだよ」
やはり小さなぼくは言った。しかし、夜中に抜け出す誘惑は大きかった。
「朝までに帰れば大丈夫だよ」
「そうか」
ぼくは納得し、縁側から裸足で庭に降り立った。
カタコト。足下が微かに揺れている。
なにか、
――なにかを忘れている。
「どうしたの? いこう」
女の子がしきりに誘う。
「待って」
「待てないよ」
「なにか忘れているんだ」
何か、朝までに帰るために――
そうだ――これは、本当にあったことだ――
ぼくはあのとき、
あのとき、
そうだ。
私はあのとき――
目覚まし時計を持って出た
8
気がつくと、私は自宅の玄関の中に倒れていた。
妻が心配そうな顔をしてのぞき込んでいる。
いつの間にか帰ってきたらしい。
「あなた、いったいどうやって帰ってきたの?」
「え?」
「大きな音がして、びっくりして見にきたらあなたが倒れていたのよ」
「ああ、そうか。ちょっとつまづいてね。電車で帰ってきたよ」
その言葉を、妻は額面どおりに取ったらしかった。安堵のため息を吐いて立ち上がると、私の傍らをぬけて玄関の鍵を確認する。
「あら、鍵はかけたのね?」
そもそも開けてすらいない、と言ったらどんな顔をするだろうか。
「その時計……」
私は、手に例の目覚まし時計をしっかりと握っていた。
「ああ。思い出したよ。これは私の時計だったんだ。子供の頃大事にしていた。なんで忘れてたんだろうな」
「結婚式の日にね、お義母さんが私にくださったの。あなたが子供の頃、神隠しにあったときに持っていた時計で、これのおかげで帰ってこれたんだって。だから、お守りとして大事にして欲しいって」
「……」
妻があれほど怒ったのは、自分のことではなかったからなのだ。私は、申し訳なさと、愛しさとでいっぱいになった。
「パパおかえり?」
「あら、起きちゃったのね?」
騒ぎを聞きつけて、今年小学校一年生になったばかりの娘が目をこすりながら現れた。
「パパとママ、仲直りした?」
私と妻は顔を見合わせた。なんとまあ、子供はするどい。
「うん。大丈夫よ。だからもう寝ましょうね」
娘が私を見る。
「本当だ。いい子にして早く寝たら、今度の日曜日に動物園につれてってやろうな。パパはキリンさんとお話ができるんだぞ」
娘が顔を輝かせ、妻が寝る前に余計なことを言うなと私を睨んだ。
寝室へと引き上げるふたりを見つめながら思う。
私は子供の頃神隠しにあっていた。
はずれてしまったことがあったのだ。
真夏のあの夜、私は女の子とひと晩中遊び回った。目覚まし時計が鳴り、しぶる女の子を振り切って帰ったとき、なんとひと月が過ぎていた。
あのときの女の子は、きっとあのビロードの少女だったに違いない。
彼女は言った。私ははずれやすいと。
もしかしたら、それは娘にも遺伝しているかもしれない。
明日さっそく、娘に目覚まし時計を買ってやろう。
それから、電車にお願い事をしてはいけないと教えてやらなくてはならない。
《了》