七、見えない傷
「今のところ、変化がないのなら大丈夫でしょう」
ほっと息をつく母さんを見て、僕も体の力を抜いた。
病気の進行は、思っていたよりもずっと遅く、この夏を越えられるかもしれない、そう医者に言われた。ただ、いつ何が起きるか分からない、そうとも言われた。
「なにか、体の変化はありませんか?」
わざわざ日曜日に診てくれるこの医者は、穏やかな声で僕に聞いた。
「眠たくなります。でも、なかなか寝付けません」
そうですか、そうやさしく頷き、その医者は僕に丁寧に説明を始めた。
「多分、それは病気の影響ですね。身体が免疫をつけよう、体力をつけようとして、眠ろうとするんですよ。でも、その眠りは普段の眠りとしては多すぎる。だから身体はその眠りを拒絶するんです。だから眠いのに寝付けないんですね」
僕はふと思った。この眠りがいつか永遠になる時がくるのか、と。でもそれを母さんの前で聞く気にはなれなかった。
「まあ、それだけなら大丈夫ですね。この前よりも顔色もいいですし。でも、何か異変があったら、いつでも来てください。お母様も遠慮せず、相談してください」
ずっとお世話になっていた甲斐田先生も、この医者も、いい人たちだった。治療法もまだよく分かっていないこの病気と真摯に付き合ってくれている。それがすごく恵まれていると思った。
「とりあえず、免疫を強くする薬は出しておきます。今はそれぐらいしかできませんが……」
母さんは首を振りながら礼を言っていた。僕も一緒にお辞儀をする。
「この病気の怖いところは、免疫が落ちることによってたくさんの病気が併発してしまうことです。たくさんの病気にかかってしまうと、身体は持ちません。
四月の時点で爽太君は、免疫の器官が壊されていて、このまま壊され続ければ三か月以内に病気が一度に併発し、危険になるだろう、という状態でした。でも、今は進行がとてもゆっくりで、四月の時点とそこまで変わりないので、多分しばらくは心配いらないでしょう」
そこまで一息に医者が言うと、母さんは、もっとほっとしたような顔になった。
「一緒にがんばりましょう」
でも、僕は今度は体の力を抜けなかった。
一緒にがんばりましょう、その言葉が、とても残酷に僕の体を締め付けた。もう、頑張ってるんだよ。これ以上、どうしろって言うんだ。
僕は頷くこともせず、ずっと下を見つめていた。
その後、母さんの仕事が休みだったから、僕はお昼を久しぶりに家で母さんと食べた。
「暑いから、そうめんでいいね」
玄関にかけてある風鈴が、ちりんと鳴って、外からは、青臭い匂いのする風が入ってきて、僕はちょっと大きく息を吸った。青臭い、草の匂いは好きだ。この香りは、いつも屋上に吹く風の香りだった。生の、生きようとする香り。
茹で上がったそうめんはガラスの容器に入れて、氷もいれた。ひんやりとした麺をすすろうと箸でとるたびに、氷がカランと鳴る。
「おいしい?」
「うん」
そうめんは熱い喉をするっと流れていき、火照った体を冷ましてくれる。
「あれ、そのブレスレットどうしたの?」
僕の左手首を指差して母さんは聞いた。鮮やかな夕焼けのような色は、男の僕より瑞穂のほうが似合うんじゃないかと、今になって思う。
「祭りで買ったんだ」
照れくささに目線を合わせずに言うと、母さんは面白そうに、へえと言って笑った。
「女の子と行ったのね」
「え」
なんでわかるんだ。
動揺を隠しきれずに目線を泳がせていると、母さんはおかしそうに笑った。白い頬に赤みがさして、横で一つにまとめてある髪が楽しそうに揺れる。
「わかるわよ。お祭りの日、結構準備に時間かけていたもんね。あんたの浴衣、買っておけばよかったね」
僕は激しく首を振った。そんなの絶対だめだ。瑞穂に浴衣の僕を見せるなんて、そんなの考えただけで倒れてしまう。
「なに顔赤くしてるの」
母さんはさらに笑う。僕も笑った。ずっと僕の病気のことで頭がいっぱいだった母さんは、きっと、こんな話を聞けることが嬉しかったんだと思う。
「どうする?今日は、家で寝てる?」
ひとしきり食べ終わった後、僕は麺つゆがたっぷりしみこんだ氷を口に含み、ガリガリと噛んでいた。こうすると口の中が冷えて気持ちいいのだ。氷を含んだ口でうんとは言えないので、首を縦に振る。
「お行儀悪いよ」
でも、母さんの顔は笑っていた。
僕は、もっと母さんに笑ってほしかった。でも、もっと変なことをしよう、笑って涙が出ちゃうくらいのおかしな話をしよう……そう思って、何かしようとするのだが、何も浮かばない。
「爽太、いいよ」
いつの間にか、母さんはもう笑っていなかった。
「母さん、十分だから」
そう言ってもう一度笑った。かなしそうに、顔を歪めて。
「ごめんなさい……」
思わずぼくが謝ると、母さんは僕の肩に手を置くと、お買い物に行ってくるから。そう言って家を出て行った。
自分の部屋に戻り、ごろんと横になる。窓の外の青空が迫るように広がっている。
さらに自分が吸い込まれて行くような気がした。
爽やかな風が吹き、玄関の風鈴がまた鳴った。
心地よい風に身を任せ、ゆっくりと瞼を閉じる。瞼の裏には、青空の残像が残されたままだった。
✿
屋上はいつだって爽やかな青葉の香りがした。
月曜日、友だちになって五日目。僕はいつものように瑞穂を屋上で待った。
「おーい、青木」
そう言って駆け寄ってくる瑞穂の姿を見るのが、僕はたまらなく好きだ。
いいなあ、と思う。彼女はとても青空が似合う。瑞穂と一緒にいろんな空を見たい。
「最近、腹が立つほど空が綺麗だね」
来て早々瑞穂はぼやいた。青い空に向かって、舌を出す。あっかんべえと、小さい子みたいにやって、馬鹿みたい、と笑う。
「そうだな」
相槌をうちながら、空を見上げる。あの祭りの前の夜以来、雨は全く降っていない。今は夏だから、夕立が降りそうなのに、なぜかずっと晴れている。だから、たとえ今行っても、鏡の池は見れないだろう。……あの祭りの日の夜は、本当に奇跡だったのかもしれない。
「あと少しで、手、届くかな」
ぐっと、瑞穂は空に手を伸ばす。
その時、滑らかな白い肌がところどころ赤くなっているのが見えた。中には青く変色していたり、紫になっているものある。
胸がすっと冷たくなった。
それは、普段は見えないような、セーラー服の袖の中にあった。ぐっと伸びたときに袖がまくれて、二の腕が見えたのだ。
「これ、虫刺され?」
そんなわけない。分かっている。でも、僕はあえてそう聞いた。そうだよ、そう言ってほしい。瑞穂が階段から落ちた、と言った時と同じ気持ちだった。
「いや、転んだ」
瑞穂はけらけら笑って、痛い痛いと言う。
「どこで転んだの」
瑞穂は目を合わせてくれない。それがぼくの不安をかきたてた。
「どこだろねー、忘れちゃった」
ふふふ、楽しそうにおかしそうに瑞穂は笑う。
「ねえ、瑞穂」
肩をつかめば、びくっと体を震わせて顔をしかめ、鋭い目でこちらを睨んできた。
「肩、痛いの?」
セーラー服の襟元から赤黒い痣が見えた。
一瞬、僕の体はひんやりとした何かに包まれたが、それはすぐに嫌な熱となった。汗がつう……と背を伝って落ちる。心臓が嫌にドクドクと鳴っていた。
「なんだよ、その痣」
なんでそんな痣が、体のあちこちにあるんだよ。……僕はなんで、気づかなかったんだろう。
「触らないで、爽太君」
ぴしゃりと瑞穂が言った。両手で丁寧に僕の腕をつかみ、離す。初めて瑞穂に呼ばれた名前は、冷たい響きだった。
「触っちゃったら、とうめいじゃなくなる」
一歩後ろに下がり、瑞穂は僕と距離を置く。ぴんと張りつめた糸が僕と瑞穂の間に張られ、少しでも動いたらその糸が切れてしまいそうだった。
「あと二日だから、教えてあげる」
首を傾げ、瑞穂はことりと笑う。それが苦しそうに見えた。
「わたし、親いないんだよ」
満面の笑みで笑いながら彼女は続ける。
「今、親戚のところにいるんだ。でもね、あの人たち、普段はわたしのこと、いないものみたいに扱うのに、たまに、見えるみたいなの。なんでだろ、見えないほうが、ずっといいのにね。学校の人、すごく親切だよね。あ、でもこの前のあの、女好きは嫌い」
瑞穂はまくしたてるように早口に言った。……瑞穂の身体の痣は、親戚の人にやられたものなのだろうか。
僕が黙っていると、瑞穂はくすり、と笑った。
嘲笑うようなのに悲しそうに見えるのは、僕の都合の良い解釈だろうか。
「教えてあげるよ。わたしに何があったか」
そういって、瑞穂はまるで物語を語るように話し始めた。