六、一瞬の奇跡
「目、あけるなよ」
表の屋台の通りとは一本外れた道を行き、しばらく歩くと目的の場所についた。祭りのざわめきが、遠くから聞こえてくる。瑞穂はまだ? と、いらいらした様子で目をぎゅっと閉じている。
「もういい?」
僕は答えない。
ここは、僕の奇跡の場所だった。
昨日の雨で、いつもなら水のない池に、水が溜まっていた。その水たまりが風のない夜、滑らかな鏡となるとき、奇跡は起きるのだ。
そして今日はさらに二つの奇跡が起きていた。
「あけるよ」
面倒くさそうにつぶやいて、瑞穂は目を開いた。でも、その瞳はみるみるうちに輝きだし、星空を映す。
「うわあ……」
口を小さくあけ、息を吸っては吐く。そうしないと、呼吸をすることさえ忘れてしまいそうなほど、瑞穂はこの奇跡に見とれていたようだ。
滑らかな水面には一年で一番美しい星空が映され、手を伸ばせばつかめるのではないかと錯覚するほどのきらめき。
これが、一つ目の奇跡。
もう一つの奇跡は、屋台の灯だった。
遠くにある屋台の灯がやさしく水面に反射しているため、この場所全体が、ぼんやりと明るくなっているのだ。
鏡のように滑らかな水面に、いくつものきらめく星々。やわらかな灯に包まれたこの場所は、夢のように僕たちに奇跡をくれた。
「青木、綺麗だよ、すごく綺麗だよ」
何度も瑞穂は僕の名前を呼んだ。そして駆けだした。僕も駆けだした。
「綺麗だな、瑞穂、綺麗だな」
大きな鏡の池の畔に立ち、瑞穂は頷くと、喉から言葉を押し出すように、つぶやいた。
「わたしたち、世界から取り残されたみたいだね。ここだけ、切り取られたみたいに……。二人ぼっちじゃん」
笑う瑞穂の潤んだ瞳の中には鈍い光があった。
「こんな綺麗な場所なら、いいかもね」
また、彼女は笑う。泣き出しそうな笑顔で、必死に涙をこらえながら、笑う。
瑞穂の言葉が、頭の中で繰り返される。何かがはじけて熱いものがこみ上げてきた。それは息苦しくやさしい、情熱だった。
手が伸びる。僕の両手はまっすぐに、瑞穂の方へと伸びていく。
「瑞穂……」
瑞穂の肩をつかみ、引き寄せた。浴衣の生地越しにぬくもりが伝わる。そのまま僕と彼女は座り込んだ。
「なに、すんの」
動揺で動けないのか、瑞穂は焦ったように、口をぱくぱくさせた。
「ごめん、瑞穂」
僕、やっぱり君が好きだ。
でも、その言葉は出ずに、吐息となって消えた。涙が出そうになる。こらえても零れ落ちそうになる。瑞穂の体は、小さくてあたたかくて、このぬくもりを忘れたくない、そう思った。
過ぎ去っていく、この一瞬一瞬が痛いほど大切で、愛おしい。
「青木、どうしたの」
瑞穂の声が震えている。はっとして顔を覗き込めば、瑞穂はぼろぼろと大粒の涙を零していた。それがきらきら輝いて、地面を濡らしていく。
「綺麗だね、哀しいくらい」
震えながら瑞穂は僕にしがみつき、泣いた。
「もう、だめじゃん。こんな綺麗なもの、だめだよ……。どうしよう、涙が止まらない」
あはは、そう笑う瑞穂はもうぐしゃぐしゃの顔で。僕もたまらず泣きだした。
生きたい。そう思ってしまった。瑞穂とずっと一緒に生きたい。生きて、生きてたくさんのものを抱きしめたい。僕は願ってはいけないと心に関を作っていたのに、それはもう崩れ去ってしまった。
「綺麗な景色ってさ、いろんなこと、綺麗にしてくれるよね。どうしようもないことも、この瞬間だけは、どうにかなりそうな気がするよ」
涙をぬぐって、苦しそうに瑞穂は笑った。その笑顔に隠された悲しみが見えたような気がして、僕は瑞穂の肩を強く掴む。
「瑞穂……?」
僕をじっと見つめて、瑞穂は笑う。その笑顔に心がざらつく。
「何もないって。大丈夫だよ」
嘘つけ、嘘つくなよ。
「青木、ありがとう」
風が吹く。奇跡が終わった。水面はゆらゆらと揺れて、もとの水たまりに戻った。
「終わっちゃったね」
瑞穂は僕からすっと離れると、池の中に入っていく。くるぶしまで水につかると、こちらを振り返り、微笑んだ。
「奇跡ってさ、一瞬だから綺麗なんだよ。ずっと続いたら、綺麗じゃなくなるもんね」
……ずっととか永遠だって、綺麗なものはあるんだよ。でも、この言葉を僕は言えなかった。
そんなことを言えるほど、不確かなものを確かだと言えるほど、僕は優しくなかった。
ずっと後になって、僕はそれをとても後悔した。もしそれを瑞穂に伝えられていたら、何か変わっていたのかもしれない。
「帰ろう、瑞穂。美味しいもの食べて」
心はまだ、落ち着かない。でもここにいると、瑞穂はずっと遠くに行ってしまいそうな気がしてならない。それが不安で仕方なかった。
でも、頷いて瑞穂は傍らに戻ってきた。
来た道を戻り、再び屋台の通りに出て、手を握り歩き出す。焦げたソースの匂いや甘い飴の匂い、かき氷のシロップの匂い……たくさんの匂いが漂っていた。
「あ、ねえ、ぶどう飴食べたい」
ちょっと鼻の詰まった声で、瑞穂がつぶやく。
「いいよ、一緒に食べよう」
そう言ってぶどう飴を一本ずつ買った。
瑞穂はそれを屋台の灯にかざして、ぶどうを包む飴がきらきらするのを満足そうに眺めていた。
「おいしい」
舐めると、甘いぶどうの飴の味がして、ちょっと噛むと中の果実がはじけて、甘酸っぱさが口いっぱいに広がった。
さっき泣いていたのが嘘のように、僕も瑞穂も笑顔になっている。
その後も、あれ食べたい、これ食べたいと言う瑞穂の声に立ちどまっては顔を見合わせて笑いあった。
ひととおり祭りを回って、最初に寄った石のお店でブレスレットを受け取った。その頃には辺りは暗闇に包まれ、月も高くなっていた。細い、三日月だった。
「そういえば、瑞穂のその石の言葉ってなんなの?」
黒と青の小さな石が交互に並んだそのブレスレットは、夜の闇の中で鈍く光っていた。
帰り、月明かりに照らされた夜道を歩きながら、瑞穂は笑った。
「黒いのは、生命力。青いのは思慕だって」
僕のは、慈愛、誠実だった。石言葉があるなんて、知らなかった。
「今日は、ありがとう」
学校の裏門が見えてくると、瑞穂は小さな声で礼を言った。
「こちらこそ、ありがとう。っていうか夜も遅いし、送ってく」
でも、瑞穂は困ったように首を振るだけだった。
「うちの家、ちょっと面倒だからさ」
だからここまでで大丈夫。
面倒ってなんだろう。今日一日一緒にいて、僕は胸がざわざわすることが多かった。
瑞穂の抱えている何かが、暗い影となって見え隠れする。そのたびに、僕は触れることのできない瑞穂の心を思うのだ。
「なにか、あるのか」
踏み込んでいいのか、分からない。でも、触れて、一緒に抱えたい。苦しみも哀しみも、一緒に背負いたい。
「ないよ、なにも」
静かな夜だった。いつのまにか、祭りのざわめきは聞こえてこなくなっていた。
「そうか」
「うん」
じゃあね。
それ以上何も言わず、白い腕を振って、彼女は帰っていった。
「おう」
僕も手を振りかえす。瑞穂の姿が闇に溶けて見えなくなるまで、僕は手を振り続けた。
家に帰って眠ろうとしても、僕はなかなか寝付けなかった。
目を閉じても瑞穂の姿がちらつき、彼女の香りがふと自分の体から香るような気がして、寝付けないのだ。
部屋の窓を開けると、月は天上に座していた。月の光が差し込み、部屋を青白く照らす。薄い雲が流れ、月にかかった。薄い雲は月の光をよりやさしく見せてくれた。でも、厚い雲は光を遮り、やさしささえも消してしまう。
瑞穂は――瑞穂が見せてくれたのは、薄い雲に隠された光の、やさしさなのだろうか。
今日泣いたからか、まぶたが痛んだ。
その痛みを押し殺すように、僕はただ、ぎゅっと目を閉じていた。