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とうめいな恋  作者: 春野
2/15

二、おいしいご飯

そうか、僕は、死ぬのか。


無機質な白の壁に、夕暮れの光が差し込んでいる。春の霞んだ空は淡い紫色になっていた。

 そんな綺麗な空のもと、僕は他人の口から自分の死を宣告された。


 母さんが泣いている。声はあげず、ただひたすらに唇をかみしめている。僕はまっすぐ、自分を長く診てくれていた医者の首を見ていた。


 普通に生きてきたつもりだ。悪いことも、いいことも、何もせずに生きてきた。普通にしゃべり、普通にご飯を食べ、普通に笑って、普通に怒りもした。何一つ特別なことはしていない。もちろん、これからも普通に生きていくつもりだった。年老いて、それなりに自分の生を全うしたころに、死ぬつもりだった。そんなあたりまえが、あと三か月で壊れる。


 日が落ちて、辺りが急に暗くなった。黒い影が、医者の顔に落ちる。


「でも、短くて余命三か月なので。二年以上生きる人もいます。ただ、この病気は実態がまだ明らかになっていません。ですから、この先どうなるのかは、わたしたちにも分からないです。ただ、ここより大きな病院なら、治療ができるかもしれません」


 僕も母さんも馬鹿じゃない。短くて三か月という意味も、この病気がどんなものなのか不明なのも、分かっている。でも、その三か月で奪われる命が確かにあるのだ。それは、僕かもしれない。少なくとも、どんなに病気の進行が遅くても、あと三か月で僕はあたりまえの生活が困難になるだろう。


 神様なんていやしないのだ。もしいるとしたら、その顔には嘲笑が浮かんでいるはずだ。

 それでも、泣きたくない。少なくとも母さんの前だけでは泣きたくない。僕が泣いたら、母さんはもっと自分を責めて、もっと苦しむだろう。そんな姿は見たくないから、絶対泣かない。


「爽太、どうする、頑張って治療してみる?」


 母さんが真っ赤な目を見開いて聞いた。


 それを選ばない限り、僕は死を待つしかない。黄緑色のカーテンがゆらゆらと揺れた。なまあたたかい風が部屋に舞い込んで、僕は息が詰まりそうになる。おいしくない飲み物を一気飲みした時と同じだ。


「うん、そうする」


 吐き出すように言った。喉がからからに乾いて、喉と舌がひっついたみたいだ。

 医者の、甲斐田先生は、そうですか、と頷いた。


 病弱な僕は、何度もこの先生にお世話になった。でもここから先は、もっと大きな病院に行くことになる。この先生ともお別れだ。


「先生、ありがとうございました」


 母さんが深々と頭を下げる。いや、そんな、そう言った先生の目が真っ赤になっていたのが、ちらっと見えた。


「今日は、何かおいしいものを食べようか」


 母さんはいつになく明るい顔で笑っている。僕はぎゅっと唇を結んだ。

 家までの道のりは街灯が少ないため暗く、道もあまり舗装されていない。がたがたと揺れる車内で、ぽつんと立っている、今にも消えそうな街灯が震えているのをぼんやりとみていた。


「なにがいい? なにがたべたい? ステーキにする?」


 母さんの言葉に、僕はじゅうっと肉汁が溢れ、とろとろの肉が口の中にとろけていくのを想像した。

 ごくり、と唾をのむ。でも。


「とん汁がいい」


 ステーキよりもとん汁が良かった。他の野菜やら肉やらから出た出汁は味噌によく馴染んで、あつあつの汁は冷たい僕の体を温めてくれるだろう。


「そっか」


 母さんがくすっと笑った気がした。ほっと肩の力が抜ける。


「とん汁にしよっか」


 それ以上母さんは僕に話しかけなかったし、僕も母さんに話しかけなかった。

 いよいよ街灯が本当に少なくなってきた。田んぼの畦道に入ったのだ。もう少し行けば、僕の家が見えてくる。

 遠くの家には黄色っぽい光が燈っており、それがぽつぽつと夜の田んぼの向こう側に見えるので、何となく蛍を連想した。

 見えてきた僕の家を見ると、灯は燈っていない。あたりまえだ。僕の家は、誰も――父さんもいないのだから。



 父さんが亡くなってしまったのは、今から六年前の、小学五年生の夏だった。ただ暑くて、天気が良かったのを覚えている。

 父さんは腕のいい大工だった。部下の面倒見もよく、仕事も黙々とこなしていたため、周りからの信頼も厚い。僕の自慢の父さんだった。

 僕は何度か父さんの仕事場に行ったことがある。木くずがたくさん落ちていて、木のつんとした匂いがした。そんな仕事場で、いつも父さんは僕が来ると、笑顔で「よおっ、爽太」と笑っていた。たくましい腕を振りながら、日に焼けた顔でにかっと笑う。

 仕事場に子どもがいるなんて、今考えれば邪魔だったのだろうなと思うが、みんなやさしく僕の遊び相手をしてくれていた。だから僕は、父さんの仕事場に行くのが大好きだった。


 でもその仕事場で、父さんは死んだ。

足を踏み外したのだ。二階ならどうにかなったかもしれない。だけど父さんのその時の担当は三階だった。


 父さんが転落したころ、僕は友達と学校で給食を食べていた。牛乳をたくさんおかわりして、揚げパンもたくさん食べて、おいしいと笑っていたのを覚えている。それは、自分へのご褒美のつもりだった。

 その日、算数のテストが返された。苦手な図形のテストだったが、僕は百点だった。父さんのおかげだった。家の図面も書く父さんは、丁寧に図形について教えてくれて、もし百点を取ったら、バスケットボールを買ってもらう約束をしていた。


「今日ね、僕百点だったんだ」

「そうか、頑張ったな、爽太。よし、ボール買いに行くか!」


 そんな話をするはずだった。日に焼けた父さんと青空の下、自転車をこぐつもりでいた。


 でも、僕が急いで病院に行ったとき、父さんはもう、意識不明の状態だった。

 僕はずっと父さんの手をつないでいたんだ。そうすれば、きっと握りかえしてくれるって信じていたから。でも、大きな父さんの手は、握りかえしてくれなかった。


 死ぬ間際、一瞬だけ父さんは目を覚ました。母さんが叫ぶ。僕も叫んだ。仕事の上司の人も、部下の人も、同僚の人も、みんな叫んだ。父さんは愛されていたんだ。父さんは答えない。だけどふっと目元がやわらいだ気がした。僕と母さんを見て、笑ったような気がした。でも、ゆっくりと父さんは息を吐き、その息を吸うことは、二度となかった。


 走馬灯のようにこれまでの人生が蘇る、というのはよく聞く話だ。あのとき、父さんは何を思い出したのだろう。僕のことだろうか、母さんのことだろうか。もしそうなら、嬉しい。そして、もし本当に蘇るなら、その蘇った記憶にとどまることはできないのだろうか。……僕がそうなったときは、どの記憶にとどまるのだろう。


 そんなことを、沢山の灯をみつめながら、ぼんやり考えた。

 

「ごはんできたよ」


 白いご飯にとん汁、煮物、きゅうりの漬物。どれもおいしそうだった。ほかほかと温かな湯気を出して、その向こう側で母さんがやわらかく、哀しそうに笑っている。

 とん汁の熱さは、体の中にじんわりと広がった。具にもよく味がしみこんでいて、大根をかめば、しみこんだ汁が溢れてくる。豚肉はやわらくておいしい。さといもはぬめりがあって、なかなか箸でとれなかった。箸が、震えていたのかもしれない。


 そのとん汁は、やさしい味がした。甘いような、でもお菓子の甘さとは違う甘さ。やはり、やさしい味がぴったりかもしれない。ほんとうに、おいしい。当たり前の食事なのに、もう泣きそうなほどおいしかった。


「ごちそうさま!」


 たまらずに僕は自分の部屋へ駆け込んだ。

 涙が止まらない。

 もう、どうすればいいのかわからない。

 どうしてこうなってしまったのだろう。病気になったのは、去年の冬だったのに。自分でさえその病気をよく分かっていないのに。その分からないものに、僕は殺されてしまうのか。どんなふうに生きていても、運命は、変えられないのだ。

 頭の中で「どうしてだろう」という疑問がふくらむうちに、ふと、明日は学校だと思った。

 学校には、健康な奴らがたくさんいる。

 明日のことなんて考えずに、自分のやりたいことだけをやるやつがたくさんいる。

 僕は、もうすぐ消える。消えて、見えなくなって、とうめいになる。


 もしそうなら。人と関わる意味なんてないと思った。こんないつ死ぬか分からない僕と付き合う人はいないだろう。そう思った。

 もし誰かと深い関係を築いたまま僕が逝けば、その残された誰かは、心に大きな洞を抱えていくことになる。それだけは嫌だった。大切だから、嫌だった。


 僕の頭の中に、友人の顔が浮かんだ。母さんの顔が浮かんだ。小学生のころ、好きだった女の子の顔が浮かんだ。どの顔も、僕は今もちゃんと思い出すことが出来る。


 そのたくさんの顔の中で、一人、冷めた目で遠くを見つめる少女の顔が浮かんだ。


 森沢瑞穂。


 彼女はいつも一人で冷めた目で遠くを見つめている。白い肌と黒く長い髪をもった、この春、初めて同じクラスになった少女だった。特に話したこともない。ただ、僕は彼女の顔も、しっかり思い出すことが出来た。


 なんだろうな、なんで彼女のことが。僕は苦笑して、敷きっぱなしの布団の上に倒れこむ。なんとなく陽だまりの香りがするような気がした。窓の外の霞がかった月が、ぼんやりと部屋を照らしている。


「あー疲れた」


 なにもかも面倒になり、僕は眠気に任せて目を閉じる。瞼が熱い。眠気からか、泣いているからなのか僕にもわからない。


 眠りにつく直前、森沢瑞穂のことがまた頭に浮かんだ。

 じっとこちらを見つめるまっすぐな、黒い瞳が。今にも泣きだしそうな濡れた瞳が。

 その瞳の美しさが胸に残り、僕は眠りについた。


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