一、青葉の香り
手をそっと太陽にかざしてみると、白い肌は透けるように見えなくなった。目が眩んでしまうような夏の日差しは、わたしの存在を消して塗りつぶしていくみたいに、強くふりそそぐ。
「つまんないなあ」
わたしは、かざしていた手をおろして寝ころんだ。コンクリートの床の冷たさが背に伝わり、火照っていた体が冷えて気持ちいい。その心地よさに身をゆだね、わたしはゆっくりと目を閉じる。
屋上には誰もいなくて、さわさわと葉の揺れる音がどこからか聞こえた。瞼の裏には光の残像が残されていた。
ふっと蘇る先ほどの記憶に、冷たいはずの背が燃えるように熱くなる。考えるのはよそう、そう考えても、その残像はこびりついて離れない。
「あれ、森沢さん。いつから、そこにいたの」
聞こえるはずのない声が耳鳴りのように聞こえる。最近、よく言われるようになった。
教室で一人で座っていると、決まって言われるのだ。いつから、そこにいたの、と。
「ずっとここにいたよ」
震える声で、わたしはいつもそう返す。
答えながら、わたしはいつも、自分の存在が、自分のいる意味がないのかと思った。
誰かに声をかけても言葉は返ってこない。唯一返ってくる言葉はいつだって「いつからそこにいたの」なんだ。学校でも、家でも。誰もがくすんだ瞳で口をおかしそうに歪めて、笑うのだ。
まるで、わたしが目に見えない、透明人間だと言うように。
「ほんと、いやになっちゃう」
わざとらしく言った言葉は、乾いた響きを持っていた。
寝転びながら見上げた入道雲が、腹立たしいほどの青空によく映える。青と白のコントラストが美しい。ゆっくりと、吸い込まれるように立ち上がり、わたしは歩く。
綺麗すぎる青に、わたしはどうしようもなく魅かれた。恍惚とした思いで、わたしは歩き続けた。
あと少し、あと少しであの雲に届く。……届いたら、わたしはもう戻れない。
屋上の手すりを越えた。いつか、誰かが言っていた。死神は、ひどくやさしい顔をして、強く甘ったるい花の香りをまとっていると。
生きているものたちなら恐れるだろう「死」が、なぜやさしく、甘ったるいのか。もしかしたら、それは現実という苦しみから逃れる唯一の術で、罠だからかもしれない。
わたしは虫のようにその甘い香りに誘われ、最後の一歩を踏み出した。手を伸ばせば、あの迫るような入道雲に届くだろうか。
そのとき、ふっと、風が吹いた。
それは南風にしては冷たい、青葉の香りのする風だった。突然のことにバランスを崩し、尻餅をつく。
「君、とうめい人間だよね」
後ろで誰かが小さく笑う気配がして、振り返れば、澄んだ瞳をもった、少し年上くらいに見える青年が立っていた。
とうめい人間と言った彼は、首を傾げながら微笑んで、手を差し出した。
「ほら、立ちなよ」
明るい声に諭され、差し出された手を握る。思っていたよりも冷たくて、でも大きな手だ。そのおかげか、尻餅をついていたわたしは、簡単に立ち上がることが出来た。
「ずっと見ていたよ、君のこと。君の声も思いも、ちゃんと届くよ」
くぐもった低めの声は、やわらかく耳に届いた。わたしの手をぽんぽんと叩きながら、彼は続ける。青い空を見上げ、ため息をつきながら。
「先の世界は、そう悪くないからさ、もっと雲に届くのは先のほうがいい。僕より後のほうがいいよ。いやでも届く時が来るから」
彼が何を言っているのか分からない。それでも、その言葉はわたしのなかへ流れるように入ってくる。素直に、うんと頷けるように言葉が胸に響いた。
風がやむ。
時が止まってしまったように、世界からこの屋上だけが取り残されてしまったように、静かだった。
「君は、君とは別の君は、きっと嘆いているよ。だから、忘れないで。僕のこと」
今にも泣きだしそうな彼の顔は、夏の夕立を連想させた。そのせいか、わたしは反射的に答えていた。
「うん」
風が吹く。やはり、冷たい風だ。
彼は、満足そうにうなずいて囁いた。
「それじゃ、お先に」
青空が迫る。わたしは一人、屋上で眠っていた。
「夢か」
忘れないで、僕のこと。
声がする。かすかに、青葉の香りもした。
今の青年は、誰だったんだろう。どことなく、懐かしい雰囲気があった。
そんなことを考えながら、わたしはゆっくり深呼吸をして、伸びをした。
あたりまえの、昼休み。七月九日のことだった。