クリスティーナの初恋人
ベルミナへと向かう馬車の列があった。
甲冑を着こんだ者たちが護衛に付くこの馬車には、ソニア・クラーラ・ヴァリマキの姉であるクリスティーナ・ロヴィ・パラリエーナが搭乗していた。
ベスミアに、妹のソニアが現れたという噂はクリスティーナの耳まですぐに届いていたのだ。
その噂を聞いたクリスティーナは、居ても立ってもいられなくなると城を飛び出し、それを近衛隊が追いかけてきて、今に至った。
クリスティーナは、無理やり乗せられた馬車に揺られながら、古い記憶を思い出していた。
まだ姉妹が幼い頃に遊んだ記憶だ。
その日は二人で遊ぶのは久しぶりだったので、クリスティーナとソニアは夢中で走り回っていた。城の中でかくれんぼうしたり、一緒に兄をからかいに行ったりするのが定番であったが、その日は中央庭園で鬼ごっこに励んでいた。
ソニア7歳、クリスティーナ12歳。歳は少し離れていたが仲の良い姉妹であった。
面倒見の良い姉のクリスティーナは、ソニアを楽しそうに追いかけるのだ。渋々付き合っているわけではない。自らもめちゃくちゃに楽しんでいる、これは歳を取っても変わらなかった。子供っぽい、それがクリスティーナの唯一の欠点であった。
その日の鬼ごっこも楽しいものだった。誰にも邪魔されない、最愛の妹との二人きりの時間であった。
二人の少女のほのぼのとした光景を、誰かが窓から眺めていた。
中央庭園に接している一階の長廊下、そこの一つの窓を開けて、男は窓縁に肘を立ててタバコを嗜んでいた。
妹から話に聞いていた教育係だろうか、そう思ってクリスティーナは、ソニアを押さえながらその男の方を向いた。
その瞬間、クリスティーナの心に風が吹いた。運命的な瞬間、時が止まった錯覚を得た。
ゼハールと名乗った男は、一言で言えば自由な人物だった。
自分の堅苦しい教育係と比べれば、傍若無人と言えただろう。強烈に記憶が残っている。
妹のソニアはゼハールに育てられ、順調に育っていった。怖いくらい順調に、そして多分に影響を受けてすくすく成長していった。
15歳になる頃には20歳のクリスティーナの身長を抜いて、この頃から戦場に出るようにもなった。
クリスティーナは気が気でなかっただろう、ソニアが大ケガを負ったり、へたすれば殺されるかもしれないのだ。
戦場の方向にクリスティーナは一週間祈り続けた。その祈りが通じたのか、ソニアは傷一つ負わずに帰って来たばかりか、敵部隊の隊長クラスを討ち取る手柄をあげてきたのだ。我が妹ながら驚いて、何も言えなかった。
それから少しして、クリスティーナはベスミオの王子、エクトラ・レダ・パラリエーナと結婚する事となり、それ以来会う事はなかった。
だいたい3年、久しぶりに会えるのだ。素直に嬉しいことであった。
クリスティーナの聞いた話では、男を連れていたとの事である。間違いなくゼハールに違いないと、クリスティーナは確信していた。
「ゼハール……」
馬車の中でぽつりと呟いた。
それが微かに聞こえたのだろう、馬を並べていた近衛隊の隊長が窓から覗いて、
「何か仰いましたか?」
と、訊いて来たのでクリスティーナは慌てて誤魔化した。
「何でもありませんわ」
「そ、そうですか。ベルミナまでもう暫くかかりますので、何か用があれば何なりとお申し付けを」
「ええ、下がっていいですよ」
隊長が頭を引っ込めると窓を閉めて、胸を押さえた。
ドキドキと鼓動が高いのが分かる。年甲斐もなく、初恋の相手と会えると分かってはしゃいでいる。そんな自分が情けなく思ったのだろう、髪をかき上げ後ろにまとめて余計なことを考えないように集中し出した。
紐で一括りにしてポニーテールを作る。壮麗で美しい彼女には、馬のしっぽも良く似合っていた。
だが、それでも彼女の頭にはゼハールの顔がちらつき、そうして、自分が悪いことを考えないようにと苦闘していると、時間がすぐに過ぎていった。
ベルミナの街に到着すると、いよいよヴァリマキ家の親族だ、と人々が集まって騒がしくなり始めた。
クリスティーナは、ソニアが泊まっている聞いた宿の前で降りると近衛隊を待たして、一人だけで中に入って、店主の男性にソニアの部屋を尋ねると、二階の右奥、と丁寧に伝えてくれたことに礼を言い、階段を上がり右に曲がった。
まっすぐな廊下が伸びている。奥の方でまた右に折れていたので、その奥だろう、と思いながら廊下を歩いた。
少し歩くごとに早足になっていく、曲がったころにはほぼ両足が同時に浮いていた。
奥の扉は場所的にはちょうど出入り口の真上だ、そこを軽くノックした。
トントントン。
「開いているわ」
中から声がした。クリスティーナは、久しぶりに聞いたその声に顔が緩んでしまうのを堪えながらドアノブを押した。眼に飛び込んできたのは、窓辺のテーブルで茶を楽しんでいたソニアの姿であった。
「あら、姉上。いらっしゃい」
何の連絡もなく、突然現れたクリスティーナを邪険に扱わず、立ち上がって傍に寄ると丁寧に部屋の中に案内すると、自分が座っていたテーブルまで案内する。
わざわざイスを引いてまでクリスティーナを座らせる様子を見るに、自分の姉がやって来ることを予感していたのだろう。何も言わずに、ティーカップに茶を淹れると、ソーサーも置かずにクリスティーナの前に差し出した。
漂う香りはクリスティーナの好きな香りであった。アプリコットである、甘酸っぱい香りが姉の鼻腔をくすぐった。
妹は、きっと来るであろう姉の好物を準備しておいたのだ。
「頂くわ」
クリスティーナはカップを口に運びながら、部屋の中を眼だけで見渡した。
ソニア意外に誰もいない様に思えた。ベッドも一つしかないが、部屋の片隅には無骨な剣が置かれている以外に男っ気はなかった。
窓の外から何人かの話し声が聞こえてきた。街の人たちが近衛隊を見て騒いでいるのだろう、とくに気にも留めずに茶を口に含んだ。
「おいしいわね」
味わうなりそう言った。
昔より腕を上げていた。ソニアの淹れた茶を飲んだのは、まだゼハールに習ってで作り始めたばかりのころだった。もう何年も経っているのだから、おいしくなっているのは当然といえば当然であったが、宮仕えの執事が淹れてくれた物より断然おいしく感じたので、クリスティーナは内心驚いていた。
「今日はどうしたの?」
一息ついた後に、クリスティーナはゆったりとした口調で言った。
自分に用事がある風には思えなかった。それにソニアは、アルマースから出たことがないはずである。ソニアのことだから、重要な要件があるように思えなかったが、これを聞かずして会話は始まらない。
「旅よ、旅」
ソニアはしれっとそう言った。
思いもよらぬ回答に、クリスティーナは我が妹の顔を見つめながら、わざとらしく首を傾げて見せた。
それに応じるように、ソニアは首を縦に振った。もう一度言うのが煩わしかったので頷いただけだったが、姉にはそれだけ通じたようだ。
「た、旅ってどういうことよ!? 父上と母上が許してくれたの?」
喉に言葉を引っかけて喚いた。
「はっはははは! そんな訳ないわ、飛び出してきたに決まってるじゃないか」
前半の言葉を聞いて、ほっ、としたのも束の間に暴言とも取れる言葉にクリスティーナは度肝を抜かれながら、必死に会話を成り立てようとする。
「い、家出してきたの!?」
「まあ」
我が妹ながら、クリスティーナは呆れ果てて、もう何も言えなかった。
まさかここまで自由奔放に成長していたとは、同じ王家の娘とは思えない行動は昔から取っていたが遂には国を飛び出す。
着々とゼハールに似てきているな、とクリスティーナは溜息をつき、茶を飲んだ。
家出してきたとは言っているが、茶の味は驚くほどにうまいのである。
クリスティーナはこういった所に過敏である。ちょっとした仕草や声色にこそ、人の心が出るというもの。それに関すると、ソニアが淹れたこの茶は心の乱れのある者が淹れた味ではなかった。恐らく本人が望んでの家出なのだろう、と察し、もう少し詳しく聞きたい所であったが、
「そっちはどう? エクトラ殿下とは上手くいってる?」
ソニアの方から話を振って来た。向こうは向こうで、もう家出の話は終わって気でいるらしい。だが、ここでうやむやで聞けなくなってしまっては気になって夜も眠れない。
詳細は、後で本国に手紙を出すとして、ざっくりとでも良かったのでソニア本人の口から訳を聞きたかったクリスティーナは、ソニアの質問には答えず、質問を返した。
「こっちの心配はいいのよ。ソニア、あなたどういうつもりよ? きちんとした訳を聞かせてちょうだい」
「ふぅ、面倒くさいな」
だが、ソニアは答えるのも面倒であった。クリスティーナが自分を心配する気持ちも分からなくはないが、そんな事を聞きに来たのではなかった。
小言を軽く聞き流しながら、窓の外の景色に思いを馳せていると、部屋に中にルイが入って来た。
「姫! 買ってきましたよ」
袋を小脇に抱えて入って来たルイは、その足でソニアの方に近づこうとしたが、クリスティーナがいることにやっと気付いた。
一目見た時には、ソニアが二人いるのかと思ったほど二人の姿形はよく似ていた。歳を取っている分、クリスティーナの方が大人びて見えたが、それでも一瞬だけ自分の主がどちらか迷ったほであった。
「姫、こちらの方は……」
「私の姉上よ。てか、帰ってくるのが遅いわ」
「す、すみません」
ソニアは、ルイにお使いを頼んでいた。
茶に合う菓子などを買って来てほしい、というソニアの願いを聞き入れて買いに行ったはいいが、何がいいのかさっぱり分からなかった。
心配になったので、ゼハールを送ったのだが姿が見えないとなると、何処かで道草を食っているに違いない。
「その子は?」
「ん、私の家来よ」
「へ、この子が?」
ゼハールだと思っていたのは早とちりだった。
三年経ったのだ、家来の一人でも新しく付いていてもおかしくはない。だが、ゼハールはいつもソニアに付いていたはずである。いや、ソニアが付いて回ったと言った方が合っているのかもしれないが、クリスティーナは正直がっかりしてしまい、肩を落とした。
「ルイといいます。ソニアさま一の家来です」
主の姉ということで、ルイは失礼のないように丁寧に名を名乗って、主であるソニアを立てた。やっと奴隷根性が抜けてきたように見える。
「そう、元気な子ね」
茶菓子の入った袋の中身はクッキーであった。
ちょうど小腹が空き始めたころである、茶だけで空腹を満たすのは身体には悪いし、クリスティーナは甘い物には眼が無かった。すかさず、ソニアから渡されたチョコの混じったクッキーをかじろうとすると、窓の外から聞こえていた声が、突然大きくなった。
聞き取れない程度であったのに、湧いたように笑い声がこの二階の部屋まで聞こえてきた。
クリスティーナは堪らずに窓の外を見降ろすと、宿屋の前で待機していた近衛隊が酒を片手に笑っていたのだ。仕事の最中に酒盛りを始めるとは、普段温厚なクリスティーナなも血が昇って、見るからに怒りだした。
何たる不届きか、クリスティーナは激怒すると二人のことなど放って階段を駆け下りて外に飛び出した。
「どうしてお酒を飲んでいますの?」
開口一番に怒鳴った。
「わっ!? クリスティーナさま、これはその」
クリスティーナの来訪で、酒宴の席を広げていた近衛隊の者たちは狼狽して手にしていた酒を背に隠す者や、他の者の背後に隠れる者までいた。
「言い訳は無用です!!」
思わず声を張り上げたクリスティーナは、ここで大きな背を向けて坦々と酒をあおっている男がいることに気付いた。近衛隊の者ではなかった。
恐ろしく背が大きく、天鵞絨のマントをはおっている偉丈夫であった。ソニアも大層変な格好をしていたが、この男もなかなかに派手な服装をしていたので、どこぞの貴族かな、と思ったがその偉丈夫の纏っていた雰囲気が、記憶の中にある男のそれと似ていた。
「あれ、もしかして……ゼハール」
その背に、彼と思しき名で呼びかけてみた。すると男はやおらに首を、くるり、と回して振り返った。
「ん?」
片手に盃を持った男は、ゼハールその人であった。