滾る血
ビーウッコの街にある酒場。
何の変哲もない普通の酒場、そこに通う常連客も店員もまさか自分の国の姫様が飲みに来ているのは思いもしないだろう。
ソニアは、ジョッキ一杯のエールを一気に飲み干した。口から煙を吐くようにしてアルコール臭い息を出している。
この酒場では、いつもと変わらない光景であった。
いつも着ていた派手なドレスは脱ぎ、庶民的な地味な服を着て四人掛けのテーブルについていた。
対面の席にはゼハールとルイが。
ソニアは二人掛けのイスを、ドカッと一人で占領して座る。
「くうぅぅーー」
飲み干したジョッキをテーブルに叩き付け、何かを堪えるように下を向くソニアを他所に、二人は各々過ごしていた。
「すまん。ウォッカとタバコを頼む」
ゼハールは、店の看板娘に注文を頼んでいた。
この店には、ウォッカやタバコと言っても沢山の種類があるのだが、看板娘は元気な声で返事をして、ゼハールの尻に伸びる手を器用にかわすと、店の奥からウォッカの瓶と葉巻を持ってきたので、余程の常連ということが分かる。
一方、ルイはおどおどしていた。
こんな所にくるのが初めてなのだろう、キョロキョロと辺りを見渡している。
「ルイにはジュースと果物を頼んでいるから、ちょっと待っておれ」
二人が酒を交わして飲み合っているのと、頼んでいたルイのジュースとブドウが運ばれてきた。
テーブルに置かれるなり、ソニアが一番大きな粒をつまんで口に放り込んだ。
奥歯を使って皮から実を取り出し、舌で種を除いてから実を食べ終えると、小皿に皮と種を器用に吐き出し、エールを一口。
「うまい。やっぱ酒はいいわね、嫌なことが忘れられるわ」
喚くようにそう言った。
ルイがソニアの食べ方を真似して、ブドウを口に放り込むが上手くいかず、口の中でぐちゃぐちゃになって気持ち悪くなったのだろう、小皿に、ぺっ、と吐き出していたのを見かねたゼハールが、ブドウの皮だけを親指と人差し指だけで器用に剥いてルイの前の皿に実を置いてやると、ルイが嬉しそうに頬張った。
その姿を横目に、ソニアに声をかける。
「だがよソニア。そんな理由で酒を飲むな、不味くなるぞ」
「でも飲まずにいられない。胸がムカムカするの」
ソニアの血は依然として滾っていた。
先日よりも大きくなっており、胸に詰まっていた何かが背中の方にまで広がって、ムズムズしてくる。
そんなソニアにゼハールは特に慰みの声もかけてやらない。ただ共に酒を飲み、彼女の愚痴を聴いてやるだけだ。
「父上も母上も頭が固い。姫だからあれやれこれやれなんて、止めてほしい」
「前にも聞いたな」
ブドウの皮を剥いてルイの前に置きながら、ソニアの話に耳を傾けるとウォッカをラッパ飲みする。豪快な男である。
ルイはかわって、コップの中のアップルジュースを美味しそうに飲んでいた。
「そうだ。ルイに栄養のつく物を食べさせないとね」
「え、いいですよ姫」
「何言ってるのよ。男がガリガリじゃカッコ悪い、先生のようにならないと」
先生のように、と言われてルイは隣に座っていたゼハールの方を振り向いた。
こうして間近で改めて見てみると、大きな身体である。一人半ほどイスを占拠して、この店にいる者の誰よりも背が高い。
肩幅なんてどうだろうか、ルイとソニアを合わせてもその大きさを超えられないだろう。
化け物である、としか言いようがない男だ。
だが本人は、そんな巨躯で人を威嚇するような尖った感じが、一切出ていないのだ。
ルイは、どちらかと言えばソニアよりもゼハールと居る時の方が安心感を強く持てた。
例えば今ここで、何者かがソニアを狙って大勢で押しかけてきても容易く潜り抜けるだろうと、予感させてしまう男なのだ。
「ん? 俺の顔に何か付いているか」
「いえ、何でもないです」
照れ臭いようにジュースを一気に飲み干した。すると急に尿意を催してきた。
ルイは、二人に一声かけると壁に書かれた案内に従ってトイレに飛び込んだ。
用を足しながら、こうして人並みの事が出来るのもソニアのお蔭としみじみと感じながら終え、トイレから出た時に入ってこようとしていた人とぶつかった。
「あ、すみません」
ルイの身体は軽く吹き飛び、尻餅を突きながらぶつかってしまった男性に謝った。だが、相手が悪かった。
いかにもな着崩した服を着て、変わった頭髪に眉間に寄せたしわ。その全てを利用してルイを威嚇していた。
「おい。なにぶつかってんだよ? あ? おい?」
「すみません」
「何だって聞こえないな? 俺は耳が悪いんだよ、もう一回言ってくれ」
「す、すみません」
今度は、さっきより大きな声で言ったつもりだった。
しかし男は、片耳を寄せて「は?」と顔で言っていた。
こういう種類の人間をどういう風に対処すればいいのか分からないルイは、おどおどして焦り始めた。
「なんだお前、変なやつだな。もういいからよ、詫びの気持ちとかねえのか?」
「え?」
「ポケットの中身出してみろよ?」
「ポケットですか?」
ポケットの中にはエミリア妃から貰った金貨が一枚入っている。
ルイは、訳も分からず言われたとおりにポケットの中にあった金貨をその男に見せると、彼は奪うようにその金貨をルイの手から取った。
「おお、金貨持ってるのか。いいぜ、許してやるよ。へへへ」
キラキラと光る金貨を指で弄びながら、ルイに鼻っ柱をペシっと指で打つとその男は足早にホールへと去っていった。
トイレに用事があったわけではなく、最初からこれが目的だったようだ。
ルイは、何が起きたのかよく分からなかった。
彼に打たれた鼻を押さえながら、よろよろと立ち上がると二人の所に戻った。
二人の眼から見ても、ルイは落胆したように肩を落としている事が分かる。
「何かあったのか」
と、ゼハールが訊いた。
「分からないですけど、さっきぶつかってしまった人に、王妃さまから貰った金貨とられてしまいました」
二人はすぐに察しが付いた。
「誰に取られたの!」
ソニアが跳ねるように立ち上がると、ルイの両肩を掴んで揺すりながら問いた出す。
「あ、あの人です」
頭を、ぐわんぐわん、と揺らしながらも、酒場から出て行こうとする男たちの一団を指差した。
数人の男たちの後列で、金貨を指で弾きながら出て行く男がいた。
「あいつ」
ソニアはルイの肩から手を離してゼハールが飲み干したウォッカの瓶を取った。
その底をテーブルの角に叩き付けると、ギザギザと鋭利に尖った即席の武器が出来上がる。
「あの野郎!」
もう殴り込みをかけようとするソニアをゼハールが慌てて止めにかかった。
割れた瓶を持っていた左手首を握られると激痛が走り、たちまちに動けなくなってしまう。
振りほどこうにもゼハールの力にはソニアでも敵わない。彼女は降参するように瓶を捨てると、解放してくれた。
「先生、何で止めた?」
ソニアが当然のように訊くが、ゼハールは周りの眼を気にしながらテーブルに代金を置くと、二人を押し出すようにして酒場から出た。
すぐ近くの路地裏に入ると、ソニアを宥める。
「お主はこの国の姫なのだぞ。国民に暴力を振るってみろ、どうなるか分かるだろう?」
「だからって……」
「だからもあるか! ルイには悪いと思うが、所詮は金貨一枚だ」
「なぁ!? み、見損なったわ先生!!」
ソニアは、ゼハールの鳩尾に一撃を入れると走り去っていった。
重い一撃であった。ゼハールは堪らず声を漏らしながら膝を付いてしまう。
ルイは心配そうにゼハールの傍に寄って来るが、
「心配ない」
と微笑み返しながら、壁に手をかけ立ち上がると、何事も無かったように路地裏から出て行き、ソニアが去っていた方向を見ていた。
「ソニアは城に帰っただろう。俺たちも帰るか、もう月があんなに高く昇っている」
半分に欠けた月が二人の頭上で淡く光っている。その月を見上げるゼハールの顔はとても寂しそうであった。
彼は、人知れず我慢していたのだ。滾り立つ心が、その大きな胸から飛び出そうと暴れまわっている。もうここ数年はまともに寝れていなかった。
ゼハールは生来、自分の気持ちに嘘をつく男ではない。
それは誰もが分かっていたことだが、少しずつ、ほんの少しずつ気持ちに嘘をつき、それを隠し通していた。
ソニアの教育係になって早十一年、忍び耐えた。だが、先ほどのルイへのカツアゲは耐えがたきものであった。
怒ったソニアを止めながらも、彼の心は何とも辛かった。自分もあの男を殴り倒したかったからだ。
ソニアの姉、クリスティーナが母であるエミリア妃の生き写しだとすれば、ソニアはゼハールの生き写しと言えた。
ソニアの気持ちはゼハールの気持ちとほぼシンクロし、ソニアが怒ればゼハールも怒り、笑いたければ笑い、泣くときは共に泣く。
ゼハールは狂いそうになった。だが、月を見上げてただただ抑え、耐えるしかできなかった。
ルイを巻き込みたくない、その一心だった。
自分たちが企んでいる馬鹿げたことに巻き込みたくない、やっと手に入れた自由を捨ててまで仕えるべき者を見つけた彼を、浪々の身にさせたくなかった。
ルイは、そんなゼハールを見ているのが辛くなり、自分も月を見上げた。
太陽よりは明るくはないが、奴隷だったころ暗闇の牢屋を照らしてくれた存在である。
あの頃は小さな窓からしか見えなかったが、白く輝いている月を見ると何とも不思議な心境になってしまう。
「ゼハールさん。月って明るいんですね」
ルイは、彼の心中を察している訳ではない。ただ何か、声をかけようと思った。
「そうだな……」
「もしも月が無かったら、あの暗い牢屋中で、僕は自由への希望を失っていたと思います」
「お主は詩人のようなことを言うなあ」
「そうですか? それより、早く姫を追いましょうよ。もしかしたらもう城に着いてるかもしれませんよ」
「ああ。帰るか!」
やり切れない気持ちに顔を歪めていたゼハールの顔が、いつも笑顔に変わった。
月から落ちてきたような顔であった。口など半月のように大きく開いている。
二人はソニアが通ったであろう、物が壊されゴミが散らばっている道を通って城に帰って行った。
虫も寝静まる深夜。ソニアは寝れなかった。
胸が苦しくて辛抱堪らない、血が滾って心臓の音が大きくなっている。
ここ数週間の出来事が溜まり溜まり、ソニアの身体の内からはち切れんばかりにそれは膨らみ続けていた。
今なお肥大し続けている事が分かる。口にはしないが、堪らない。
叫びたくなるのをこらえながら、ベッドから転がり落ちた。
下着もまとわないソニアの裸体は、恐らく世の男たちを魅了することだろう。
出るところは出ており、鍛えられ引き締まったくびれ、腹には薄らと腹筋が浮かんでいる。
イスにかけていたネグリジェを着て、タンスの中からコートを出す。
まだ深夜は冷えた。
コートで肌を隠しながら、しんと静まっている廊下に出た。巡回中の兵士の眼を盗みつつ、少し離れた場所にあるゼハールの私室へと向かう。
曲がり角から顔だけ見せて、その先に誰もいないことを確認すると、素早く彼の部屋の中に入った。
「先生……」
部屋の中は意外と明るかった。カーテンは全て開けられており、日頃茶を楽しんでいるベランダにも通じている大窓のカーテンを開かれていた。部屋一面に、月の光を集めていた部屋の中は肉眼でもよく見渡せた。
まだ起きていたのだろうが、肝心の部屋の主がいない。
一つの窓縁に、ゼハールが愛用しているガラス製の灰皿が置かれていた。
灰と半分ほどに減った葉巻が捨てられている、まだ匂い強く漂っていたので入れ違いで出て行ったのだろう、と推測した。
その窓からは中央庭園が見下ろせる。
使用人だけでなく、ゼハールとソニアも花を育てていた。
教育の一環として、花について教えられたことがきっかけでソニアは花の素晴らしさに魅かれ、それ以来愛で続けている。
自分らの育てている花の場所をここから探していると、庭に誰かいることに気が付いた。
ソニアはその姿を見た途端、走り出した。
コートがはだけても気にせず、階段を飛ぶように下り、庭先に通じる扉を開けた。