不自由な姫様
奴隷としての生活を終わらせてくれたソニアに、ルイは忠義を誓った。
現在、ソニア率いる第三騎士団はチャミ村を駐屯地としているが、デオドランドが攻めてくるのを見抜いていたからではなかった。
複雑な事情があったのだが、それはルイの知ることではない。
彼は、少しは元気になったのだが依然として体調が優れずにいた。
幸いにも病気などにはかかってはいなかった。ただの栄養失調である。
こういう事は飯を食べる他、治す方法が無い。
回復魔法は人体に栄養を与えてくれるほど便利な物ではなく、騎士団には魔法を使える者も少なかった。
ルイは、眼を覚ますと気分転換にと、村を散歩することにした。
太陽の下を自由に歩けるなんて初めてだったことに、何とも幸せそうに歩いている。
村人たちはルイの事情を聴いていたので、彼のことを気にかけながら、日々の生活を送っていた。
村に面している森の中に足を踏み入れた。
木々は太く高い、この村は林業も行っているらしい。
切り株が点々とある、その中の一つにルイは腰掛けた。
枝の隙間から射してくる陽の温かさを感じながら、深く呼吸をする。
「これが自由か……」
思わず呟いてしまった。
するとルイの背後から、いつの間にいたのだろう。
ソニアが昨日とは違うドレスを着て、佇んでいた。
「何が自由よ」
青くて丈が短い派手なドレスに身を包んでいる。森の情景とは合っていなかったが、まさに姫といった感じであった。
着こなし方は多少変わっているが良く似合っていた。
「あ、姫。おはようございます」
「ええ、おはよう。もう大丈夫?」
「はい、おかげさま。それよりもさっき何て言ったのですか?」
「お前は自由じゃないと言ったの」
「え? どういう事ですか?」
ルイは奴隷から解放されたはずだ。
そう思っていたから自分は自由だと思っていたのだが、彼女に言わせてみればそれは違うらしい。
ソニアは地面に座り込み、ルイを見上げるように顎を上げた。
こうして見るとまつ毛が長く、目元に陰できていた。
一瞬ドキッとする。
初めて抱いた感情に混乱しながらもソニアの言葉に耳を傾けた。
「お前は確かに自由になった。私が主人を殺したから、でも今度は私に束縛されることになる、それは自由ではないのよ。不自由と一緒」
「でも、僕はあなた仕えることができて今は幸せです」
「そういう考え方もあるか。自分がそう思うなら良いと思うけど、私なら嫌ね」
ルイには、彼女の言っていることはよく判らなかったが、何だか寂しそうな顔をしたのを見逃さなかった。
一見、悩みのなさそうなソニアという人物でも悩み事はある。
王家の娘として生まれ、欲しい物は何でも与えられ、命を落とすかもしれない戦場にも行かせてくれた。
そんなソニアが、一体に何を悩んでいるのかと人々は思うかもしれない。
だが、ソニアは悩むのである。その血が滾っているからだ。熱くて堪らない、それを何とかしようと悩むのである。
「しばらくは体力を回復することに専念するといい。もう少しこの村に居座ることになりそうだから」
そう言い終わると、ソニアは森の中から出て行くようにして、姿を消した。
ただ一人残ったルイは、ボーっと彼女が去っていった方向を眺めていた。
何故か胸が苦しく感じていた。
まだ調子が悪いのだろうと思い、村長の家で休みに戻ろうと立ち上がると、背後に大きな気配を感じた。
後ろを振り返ると壁があった。
高い壁だ。
頭上から声がした。
「おい」
野太い声であった。
聞き覚えのある声に上を見上げると、その高い壁に顔が付いていた。
ゼハールの笑顔である。
「お主、惚れたな」
と、突然言う。
「え、え?」
「はっはっはっ! 隠さなくてもよい」
ルイを見下ろす大きな顔は、愉快に笑う。
彼は昨日のようにタバコを手にしていたが、今日は趣向をこらしてパイプであった。
甘い匂いを辺りに漂わせつつ、ゼハールはルイの肩を持って、目線を合わせた。
「そうであろう、ルイ。何やら胸が変ではないか?」
嬉しそうに言った。
「た、確かに。これが恋ですか?」
「ああ、そうだ。どうかね気分は?」
「何だか姫さまのことを考えると胸が苦しくなりますが、ウキウキします」
「うむ。で?」
「で? で、何でしょう?」
「好きなのであろう、ソニアが」
ルイは、やっと恋という意味が理解できたのだろう。
慌てて手を顔の前で振った。
「そんな。僕なんかが姫さまに恋をするなんて」
「恋に身分など関係あるかよ。だが、あやつはじゃじゃ馬だからなあ。だから今こういう状況なんだよ」
「え、村を守るためにここに来たのでは?」
「それが違うんだよな。話すが、村の連中には秘密にしろよ」
ゼハールは話し出した。この村に来た経緯を。
前に語ったと思うが、ソニアは先日18歳を迎えたばかりである。
そろそろ何処かに嫁いでもいい歳だったので、父である王が婿を見つけてきたのだ。
アルマースでも名のある貴族の長男で、頭も良いし腕も立つ申し分のない男であったのだが、ソニアが一方的に反対した。
結婚などしたくなかったからだ。
だが王である父が言う事は絶対であった。だからソニアはやむなく城を出た。
家出のようなものである。
一人で行くはずだったが、教育係のゼハールに見抜かれ同行することになる。
第三騎士団の百人は、ゼハールが言いくるめて連れてきた連中であった。
事情は何も知らない、姫の護衛としか聞いていなかったので、デオドランド軍との戦いでは機敏に行動することが出来なかったのはそのせいだ。
ゼハールの語り口調は、ソニアを不憫に思う哀れみが籠っていた。
まるで家族の事を心配しているようだった。
ルイは思い出した。彼と初めて会った時に、自分に向けられた愛情に似ていた。
この男には、姫も家来もなかった。誰もが友人であり、家族であるのだ。
だからソニアも彼のことをただの教育係としてではなく、友人のように接しているのだ。
「ゼハールさんって優しいんですね」
「なに、ソニアが可愛そうでな。分かるんだ」
遠い目で何処かを見た。
その顔は、昔のことをどこかしら思い出している節があった。
ルイは、誰もが色々な過去を持っていることに気付かされた。
このゼハールという男も、昔は人にも言えないような生き方をしていたのかもしれない。
ルイが元奴隷であるように、この男にも過去がある。
ルイは、自分が元奴隷であることを隠せないことを、彼を見て分かった。
ゼハールの顔を見ればよく分かる、過去がこの男を形作ったと、物語っているからだ。
だが、それならばそれでいい。
自分は奴隷という過去があったからこそ、ソニアという女性に仕えることが出来たのだ。
この事だけならば、元主人のデモに感謝の言葉を述べてもいいと思ってしまった。
風雲急を告げた。
ルイが仕えてから二日が経とうとしていたころ、近くの砦から兵士が村に派遣されてきたのだ。
デオドランド軍とソニアたちが戦った後に、伝令をすぐに送った。
砦から近くの城へ、そこからさらに早馬でアルマースの首都、ビーウッコにいる王の下へ。
王は国民を大切にする善政を布く者として知られている。すぐに兵士が派遣され、最寄りの砦から五百人、三日後には五千は超える兵士が到着するとのことであった。
ソニアは、自分の父ながら相変わらず手が早いと思った。
いつもなら、長老会の老人たちの言う事を出来る限り聞き入れるので長い時間が掛かるのだが、デオドランドとなるとヨア王は豹変する。
アルマースとデオドランドは犬猿の仲である。
それこそ、幾代が経っても仲良くなることはなく、更に悪くなり続ける一方で近々大きな戦いが起こりそうな雰囲気が、両国から漂っていた。
鼻が良いソニアは、その香りを楽しげに嗅ぐのである。
チャミ村は、その匂いが強く漂っている。
その匂いもあり、彼女は滾っていた。
身の内に滾り立つものを抑えていると夜も眠れない。
そんな彼女に話しかけられるのは、教育係のゼハールか仕えたばかりのルイだけであった。
砦から派遣されてきた隊長が、手紙を持ってソニアの前に現れた。
「王より、こちらを預かっております。お確かめください」
堅苦しい挨拶にソニアは気が滅入る。
溜息を付きたくなるのを抑え、手紙を受け取ると、隊長の男は彼女の前からそそくさと消えた。
「何が書いてあるんだ?」
ゼハールは、とっくに見当が付いているのにそう訊いた。
顔が面白そうに笑っている、ソニアの背後から覗き込むようにして手紙を見ているその態度に少し、ムカッ、と頭に来るものがあった。
アルマースの国章である、バラが描かれている封蝋を折って中を確かめた。
手紙には、王直々に書かれた達筆な字で、ソニアに謝る文章が長々と書かれている。
その最後の方の数行に、帰って来て考え直してほしい、と婚姻に関することが書かれていたので、彼女の気がさらに滅入ってしまう。
「あの、何て書かれてるんでしょうか?」
ルイは、字が読めない。
だから純粋にそう訊いてしまう、彼女に付いて来た騎士団の者たちが、咄嗟に眼を覆った。
ソニアがルイを殴ると思ったからである。
確かに普段の彼女ならまだしも、まさに血が滾っている現在だ。
そんな事を訊きに来たルイの事を、半殺しか何かにしていただろう。
だが、ソニアは優しげに笑うと、一字一句説明しだした。
その顔は心を許した友に向ける顔であった。
「私の父が、あっ、父っていうのは王のことよ。謝るから帰って来てくれって、自分から言っておいて何を書いてるのかしら」
「え、でも姫さまの御父上が謝るって書いてるんですから、帰ってあげたほうがいいですよ」
「ふふ、そうね」
ルイには、ソニアの感情など分からなかった。だからそう言いきれた。
親というものさえよく知らない、何となく温かいものなのだろうという認識しかないのだ。
ゼハールから聞かされた事情のことも余り重く考えず、お互いに謝ったらそれで全てがうまく収まるのだろう、そう思っている。
しかし、ルイは知らなった。
城を出てから一週間ばかり、ソニアは父と結婚のことばかり考えていた。
事態はルイが思っているほど甘くはない。ソニアは結婚など絶対にしたくないのである。
父親が嫌いな訳ではない、結婚相手のことも嫌いという訳ではない。あれこれと勝手に決められることが、嫌なのだ。
幼子だった頃は、姫だからという理由だけで、したくないことを強要されたこともあった。
その頃はそういうものだと割り切っていた。だから耐えられた。
だが、ある出会いが彼女を変えた。
ゼハールという教育係の存在である。
7歳のころ、突然目の前に現れた彼は、宮仕えの貴族という傍ら王宮教師として、父が直々に何処からより連れて来たのだ。
今まで出会ったことのない種類の男であった。
語学などの授業の最中に、酒は飲むはタバコは吸うは、使用人の女性に手を出すはと傍若無人と思ったほどであったが、なぜか誰かれも好かれていた。
王も他の貴族も兵士や使用人も街に住む人々も、ゼハールという男が好きと言うのだ。
だが、彼を嫌う貴族も少なからずいたが、大きな声を出せなかった。
宮廷内で自由に振る舞う彼だが、酒に酔っていた姿を見た者はいない。
タバコは貴族の嗜みとして広まっているので、宮廷内の人々は誰も嫌な顔をしない。ソニアも、父が吸っていたので慣れていた。
女性に手を出すのは、向こうの方がゼハールほどの男のことを放って置かなかったからである。
教養の方は、宮廷内の誰より卓越しており、学者でさえ彼の知識には舌を巻いた。
武芸の方は、一度戦場に出れば、必ず武功第一に選ばれる手柄を上げた。
誰にも迷惑はかけていなかったのでその内、誰も彼に文句を言うことが無くなった。
どこへ行っても態度は変わらず自由に振る舞うその姿に、ソニアは幼いながらも魅かれ憧れ、彼のようになりたいといつしか思い始めたのだ。
こうして現在のソニアが出来上がった。
ソニアは、ゼハールの方を振り返った。
何とも言えない顔付きでこちらを見ていた。
何か言いたげにも見えるし、何も言う事がないようにも見えた。
自分で決めろ、ということだろう。
「帰るかぁ」
言葉尻を伸ばすように、ソニアは言った。
そう決めたのならば行動は素早い。
村長に軽く礼を言うと、馬小屋につないでいた白馬に跨った。
「ルイ!」
異常に早い行動に付いていけず、玄関前で立ち尽くしていたルイに、馬上のソニアは手を伸ばした。
ゼハールの方はさらに上を行っていた。
手紙を読み始めたころには、もう騎士団をあらかた外にまとめるように指示を飛ばし、自分の馬も彼らの前に止めている。
こうなる予想が付いていた。
あとはルイだけであった。
彼は、震えていた。
初めてソニアが名前を呼んでくれたのだ。これほど嬉しいことはなかった。
懐中のナイフに手を当てた。
自分が本当に彼女に仕えているという証拠が欲しかったのだ。ナイフは確かにそこにあった。
ルイは駆けた。
まだ肉の付ききっていない衰えた脚は、がっしりと地を蹴った。
か細い腕を伸ばすと、ソニアが力強い手で握り、一引きで前鞍へと乗せてくれた。
「城に帰るぞ!」
宣言するようにソニアがそう言うと、百余人の騎士たちが鬨のような声を上げた。
彼らは分かっていたのだ。
ソニアが父である、ヨア・ウッコ・ヴァリマキ王と喧嘩をすることに。
ソニアは滾る身と心を抑えながら、無垢に笑うルイに微笑み返した。
眼だけが笑っていなかった。主として気丈に振る舞うが、自分の気持ちには嘘をつけない。
馬首を並べていたゼハールは、その眼を見て泣きたくなったのを堪え続けた。