姫への仕え方
チャミ村に連れてこられたルイは、村長の家にて手厚く介抱されることになった。
二階の客室に置かれていたベッドに寝かせ、状態を診るためにボロボロの衣服を脱がせると、一同は驚いた。
骨の上に皮が張られているかのように、痩せこけているのみならず、生々しい傷がいくつも刻み込まれていたのだ。
刃物で付けられた傷だけではない、火傷の跡や強く殴打された跡もある。
目を背けたくなるほど痛々しい光景に、村長やその家族が眼を覆っている中、ソニアは真剣な眼差しで弱々しく息をするルイの身体を見つめていた。
歳は恐らく、ソニアと変わらないほどだろう。
彼女は先日、18歳の誕生日を迎えたばかりであった。
同じ年頃の少年と、自分がここまで待遇の違いがあることに、ソニアは哀しみを覚えることとなった。
「村長どの。彼の食事を用意してくれ、それと真新し服を」
「わ、わかりました」
日が落ちかけたころ、ルイは静かに目を覚ました。
裸のまま、ふかふかのベッドの上で上体だけを起こし、首に繋がれていた鎖が無くなっていたことに、違和感を覚えながら部屋を見渡す。
部屋には、イスに腰かけてルイを見ていた大男がいるだけであった。
彼は葉巻をくわえて、ニッコリ、と笑った。
「ぁ……」
ルイは、声が出なかった。
しばらく喋ることをしてこなかったからだろう、満足に口が広がらず、喉も閉まったままだった。
「お主、汚い体してるな」
眼はぱっちりと大きく、鼻筋も通って口元には愛嬌の笑みが浮かび上がっており、風が吹き通っているような清々しさがある顔付きの男であった。
彼の言った言葉が、何を意味しているのかルイには容易く理解できた。
自分の主人に散々痛めつけられて全身にできた傷である。唯一、顔だけ大した傷がないことが幸いであったが、それでも頬には痣があった。
「俺も同じだよ。ほら」
男はもろ肌を脱いで、その逞しい肉体をルイに見せ付けてきた。
彼の肉体は筋骨隆々。まさに全身これ筋肉であり、その上に薄く脂肪がのった見事な身体つきであったが、ルイにも負けないほど大小の傷が走っている。
違うのは、それが戦場にて付けられた傷という事であること、その事はルイにも理解できた。
彼はそれを、誇らしげに見せてくるのだ。
「お主も頑丈なんだな。そうだ、飯があるぞ」
男は、服を着なおすと葉巻の火をガラス製の灰皿で押し消し、部屋の中央に置かれていたテーブルに座った。
テーブルには、ステーキからサラダなど、豪勢な料理が大皿にのって置かれている。
ルイはそれが料理とは分かったが、だから何だ、という風にベッドの上で彼を見ていた。
「ん? 立てんのか? たく、ここに座れと言っておるんだよ」
彼はそう言って自分の対面の席に付けと指したが、男と誰かが一緒に食べるのだろうと、ルイは推測した。
最初に男から声を掛けられた時から不思議と思っていた。
この男は自分に話しかけていることに、ルイは奴隷なのである。
奴隷は、空気に徹して、主人を楽しませる時だけ存在することを許されていた。
目の前で豪華な飯を食べるのを見せ付ける、自分には腐りかけのパンや冷え切ったスープしか与えられない。
まさか自分が誰に声をかけられる訳がない、ルイの奴隷根性は彼の心を完全に支配して男の言葉は半ば無視していたのだ。
「おい!」
男がいい加減に立ち上がって、ルイに近づいて来た。
特に理由も無いが、ルイは殴られると思い歯を食いしばった。
無気力な顔で歯を食いしばるが、男はそんなルイの手を掴んでベッドから引き摺り下ろした。
何て大きくて力強い手だろうか、赤ん坊と大人ほどの差があった。
「お主はここ」
と言って、彼はルイをイスに置くように座らせた。
「俺はここだ」
満開の花のような良い笑顔でそう言いながら、ルイの対面の席に座った。
ルイの心が揺らいだ。そんな笑顔を向けられたことなど無かった。
自分に向けられる笑顔といえば己の快楽で綻ぶ笑みや、醜悪で楽しそうに笑う顔だけであった。
こんな顔は知らなかった。
それは、血の繋がった家族に向けられる愛情に似ていた。
「ほれほれ、俺も一人で食うのは寂しいんだよ。できたばかりだからさ、温かい内に食えよ」
男は更にサラダやステーキ、まだ温かいパンなどを盛り付けてルイの前に置くと、自分の皿には山盛りに盛り付けて手やフォークを使って口に放り込んでいく。
行儀は悪いが何ともおいしそうに食べる。
ルイは、眼の前に置かれた料理に身体に震えた。小刻みに肩から震えている。
「あ? どうしたお前、早く食べろ。腹、減ってるだろう?」
「ぁぁ……」
「何も言うな」
「ぁ……」
「飯を食べたら風呂に入るといい、なんなら酒もあるぞ」
男は、温かい笑み浮かべた。青空から零れ落ちたような笑顔であった。
ルイは、自分に心が向けられているのを感じ取ると、身体の芯からジンジンと温まってくるのを感じた。
凍り付いてしまっていた心が溶けていくことに混乱しながら、ルイの細い手が自然と伸びた。
パンとステーキを掴んで、小さな口に入れると軽く咳き込んむ。
「ぷっは。汚ねえなお前、ゆっくり食らえ。まだ沢山あるからさ」
そうは言っても一皿分でルイの腹は膨れた。
ルイは、腹が膨れるという感覚が初めてだったが、これほど心地良い苦しさとは知らなかった。
それから男に催促されるように風呂に入れられる。
腰に巻かれていた布を取ると、風呂場に入った。
湯船から湯気がモクモクと上がっている、最後に水浴びをしたのは何年前だったかを思い出しながらルイは、爪先からゆっくりと入浴する。
爪先から感じる熱は、身内の中まで浸透してくる、垂らされた蝋の熱さとはまったく違う。
ルイは、何で熱いのが良いのか分からなかったが、肩まで浸かると深い息が自然と出た。
気持ちが良い。
この一言で全てが説明できた。
ふと、自分あの世にいるのではないのかと考えた。
死んだからこんなにも人並みの生き方というのを、神様が自分にプレゼントしてくれたのではないかと、頬をつねりながら考えていると涙が零れた。
「あ……」
ルイは、自分は生きているのだと、生きているのだ自分は、あの悪魔のような男から解放されたのだと思うと、枯れていたはずの涙が溢れて止まらなかった。
自分は先ほどまで死んでいたのだ。
だが誰かが生き返らせてくれた、そのことに感謝した。
部屋にいた大男の彼が助けてくれたのなら精一杯の感謝を捧げようと思うも、全身を駆け巡る幸せに身を委ねてしまった。
身体から湯気を上げながらルイは風呂場から出てきた。
なんとも気持ちよさそうな顔であった。
用意されていた真新しい服は少し大きかったが、そんな事を気にする資格など無いと気にせずに着る。
「出てきたか」
男が紫煙を窓の外に吐きながら、そう言った。
「ぁ、あ、ありがと……」
口がちゃんと動かず、失礼な感じにルイは感謝の言葉を述べた。
すぐに言い直そうと、慌てながら口をパクパクさせる。
「おお、話せるのか。名は? 奴隷でも名ぐらいあろう」
「え、あのその、あぁぁ……」
戸惑うかのようにはっきりと喋れていない。
ルイは、人ときちんと話したことがなかった。
主人から一方的に浴びせられる罵声の記憶しかないのである。
「そうか。礼儀では俺から言わなければな」
「えや、ちゃが……」
「ゼハール・ロザーリオ・ハートフィールド。好きに呼べ、でお主は?」
「ばぼ、わわぼぼぼ」
「はっきりと喋らぬか!!」
ゼハールと名乗った男は、先ほどまでの優しげな雰囲気とは打って変わって、突然吠えた。
「ル、ルイです! はい!」
ルイは、自分で名乗れたことに自分で驚いた。
口元を覆いながらゼハールの方を見ると、彼は微笑を浮かべていた。
「言えるじゃないか」
「はへ、へい」
情けない返事をした自分に、ルイは顔を赤く染めた。
「ぷっ」
と、ゼハールが吹き出すと彼は腹を抱えて笑い出した。
きっと家中に響き割っていることだろう。だが、ゼハールはそんな事など気にせずに思いのままに大声で笑い続ける。
「面白い男だな。どれ、みんなに紹介しないとな」
ひとしきり笑い終えると、ゼハールは立ち上がって部屋の外に通じるドアを開けて、ルイを手招きする。
こっちに来い、と言っているのだろう。
ルイはそのジェスチャーの意味が分かった訳ではなかったが、来てほしいという事はなんとなく通じたのか、とことこと細い脚で寄った。
「下で心配していようぞ」
「へ?」
誰が自分を心配するのだろう、とルイは思った。
奴隷であった自分を誰が心配するというのか、浮かんだ疑問を晴らすための質問はルイにはできなかった。
まだ遠慮している。
奴隷としての生き方に染まってしまっていたからだ。
村長宅に相応しい、立派な階段を降りるとリビングと思わしき場所に村長の家族と一際派手な服装をしている女性がいた。
つやつやと白い髪を後ろでまとめて、アルマースの職人による最高級の真赤なドレスを着ている。
首元にはバラの装飾、そこから背中を通って右の脇腹までにかけて、茨の刺繍が施された人目を引くドレスであった。
ふわりと広がったようなスカートではなく、踝までの丈で脚の形がはっきりと分かる形だ。
スリットが腰まであって、艶やかに着こなしているその女性は、アルマースの第二王女、ソニア・クラーラ・ヴァリマキその人である。
「起きたわね。何か食べた?」
イスに座りながら、彼女は言った。
「……」
ルイは、その問いが自分に向けられているのではなく。後ろのゼハールに訊いていると思ったらしく、何も言わなかった。
その背中を、ゼハールがヘラヘラと笑いながら肘で突いた。
「お主に言っているのだぞ、喋れるであろう」
「はへ、はぁいぃ……」
情けない返事であったが、ソニアは我が事のように嬉しそうに笑った。
「それは良かった。お前は奴隷だったが今日からは違う、お前は自由よ」
「はぁ……?」
「自由よ。聞こえなかったか、何処へでも好きな所に行っていい。そう言ったのよ、あなたは自由。もう何にも縛られることは無いわ」
「自由」
この言葉を、ルイはどれほど待ち望んだことだろう。
物心付いたころにはもう奴隷として生きていた。
奴隷以外の人がいることを知って、彼らのように奴隷とは違った生き方をしてみたい、と思ったのはいつのことだったか、もう覚えていない。
自由への望みを捨てかけ、自身は死んだものとして耐えてきた。
耐えて耐えて、最後まで生き残った奴隷がルイ一人であった。
意識が無くなる前の記憶が浮かんできた。
馬に乗って、甲冑を着て、自分の背丈の倍以上もある槍を振り回し、華々しく戦場を駆けていたソニアの姿が、脳裏に浮かぶ。
命は捨てたはずだったのに、彼女が自分を生き返らせてくれた。
自由を自分与えてくれたことを、ルイは思い出した。
「元奴隷よ、好きな所に行くといいわ。歩ける足はあるでしょう」
ソニアは素っ気ない態度であった。
元気になったのだから出て行けと言っているのだ。
お前のような役立たずを養う物好きなどではない、そう言われていることにルイは気付いた。
ダンッ!
床に手を付いて、ルイは頭を下げた。
主人であったデモに服従を示すために、毎日嫌々に下げていた頭を、自主的に下げたのだ。
ソニアはルイの後頭部を見下ろしている。
その眼は哀れな者を見ているのか、覚悟を決めた男を見ているのか、分からない。
「面を上げよ」
ガンッ!
顔を上げるのと同時に、ブーツの靴底が飛んできた。
「ぎゃっ!」
「どこまで奴隷根性なのお前は! 生きている人間でしょう!?」
「ええっ?」
「悪いけど私は奴隷を持つ気はないの、失せなさい小僧」
そのままソニアはルイを蹴飛ばした。
軽いルイの身体は、簡単に転がって壁際まで飛ばされる。
ガクガクと震えながらもルイは立ち上がり、それを抑えながら声を張った。
「僕を、僕をあなたの家来にしてください!!」
家の外まで聞こえたことだろう。
ここまで大声が出せたことに、自分で驚きながら床に手を付いた。
その光景を見ていたゼハールの表情が、一変する。
ヘラヘラ、と面白そうにしていた笑みは消え失せていた。
真剣な眼差しを持ってして、覚悟を決めた一人の男を見る眼であった。
もうルイが元奴隷などとは、ゼハールは思っていない。対等の身分を持った男として捉えていた。
ソニアが頭を下げて懇願しているルイに近づき、頭上で立ち止まった。
ルイは頭を上げるのが怖い、また蹴られるかもしれないからだ。
だから頭を下げ続けた。
「名は?」
「ル、ルイです。家名はありません」
突然の問いかけに、震えながらも必死に答えた。
「無縁って訳ね。良いわねそれ……」
この言葉の意味がよく分からなかった。
家族が無いことが良いことではないことは、奴隷であったルイでも分かることである。
カラン。
頭を下げているルイの前に何かが落ちた音がした。
顔を上げるとそこには、一本の小さなナイフが落ちていた。
黒い鞘に収まったナイフである、素朴だが装飾が凝っている。
値が張ることが一目で分かった。
「私の護身用のナイフよ。持ってなさい」
「は、はいぃぃ!!」
一度死んだルイの生きる目的が見つかった。