いつものドアを
ああ、いつものドアを開けるのが、こんなにも恐ろしい事だったとは……。
――――※※※※――――
「三十%カット、です、と……?」
目の前に座る、微妙にエヴ●ンゲ●オンの某司令のコスプレをしているのではないかと思われる編集長が発した言葉を、俺はすぐに受け入れる事は出来なかった。編集室でグラサンかける意味は、いったい何なのだろう?
「ああ、三十パーセントカットだ、このままだったらな」
「ハハ、な、何を三十パーセントもカットするんですか……?」
「お前の、冬のボーナスだよ、神代」
視界が暗闇に包まれたような気がした。まだ新人に毛が生えたような自分でも、やはり三十パーセントのボーナスカットはキツイ。いや、きつすぎる。
「り、理由を聞いても……?」
「お前が担当編集した漫画家全員の作品が全て短期打ち切りになった事がまず一つ。そして、望まないギャグ漫画を描かされた結果打ち切りになった事で、お前を担当から外してくれと、漫画家達が言ってきた事がもう一点だ」
おそるおそる尋ねた俺にかぶせるように、編集長が理由を説明してくれた。
「これ以上冬のボーナスをカットされたくないのなら、ヒット作品を生み出す事だな、たった一人残っているお前の担当漫画家と一緒に」
ぐうの音も出なくなった俺は、編集長のデスクの前からトボトボと自分のデスクへと戻った。
「編集長、何だって?」
生気の抜け落ちた表情でデスクに戻って来た俺に、二宮が心配そうに声をかけてきた。俺と同期でほぼ同時期に配属された三年目の編集者――『週刊少年アトランティス』編集者としては、俺の方が先輩だ――の二宮は、今では『週刊少年アトランティス』の花形編集者と言ってもいい。ヒット作をいくつも抱えているのである。
「冬のボーナス三十パーセントカットだと」
「うわぁ、夏だというのに、寒気がするな」
「冷房のかけ過ぎじゃないか?」
「この節電節電五月蝿い時代に冷房のかけ過ぎなんてするワケないだろ」
「…………」
「で、どうすんのよ、神代?」
「冬までにヒット作を作ればいいんだよ、作れば」
俺は二宮にそう告げ、絶対に冬までにヒット作を作ってみせると、心に決めたのだった。そうとなれば、早速行動に移らなければなるまい。
唯一俺の担当を外れなかった漫画家――俺が担当したせいかどうかは知らないが、短期で連載打ち切りになった漫画家だ――に連絡をとり、打ち合わせをする事になった。
会社での仕事を終えてビルを飛び出した俺を、もうすぐ夜になろうというのに、八月のうだるような暑さが出迎えたのだった。
「で、新作を作れ、と?」
「ああ」
「夏コミの追い込みのこの時期にか?」
「連載会議にのぼらせる事の出来る連載ネーム三話分でいい」
唯一残った担当漫画家と面と向かって飲みながら話をしている。
「そんな事の為に居酒屋まで呼びだしたのか? 夏コミの追い込みで忙しいというのに。お前にも手伝って欲しいくらいなんだがな」
「連載ネーム三話分にすぐに取り掛かるって言うなら、手伝うさ。まだ、俺の腕だって鈍っちゃいない事は、前の連載の時に分かっただろう?」
「すぐに連載打ち切りになったけどな」
撃沈。
「何で急に新連載の話を持ってきたんだ……?」
「いや、まあ、恥ずかしい話なんだけど、な……」
恥ずかしい話ではあるが、目の前に座る漫画家に自分の現状を話す事にした。それはもう、包み隠さず。こいつとは、高校時代からの付き合いだし、隠し事は難しい。少なくとも、俺にとっては。
予想に違わず、腹を抱えて笑われた。
「ああ、分かった。いや、イイよ。連載ネーム、考えてみるよ。ネタ出しにはお前も協力しろよ」
涙目になりながらも、イヤとは言わないでくれた。持つべきものは、友だな。この友人以外に今まで担当した『週刊少年アトランティス』に連載を持った漫画家は中堅どころやほぼ新人しかいなかった為、こうしてタメ口で会話が出来る漫画家がいるというのは嬉しい事だ。そう言えば何故、コイツは俺を担当から外せとは言わなかったんだろう……?
「感謝する」
「じゃ、出るか。すぐに作業に取り掛からないとな。ペン入れはだいぶすんだし、ベタ塗りやトーン貼りは任せるぞ」
「おう」
連載のない漫画家はほぼ無収入だ。よって、今回は俺が奢る事になった。
友人の仕事場――少し広めのマンションだが、今はアシスタントもいないので無駄に広さだけが目立つ――に一緒に向かった俺は、それから真夜中丑三つ時まで修羅場を味わうことになった。馴染みの印刷屋が待ってくれるのは明後日まで、ペン入れはほぼ終わったとは言え、残りの作業を一人で終わらせるのはほぼ不可能という有様だったのだ。ま、高校時代に漫画研究会で同人誌を一緒に作った仲だからな。協力は惜しまないさ。『週刊少年アトランティス』は、連載に支障をきたさなければ夏や冬の祭典に同人誌を作って出してもお咎めなしだからな……。
翌日、漫画家の仕事場から会社のビルまで朝食抜きで出勤したのは、仕方のない事だろう。もちろん、二日連続で同人誌製作を手伝ったのは言うまでもない。
――――※※※※――――
地獄の夏コミも終わり――何故俺は売り子までさせられたんだろう?――、漫画家は約束通り連載用ネームに取り掛かってくれた。
俺もネタ出しやら修正やらに参加し、連載用ネームが完成したのは、九月も終わりの頃だった。それを俺は、十月の連載会議に出した。後は結果待ちだが、出来るだけの事はやった。後は、運を天に任せるしかないだろう。
「ああ、次は○×先生の新作は何時頃始めようかな……」
大団円で連載終了した担当作家の新作にはいつ頃からとりかかろうかと、隣の席では二宮が溜め息をついていた。今回、二宮が担当している漫画家は誰一人連載会議に連載用ネームを提出していないから、気が楽なのだろう。
俺は、編集長や副編集長、その他数名の中堅どころの編集者達が行っている連載会議の結果が気になって仕方がないと言うのに……。
昼過ぎに始まった連載会議はやがて、時計の短針が真下にさしかかろうとしていた時に終わった。
「おう、決まったぞ、神代。お前さんが出した連載ネームで一本、新連載だ」
吉田さん――中堅の編集者で、いわば俺の直属の上司のような人だ――から朗報を告げられた俺は、すぐさま新連載決定の連絡をし――あんにゃろ、惰眠を貪ってやがった――、アシスタントを集めるところから連載への準備に取り掛かる事になった。
――――※※※※――――
その後色々あって十一月から始まった新連載は、今流行の異世界ファンタジーハーレムモノで、連載一回目の読者アンケートで一位をとり、人気作の仲間入りをする事が出来た。少年漫画で、ハーレム系は強いのかもしれんな、やはり。
「乾杯」
「乾杯」
俺と御国――俺が担当している漫画家の名前だ――は、行きつけの居酒屋で杯を軽くぶつけ合った。読者アンケート一位をとった細やかなお祝いだ。
「ようやく、夢の一つが叶ったな」
ある程度杯を飲みほした後――空になったグラスが、いくつも並んでいる、俺の目の前ばかりだが――、しみじみと御国が呟いた。
「夢の一つ……?」
久しぶりに嬉しい事があった為、御国が呟いた時、俺は既に酔いがまわっていたのだろうか、御国が何を言っているのか、一瞬わからなかった。
「何だっけ……?」
「もう酔ったのか? 早すぎないか?」
「全然、酔ってないよ。それはもう、全くの素面と言って言いにょ」
「酔っ払いはだいたい“酔っていない”って、そう言うんだよ。だいたい、にょって何だ、にょって」
「にょ?」
にょ、とは何だろう? 心底不思議そうに尋ねる俺に、ため息をつく御国の顔が浮かんだ。浮かんだ……? それとも、俺が沈んでいるのだろうか?
「お前が編集者、そして自分がお前の担当漫画家で、ヒット作を作ろうって高校卒業する時にそう約束したじゃないか……」
「ああ、そう言えばそうだったな……」
そんな約束をした覚えも、ある……、ような、ない、ような……。
「本当はお前と一緒にコンビとして、漫画家としてやっていきたかったのにな……」
今の言葉は、どういう意味だろう? それとも、今の御国の言葉は、意識が朦朧としてきた俺が生み出した幻か何かだろうか?
仕方のないヤツだな……、ため息が聞こえると同時に頭に手を置かれた気がした。ペンだこの出来た、それでも柔らかい、優しい手だ。
そんな事を感じた次の瞬間には、俺の意識は闇に呑みこまれていた。
翌日、俺は御国の仕事場で目を覚ました。……なんで俺は、御国の仕事場にいるんだろう? 全然わからん。
二人向かい合わせで朝食を黙々と食べ――アシスタント達は住込みの人はいないので、二人きりだ――、ふらつく体で出社した。頭が痛い。二日酔いか?
――――※※※※――――
十二月に入っても読者アンケートは上々で、五位以内をキープしていた。このペースのままなら、二月に発売される予定であるコミック一巻は初版十万部はいけるだろうと編集長から言質をいただいた。ボーナスの時期も近付いていたので、ついでに冬のボーナスの話もさせて貰う事にした。
「って事は、俺の冬のボーナス三十パーセントカットはないですよね?」
「いや、結果が出るのが遅かったからな。せっかくヒット作を生み出したのはいいが、ボーナスに反映されるのは早くて次の夏のボーナスだ。もちろん、増額と言うワケではないぞ。元の状態に戻るだけだ」
かなり頑張ったのに、ボーナスは三十パーセントカットのままかよ……!!
絶望に打ちひしがれた俺は、その日は行きつけの居酒屋で麻婆茄子をかっくらう事に決めた。ボーナスが満額出ないのなら、麻婆茄子を食らう事で憂さ晴らしをしようと決めたのだ。
しかし、現実は非情であった。客の空きそうな――ま、平日だからな――九時前に飛び込んだ居酒屋で俺は麻婆茄子にありつけなかった。
「すみません、今日は何故か麻婆茄子が異常に注文されて売り切れてしまいまして……」
「なんで?」
店員が申し訳なさそうに謝って来たが、納得できず何故売り切れになったのか、聞いてしまった。
「その、会社勤めのお客様が、ボーナスの時期が近付いているらしく、皆『今度はボーナスが去年より二十パーセント低い』とか、『俺は二割五分カットだとよ、夏と比べて』とかおっしゃって、『ボーナスが満額出ないなら、麻婆茄子食べてボーナス貰った気分になってやる!!』みたいな事を一人のお客様が叫んだと思ったら、その場に居たお客様が皆ノリノリでその後に続きまして……」
結果、二十数名程の酔客が麻婆茄子を大量に頼み――中にはテイクアウトを希望した客もいたらしい――あえなく売り切れになったとの事だった。俺と同じ様なバカな事を考える人間が他にもいたとは、世も末であろうか。
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十二月も半ばを過ぎ、街はクリスマスムード一色であった。
すれ違う恋人たちはとても幸せそうで、もうすぐ来るであろう聖夜を心待ちにしているようだった。滅ぼしてやりたい。すれ違いざまに二十四日は○○ホテルのディナーを予約したよ、とか、雨が雪に変わる瞬間を見に行こうよなどと彼氏が彼女に囁いている声が聞こえた。滅ぼしてやりたい。
会社での仕事を終え、俺はいつものように御国の仕事場へと顔を出した。会社での仕事が少しずつ増え――担当する漫画家が二人増えたのだ――、色々きつくなったが、コミックが発売されるまではアシスタントも兼務しているので、何日も顔を出さないワケにはいかないのだ。
所定の席に座り、作業を始めるが、身が入らない。最近御国の仕事場で、時々ではあるが、甘い匂いを嗅ぐようになった。アシスタントが女性で占められているから、と言うワケではない。
いったい何だろう、と思って見まわしてみたら御国の指に絆創膏が何枚か貼られているのが分かる。
「おい、お前何やっているんだ、何だ、この指は?」
御国の手を取って問い詰めようとするが、ちょうどペン入れをしていたせいか、俺が手を取ったせいで主人公がビシッと決めているシーンなのに、口が裂けた状態になってしまった。
「五月蝿いな、大したことはない」
「大したことはないって、おまえ、漫画家にとって大事な指なのに……!!」
御国は俺の手を振り払い、俺の言葉に耳を貸す事無く、原稿を取りかえ簡単な下書きをした後に、ペン入れを始めた。これ以上何も聞き出す事は出来そうもない。
自分の席に戻ろうとしたところ、アシスタント達が俺の方を見て笑っていた。ニヤニヤと。
頭の上に疑問符を浮かべては見たが、何故笑われているのか分からない。もしかしたら、彼女たちは御国が指に絆創膏を貼っている理由が分かるのだろうか?
聞いてみようとしたところ、御国の咳払いによって止められた。何だと言うのだ?
その後、数日間は仕事場への出入りを禁止された。何故だろう、解せぬ。
そして、何故かアシスタントの女性から原稿を渡されるようになった。御国の仕事場近くの喫茶店で何か知っていたら教えて貰えないかと話を聞いてみたのだが、ケーキと紅茶をご馳走になって何一つ話す事無く帰って行っただけだった。聖夜を共に過ごす女性もいないのに、たいして趣味に金を使っているワケでもないのに、俺の財布は薄くなっていくだけだった。
――――※※※※――――
十二月二十四日、クリスマス・イブになった。
この日一日を開ける為に必死で前日までに仕事を終わらせた御国のアシスタント達は女子会をやるトカで盛り上がっているらしい。もちろん、俺は呼ばれていない。御国は先日から俺を避けるようになったので、御国が今日どのように過ごそうとしているのか、全く分からない。何故、嫌われたんだろう……?
二宮を誘って独り者同士どこか居酒屋にでも飲みに行こうかと思ったが、隠れて十月から女の子と付き合いだしたらしく、断られた。クソッ、同士だと思っていたのに……ッ!!
「いやあ、○×先生のところでアシスタントしていた女の子でさ、俺の一目惚れだったんだよね……、猛アタックが実ったってもんだよ」
「あ、そう……」
俺が辟易していると言うのに、何とか言う人気作家のところでアシスタントをしたいた女の子との馴れ初めからいきなり語りだしやがった。爆発してくれんかな、いや、マジで、というか滅ぼしてやりたい。オノレ二宮、裏切りやがって……ッ!!
何とか定時にあがる事が出来た俺だが、今日は定時にあがらずに過ごしたかった。
寒空の下、体だけでなく心まで冷えきった気がした。
こういう、体だけでなく心まで寒い日は居酒屋で鍋でもつつきたいモノだが、流石に今日は、独りで居酒屋には行きたくない。周りがカップルばかりだからな……。
カップルで溢れかえった――独り者もいただろうが視界には入らなかった。何故だろう?――道をトボトボと歩く。
空を見上げても、雪どころか雨も降りそうにない。ホワイトクリスマスなんて、幻想に過ぎない。
「今日のディナー、楽しみにしていてくれよ」五月蝿い、滅べ。
「雨が雪に変わる瞬間は見られないかもしれないけど、そんな事はどうでもいい。俺にはお前しか今、見えない。それだけでいい」五月蝿い、滅べ。
すれ違う恋人たちが囁き合う声が、異世界言語にしか聞こえない。リア充なんて滅べばいい。
頭の中で滅びの呪文――テレビ放映されるたびに特定の時間にツイッターに溢れるアレだ――を叫んだ――もちろん、現実世界に何の効果も現れない事くらい分かってはいるが、叫ばずにはいられない――後、ポケットに手を突っ込んで歩き出そうとした時、内ポケットに入れていたスマホの振動に気付いた。
御国からの電話だった。
おそるおそる出ると、いきなり「今から来い」のひと言。
「今から?」
「七時までに来い。いいな!!」
それだけ言って通話はきられた。何回かかけ直してみたが、電話には出なかった。
呼び出される理由が分からない。俺が何をしたと言うのだろうか? だが、担当編集者として、漫画家の呼び出しを何の理由もなく断るワケにはいかなかった。
寒空の下、俺は足早に最寄りの駅へと向かう事にした。
電車に揺られて十数分、御国の仕事場に一番近い駅で降りた。ここから歩きだと二十分ほどかかるが、タクシーを使う金などない。
足早に歩き、御国の仕事場であるマンションの部屋に着いた。この時になって手ぶらで来てしまった事に気付いたが、もう遅かった。インターフォンを押してしまっていた。
「神代か、開いているぞ、入ってくれ」
壁越し――この場合は、インターフォン越し?――に聞えてくるのは、何だか優しげな声。俺の事を嫌っているのではなかったのだろうか……?
いったいどういう意図があって今日、クリスマスイブと言う日に御国は俺を呼んだのだろうか?
色々と考えているうちに、俺の手は自然とドアノブへと手をかけていた。
いいのだろうか、このドアを開けても?
そう言えば俺は、クリスマスプレゼントなんて用意していなかった。今からでも遅くない、いったん何か買ってこようか――?
「どうした、早く入って来い」
インターフォン越しの声が少し、怒っているように聞こえた。どうやらクリスマスプレゼントを買いに行く時間はないらしい。仕方ない、諦めよう。
クリスマスプレゼントを買う事を諦め、ドアノブにかけた手に力を込めた。
ああ、この先にいったい何が待ち受けているのか。
通い慣れた仕事場のドアを開けるのが、こんなにも恐ろしい事だったとは……。
BGM 「いつものドアを」 THE BACK HORN
マンガ編集の仕方やらマンガ原稿の書き方などは、「バクマン。」などいくつかの漫画を参考にしてますが、ほぼ想像で書いているのでおかしなところもあるかとは思いますが、寛大な心でお許しいただければ幸いです。