-6- 事件
国木田は椅子の背もたれに身体を預けて両目を右手で扱きながら
ため息をつきながらコーヒーを飲んだ。
「不味いな」
「すみません。濃い方が良いかと思って」
窓から熱を帯びた光が斜めに差し込んで二人の背中の温度を上げた。
原田も寝不足なのか、腫れた瞼を懸命にもたげて自分もコーヒーを啜る。
「ところで、どうなっちまったんだ、この町は」
「さぁ、私もこんな事は初めてですよ」
ここ三日間で留置所は満員になった。昨夜も刃傷沙汰が二件あり二人の着ている背広は薄汚れていた。
「この町に飛ばされて、少しは家族サービス出来るかと思ったら急に狂いやがった」
酔っ払い同士の喧嘩、通り魔、家庭内暴力、自殺。
「こんな田舎でも嬉しくない確変が入ったか」
「確変?」
「お前、パチンコやらないのか」
「ああ、その確変ですか。いまはそんなの無いらしいですよ」
「そうなのか。俺も最近はやらないけどな。だったら何でみんな昼間っからパチンコやってるんだ」
「ここは農業と漁業の町ですからね、昼は暇なんじゃないですか?もっとも私はギャンブルなんてやらないですから本当のことは知らないですけど」
国木田はカップにミルクをもう一つ入れてコーヒーを啜った。
「お前もつくづく、つまんねぇ奴だな」
原田は机に突っ伏しながら答えた。
「何でですか・・・」
「何でって、お前・・・」
国木田が朦朧とした頭で人生とは何か等と語ろうとしたとき慌しく部屋の扉が開いて制服の警官が声を荒げた。
「種村地区で包丁を持った男が暴れてます!」
国木田はため息をつきながら最後のハイライトを口に加えて包み紙を捻った。
車に乗り込んだ国木田は明らかにに疲れている原田に声をかけた。
「原田、もう少し頑張れ」
「はい」
目を瞬き、手の甲で目尻を拭いながら原田は車を運転している。
その横で国木田は咥えていたタバコに火をつけた。
「何だか変だと思わないか、いや、ありえねぇな、こんなこと」
「ええ、そりゃぁ・・・。今までこんなに事件が立て続けに起きることは無かったですからね」
「それもそうなんだが・・・。眼だよ」
「眼?」
「あいつら人間の眼じゃない。あれは・・・」
「あれは、なんですか?」
「いや、何でもねぇ」
二人が乗った車とパトカー数台は郊外に向かって走って行った。
同日の正午。徹は美術室にいた。
石膏の立像が教室の真ん中に置かれ、生徒たちはそれを囲んで素描している。
健二は暑さと空腹で一向に手が動かず、結は一生懸命描いてはいるが何か勘違いした抽象画に仕上がっていた。
徹も輪郭だけは描けていたが線のタッチからやる気の無さが滲み出ている。
教師の村上梨可子は生徒の間を見回っていた途中ふと立ち止まり、宙を凝視したあと徐ろに徹の後ろに回り込みながら体を近づけ、鉛筆を持っている左手を握った。
徹は驚いて横を向くと梨可子の湿った唇が目に飛び込み、心臓の鼓動が高鳴った。
「ねぇ、感じない?」
梨可子は耳元で吐息にも似た声でささやいた。
「え、え?」
咽るような艶かしい大人の女性の香りが徹を更に動揺させた。
「感じないの?」
「な、何がですか・・・?」
徹は微かに声を発し、生唾を飲み込むと梨可子は更に近づいて言った。
「アウロの波動」
思わず声を上げそうになったが瞬時に堪え、横を見ると梨可子は鋭い目で忠告した。
「いい?あなたには責任があるの。自覚しなさい。私も直ぐ行くから」
梨可子は姿勢をただし、わざとらしいほど大きな声を出した。
「水上君、どうしたの。頭痛い?あらら。早く保健室に行きなさい」
「え?は、はい。それじゃ・・・」
徹は訳が分からず急き立てられるように教室を出た。
廊下を少し歩き、大きく深呼吸して気持ちを落ち着かせる。
目を瞑り空気の流れを感じようと集中すると、確かに感じる。
眉間の辺りに錆びついた黄金色のイメージが纏わりついた。
それはここ数日間、襲い掛かるように徹を混乱させていたものより強い。
徹は走り出した。校門を出、道路を渡り近くの鉄工所の裏にある崩れかけた小屋に隠してあるスクーターで駅を目指した。