7.祖母の思惑
若干、24・5の若造といえども、人生において教訓と言うものは存在する。
これだけは10代のころ……いや、幼少期から変わらない事項かもしれない。
それは―――――下村家の女には、関わるな、だ。
しかしながら、それは無理なお話だ。
なぜなら、いかに避けようとも下村家の女は身内に他ならない。
そして―――――縁の切れない下村家の血を引く男と言うものは、その女どもに振り回される宿命を担っている。
「くそババア、持ってきたぞ」
最上階ながら、他の部屋と異なる高級感のある色調の引き戸を開ける。
明るい室内の光が廊下に差し込み、その室内を見渡せば、目の前のソファーに、悩みの種の親玉ともいえる人物が腰かけているのが見えた。
颯人の祖母、“下村 フミ”だ。図太い神経の持ち主で、この介護付き有料老人ホーム「やわらぎの里」の経営者兼、入居者だ。
フミは颯人の声にチラッと視線を向け、満足そうな笑みを浮かべる。その肩越しからもう一人、その部屋の同居人の圭も、顔をのぞかせた。
祖母のフミは、いつも突然颯人の携帯を鳴らす。そしてこちらの事情などお構いなしに、用事を言いつけるのだ。その多くは“茶菓子が足りない、買ってこい”という、どうでもいい内容。無視すると、後で痛い目に合う。就職したての頃、さすがに仕事なら諦めるだろうと無視すると、社長に直接電話したらしく、社長から“僕のために……行ってきてくれ!”と電話が来た。というのも、今の会社は颯人の義理の伯父が経営している会社なのだ。下村家に婿養子として入った伯父の聡さんは、義理の母親に全く顔が上がらない。もともとその会社も、フミの亡き夫が経営していた会社ということもあり、フミの前では”社長”とは名ばかりの存在となる。伯母の光利(フミの実の娘、聡の妻だ)も経営に携わっており、気の弱い伯父はいつも伯母に尻に敷かれ……フミを何よりも恐れていた。
今の伯父の会社は、もともと颯人の父が働いており、跡を継ぐはずだった。フミは颯人が就職する際、自分のホームにと目論んでいたが、颯人はフミと伯父に黙ってこっそりと今の会社の就職を決めた。父の仕事がどんなものだったのか、知りたかったからだ。
社の内定が決定すると、それを知ったフミは猛反対の末、伯父にあれこれと条件を付け、就職を許した。その項目の大まかな内容は、
“いずれは、辞めて、フミの跡を継ぐこと”
“フミの用事を最優先すること”
と、言ったところだ。
祖父と颯人の父が亡くなり、下村の男と言えば今や、聡と颯人のみ。(伯父の子供は3人いるが、いずれも女なのだ)それゆえ、颯人を唯一の味方と考える伯父は、その内容で承諾し、颯人を自分の会社に招き入れることとした。
しかしながら、俺は辞めるつもりなど毛頭ない。
入社早々、そう言った颯人に伯父は『私も能力次第とはいえ、跡を颯人くんに継いでもらうつもりだ。今はとりあえずお義母さんの言うとおりにして、様子を見るんだ。いずれ……いずれ……必ず……』そう言った、伯父の顔がなんとも悲痛で、気の毒に思えたものだ。
そう言ったわけで、今日も突然の電話に、ケーキ屋へ出向かされた。
それは可哀想な伯父を守るためでもあるのだ。
初めのころは“茶菓子を買ってこい”と言ってきていたフミだが、嫌がらせのように“栗おこし”“ポン菓子”“かりんとう”を交互に買って行った結果、この頃はケーキ屋に電話して取り置きをするという裏技を使うようになった。
俺は甘いものは食べない。ケーキもはっきり言って嫌いなので、全く楽しくない申し出となっている。 しかも、取りに行く際、何度か社の女に見られ、それ以来“スイーツ男子”だと勘違いされた。そのせいで、クッキーだのプリンだの渡そうとする女が増えた。嫌いと言うこともあり一蹴すると、“冷たい”と、黒の汚名をいっそう高める羽目になっている。
「来たね」
「来たね……じゃねーよ。……まったく、毎回毎回。俺も暇なわけじゃ……」
「颯人くん、いらっしゃい」
フミの声に反論の色を滲ませ、室内に足を踏み入れる。言い返そうと口を開けば、もう一人の住人、フミの女学校からの親友の“千歳 圭”が、すかさず穏やかな挨拶をかけてきた。
「ど……も」
「お仕事、お疲れ様。今日は忙しかったの?」
「……まあ、そうですね」
そう言い、苦笑すれば、にっこりと笑いかけられた。毎度ながら、この穏やかさは毒気を抜かれる。フミに言い返そうとするときに限ってその威力を発揮するので、計算なのかと疑うほどだ。しかしながら、これぐらいマイペースでないと、フミとはうまくいかないのかもしれない。
「少なくとも定時に上がってケーキを取りに行くような時間は無く……」
「うっさいよ、颯人! 毎回、男のくせに、ぐだぐだ抜かすんじゃないよ。目上の、ましては祖母のささやかな楽しみを守るのは当然だろう。恩着せがましく言ってんじゃないよ」
「ああ~?! 人がせっかく……」
「なんだい? これはお前が聡君のところで働くための条件だっただろう? それとも何かい? やめて、おとなしくあたしのホームに経営に関わるかい。まあ聡君の会社でもパッとしないんじゃ、あたしの経営も先が思いやられるってもんだけどね~」
「こんのっ……」
「まあまあ……二人とも。漫才はその辺にして、一緒にお茶でもしましょうよ」
二人はその声に、ハッと圭を振り向いた。
圭が“漫才”と表現するように、このやり取りは過去何度もなされている、いわば定例のやり取りなのだ。そしてそんな喧嘩腰のやり取りを始めた颯人とフミに、圭が穏やかな口調で割って入るのも毎度のこと。
圭は二人のやり取りにもどこ吹く風と、颯人の持ってきたケーキの箱を開け、持ってきていたお皿に並べていく。いつの間にかテーブルにも3組のお茶が、用意されていた。
一通り、準備を終えると、圭は「あら、フォーク忘れてたわ」と言い、ソファーを立ち上がろうとする。
その言葉を受け、圭より早くフミが立ち上がった。
「フミちゃん、ありがとう」
そう、フミの背中に向け言う。
圭は足が悪い。いつも杖を持ってして、やっと歩ける程度だ。以前、転倒して手術をした所為だと聞いている。
このホームでフミと暮らし始めた時は、車椅子だった。穏やかそうに見えるが、その実、かなりの努力家らしく、リハビリでここまでできるようになった。
フミは口が悪く、横柄な性格だが、圭には優しい。
キッチンからフォークを持ってくると、フミは圭に手渡し、すかさず颯人に向きなおった。
「気が利かないね! どこに目が付いてんだい」
「はぁ?」
「こういう時は、若者が率先して立ち上がるべきだろう」
「別に、いいだろう。おかげで、フミ婆のいい運動になったじゃねーか」
「なんだって!? 口の減らないっ」
「フミ婆に言われたくないね」
「ふん! そんなんだから、お前は嫁の一つも見つからないんだよ……」
それを聞いて『またか……』と苦渋の表情を浮かべる。この展開は……いずれ間違いなくあの話に転嫁する。
「大体、お前は思いやりってもんが欠けてる。自分を最大限に発揮して、大切にしようとか、守ろうとか男としての力量が無いんだよ」
「あいにく、図太い女どもに囲まれて、女が守る存在だと思ったこともないんでね」
「何!? お前の目はほんと節穴だね。ずぼずぼのプレーリードックもびっくりだよ」
「なんだ、そのプレーリードックってのは……」
「今日、テレビでやってた穴を掘る小動物だよ」
そこはモグラとかにしとけよ……。
フミはいまいち、話が分かり難く、あちこち飛ぶので気をつけなくてはいけない。加えて人の話も聞いていないし、思い込みも激しい。
まるでいいとこなしのようだが、情に厚い部分もあり、孫想いで優しい一面もある。
下村家の女はとにかく、ややこしい性格なのだ。
「で……なんの話じゃったかな?」
「フミちゃん、プレーリードックでしょ?」
首を傾げたフミに、すかさず圭が返事を返した。
「いや……そうじゃなくて」
「それって、どこに生息してんの?」
さりげない圭の切り返しから、懸命に話を戻そうとするフミに、颯人もすかさず加勢する。
「どこじゃったかな……のう、圭ちゃんどこじゃった?」
「さあ……外国でしょ」
「外国……そうじゃな。外国じゃ」
「後は……動物園とか……?」
「うん。そうじゃろな」
あほか。
そう思いながらも、さりげなく話を逸らすことができたことに満足感を覚える。
フミはこの頃、颯人の“嫁”の話をしたがる。颯人に恋人……云々の話ではない。所謂、“孫の嫁探し”に燃えているのだ。
ここ半年で、誰それの娘……と、お見合い写真を何人見せられたことか。
もちろん、すべて却下し、一度もお見合いなどしたことはない。とはいえ、聞くだけでうんざりなのだ。
今日も危うくその話題に行きそうになったが、何とか阻止できてホッと胸を撫で下ろしたというわけだ。
「さあさ、フミちゃん。ケーキ食べましょうよ!」
「ああ! そうじゃった。圭ちゃんが用意してくれたあふたぬーんていは格別じゃから」
おいおい……つっこみどころ満載じゃねーか?
楽しく談笑し始めた二人を眺め、苦笑を浮かべると、ふと圭がこちらに目を向け、軽くウインクをよこした。
……へいへい。どうも。
あれは、助けてくれたということらしい。
やはり、圭は只者ではない。
そんな二人に囲まれて、颯人はこっそりとため息をついた。
帰り支度をしていると、会社の同僚から電話が掛かってきた。カバンから資料を取り出し、フミの自室に入る。
電話を終えて、リビングへ戻るとフミから「なにか、トラブルかい?」と尋ねてきた。
「いや、確認だけ」
「そうかい」
その言葉を聞きながら、資料を再びカバンに戻す。その動作を見ていたフミが、再び話しかけてきた。
「それ、なんだい?」
「あ?」
その言葉に、フミが見つめているものに視線を向ける。フミは颯人のカバンを見ていた。
「あ……」
まずい……
それはカバンの中から見えるピンクの物質―――――アメの傘だった。
昨日颯人の頭上を覆ってくれたこの傘。その辺に置いておいてくれと言われたものの、無くなってしまうかもしれないと思うと、とても放置などできなかった。仕方なく会社の傘立てに置いておこうと思ってカバンに入れていたのだが、今日は外回りと忙しく、すっかり返すのを忘れていた。
まさか、こんなややこしい相手に見られてしまうとは……!
颯人がそう思って、それをカバンの奥底に詰め込もうとすると、フミは普段からは考えられない速さでそれをさっと奪い取った。
「こりゃ、女物の傘じゃないか~」
そう言って、その桃色の傘と颯人を交互に見ながら、ニヤニヤと嫌な笑みを見せた。
くっそ……
「彼女のかい?」
「違う」
「かなり使い込んでるみたいじゃし、今までのちゃらけた女とはちょっと毛色が違うんじゃないかい?」
「……違うって言ってんだろ」
「ふふん」
なんだ! その物知り顔の笑いは!?
「ババア、返せよ!」
「なんだい? 珍しく、むきになりおって……さてはついに」
「つべこべ言わずに、さっさと……」
「あら?」
傘を取り返そうと、手を伸ばした時、圭の間の抜けたような声が響いた。
その声に驚いて圭を見ると、圭はフミの持つ傘をしげしげと見つめていた。
「どうしたんじゃ? 圭ちゃん」
「……おかしいわね」
そう言うと、フミの持つ傘を手に取って、くるくると見回す。
なんだ?
「似てる……気がするんだけど」
「何にじゃ?」
「……う~ん」
相変わらず、のらりくらりとマイペースに話を進める圭を、二人して見守る。その先にどんな展開が待っているのか、さっぱり予想がつかない。
「……やっぱり、気のせいね。こんなところにあるわけないし、どこにでもある柄だもの」
そう言うと、圭はフミにその傘を返した。しかし、その気にかかる発言に当然フミは切り返す。
「圭ちゃんの傘なのかい?」
……おいおい、そんなわけないねーだろうが。なんで俺が、圭さんの傘を持ってなきゃいけねーんだよ……
呆れる颯人をよそに、二人の会話が続く。
「違うけどね……杏実の傘に似てるなって思って」
「杏実ちゃんの?」
杏実?
どこかで聞いたことがある名前だが、いまいち思い出せない。
「と、思ったけど、どこでもある柄の傘だし、そんなわけないと思って」
「でも……似てるのかい?」
「う~ん……どうかしら? あまりよく見たことが無いから……」
圭のその返事にフミは急に颯人を振り向き、鋭い視線を向ける。
「おい、颯人」
「あ?」
「それ、杏実ちゃんのなのかい?」
「はぁ?」
あほか。
「杏実って誰だよ、知らねーよ」
「嘘じゃないだろうね! 杏実ちゃんが優しいのを利用してぶんどって……」
「フミちゃん! もう、止めてちょうだいな。颯人くんがそんなことするわけないでしょ。私の勘違いですよ。第一、颯人くんは杏実のことを知ってるはずもないし」
「でも……」
「ほれ見ろ」
「颯人は黙ってな!」
フミからすかさず鋭い視線が飛んできた。濡れ衣を着せられたのに、ずいぶんな言い方だ。そう思うが、言い返しても何の得にもならないので、とりあえず成り行きを見守ることにした。
「あの子、自分の傘をどこにでも放置するものだから、何度も紛失してるのよ。先日も、無くしたとか言ってずぶぬれで来たかと思ったら、しばらくしていつの間にか戻ってきたとか……どこで無くしたのか、見つかったのか全く分からないなんて、本当ぼんやりでやんなっちゃう。だから、それを見て、チラッと気になっただけなの」
どうやら、圭の言う“杏実”という人物は、圭を上回るマイペースな人間らしい。
「颯人くん、ごめんなさいね」
「いいえ」
「いいんだよ。颯人が紛らわしいものを持ってるから悪いのさ」
「勝手にあれこれ詮索してきたのはそっちだろうが!」
言い返すが、フミはどこ吹く風で、圭に心配そうな声色で話し掛け始めた。
「しかし……杏実ちゃんの傘はそんなによく無くなるのかい?」
「そうねぇ」
「あたしが何本かプレゼントしようかね。濡れて帰るなんて、身体に悪いじゃないか」
その発言を聞いて、ギョッとする。
フミ婆がプレゼント?!
この自己中心の守銭奴が、財布のひもを解くとはどういった風の吹き回しだ。その言葉だけでも、相当の入れ込みようを感じた。
そう言えば、先ほどからの圭の発言からも相当親しい間柄のように感じる。
“杏実”
いったい、何者なのだろう。
「いらない、いらない! あの子が必要だと思ったら、買うわよ」
「そうかい? ……なあ、颯人」
「あ?」
「お前ぐらいの年頃の女の子は、どんな柄の傘が好きなんだい?」
「知るか!」
「……じゃろーな。お前が女子にプレゼントとか、雪が降るじゃろうな」
「フミ婆より、奇異な出来事じゃねーよ」
「……一緒にせんでくれるかい」
「こっちのセリフだっての」
そう言い捨てるが、フミはいまだブツブツと何かつぶやきながら、考え事をしている。
「で、圭さん。なんなんですか? その杏実って人」
「あら……言ってなかったかしら。孫よ」
「孫? 圭さんの?」
「そうよ。長男の三番目の娘なのよ」
「三番目? 圭さんそんなにたくさん孫がいたんですか」
「見えない?」
「……失礼かもしれませんけど、圭さんに身内がいたこと自体に驚いてますよ」
そう言うと、圭は面白そうに笑い声をあげた。
「ふふ……そうでしょうね。一度も面会に来たことはないわ」
「え?」
「長男とは……杏実以外の身内とは連絡を絶ってるの。いろいろあってね」
普段の圭から考えられないような硬い表情を見せ、颯人にそう言い放つ。
“連絡を絶っている”?
確かに圭の言うとおり、身内が面会しているところを見たことはなかった。生涯独身だったようには見えなかったので、夫が他界してフミと暮らし始めたのだろうと思っていたが、それゆえに身内はいないのではないかと思っていたのだ。しかし、どうやら圭には、深い事情があるようだ。
「でも、あの子……杏実は私についてきたから近くに住んでいるのよ。ちょくちょく顔は見せるけど、大学とバイトで忙しいからほとんど面会時間には来たことはないわね。会ったことないでしょ?」
「ないですね」
「颯人くんより2歳ぐらい年下だと思うわ。ちょっとぼんやりさんだけど、見かけたら、仲良くしてやってね」
「はあ……」
見かけたらって言われてもなぁ……
圭の身内ならば無視はできないだろうが、仲良くできるかは別問題だろう。
曖昧に返事を返した颯人に、圭がまるでそんな気持ちを察しているような笑顔を見せた。そしてほぼ同時に、突然隣にいたフミが叫びをあげた。
「あ~―――――!」
その声に驚いて颯人と圭はフミを振り向く。フミは「あっ……あっ……それっ……」などと、意味の分からない言葉をつぶやきながら颯人と圭を見比べていた。
「なんだよ、フミ婆……」
「フミちゃん大丈夫?」
圭が興奮した様子のフミを気遣って、背中を撫で始めた。フミはしばらく息を弾ませてうつむいていたが、やがて目を爛爛と輝かせて顔を上げた。
「そうじゃよ! すっかり忘れておった!!」
「は?」
「え?」
「杏実ちゃんじゃよ! 杏実ちゃんがいたんじゃ!!」
だから、なんだってんだよ。意味が分からね……
フミの思考回路の暴走はよくある話だが、毎回意味不明だ。
「杏実? 来てるの?」
そして……このおとぼけコントもいい加減にしてほしい……
「違う違う!! 圭ちゃん、杏実ちゃんじゃよ。今まで、こんなに近くにいたのに全く結びつかなんだ……そうじゃよ。こんなに適任はおらんじゃないか」
「なんのこと?」
「杏実ちゃんが欲しいんじゃ!」
「欲しいって……何に?」
「颯人の嫁に!!!」
―――――……………は?
「……はぁぁぁ?」
「杏実ちゃんほど適任はおらんのじゃ。今、考えただけでもこれ以上の相手はおらん」
「何考えとんじゃババ……」
「ほどほど年も近いし、颯人は亭主関白だから年下だし最適じゃ。杏実ちゃんは見た目も可愛らしいが、何より性格が良い、気立てもいい、あたしの孫よりも孝行ものじゃ。しかも圭ちゃんの孫、杏実ちゃんが嫁に来れば、圭ちゃんとも晴れて家族になれるじゃないか!」
「あら……それは、魅力的ね」
「じゃろう? それと、前から目論んでいたんじゃが、杏実ちゃんの卒業後はここに就職させようと思っておった。圭ちゃんもおるし、資格も十分に発揮できるじゃろ? まあ……そこまでのことじゃったが、もっといいことに気が付いたんじゃ」
「おい! 誰が結婚するって……」
「いずれ颯人にはこの経営権を譲るつもりじゃったが、颯人には献身的な精神が感じられないし、このホームを任せるのはいささか心配でもある。でもじゃ……杏実ちゃんがいれば、実務は杏実ちゃんに任せることができる。実質的な経営を颯人がして、杏実ちゃんにはホーム内のことに目を配ってもらう。最高じゃ……」
なんつ……自己中な。
先ほどから聞いていたら、とんでもない計画を立てていたようだ。孫のみならず、人の孫の進路まで口を出そうとしていたとは。
フミの横暴さは身に染みてわかっているので、杏実と言う人物が気の毒でならない。
もちろん、颯人自身も言う通りにするつもりもない。
「おいババア、俺は……」
「でもねぇ……」
言い返す言葉に被さるように、圭が心配そうにつぶやいた。
この二人は、いつも他者にお構いなしなのだ。
「どうしたんじゃい? 何か問題でもあるかい?」
「いや……ね?」
そう言うと圭はちらりと颯人に視線を向けてきた。それを見て、フミがすかさず口を開いた。
「ああ! そうだよね……颯人じゃ、杏実ちゃんにはふさわしくないかね……」
「何!?」
どこまでも、失礼なババアどもじゃねーか!
「違う違う……その反対よぉ。杏実じゃ……颯人くんとは月とすっぽんじゃないかしら。颯人くんなら引く手も数多でしょうし、なにも杏実みたいな奥手の……」
「何言ってる! 圭ちゃん、杏実ちゃんほどいい子もおらん」
「そう言ってくれるのはうれしいけど……ほら、颯人くんの趣味ってものも」
「颯人の趣味なんて知らん! どうせ、見る目が無いんじゃから、選ぶ方が間違いのもとじゃ」
「どさくさにまぎれて、バカにすんなよ!」
「でもね……杏実は恋愛経験ゼロだと思うわよ……そんな相手と」
「杏実ちゃんはあと数年すれば化ける。いわば原石じゃ。恋愛経験なんざ、無い方が初々しくて可愛いじゃないか」
「う~ん……」
有難いことに、圭はこの提案に反対らしい。いつも颯人の見合い話を口を挟むことなくにこやかに聞いていた圭だが、やはり自分の孫の話となると別なのだろう。
口には出さないが、孫を大切にしているのだと言うことがわかる。
「圭ちゃん、いいじゃないか。颯人じゃ駄目っていうわけじゃないんだろ?」
「おい! 俺は良いって言ってねーからな」
「駄目じゃないけど……」
「いますぐの話じゃないんだ、いずれそういう可能性もあるっていう、希望じゃ。それすら……あたしから奪わんといてくれ」
そう言うと、フミは肩を落とし、寂しそうな瞳を圭に向けた。圭はそんなフミを見て、おろおろと動揺を見せる。
「もちろんよ! フミちゃん! 反対なんてしないわ。杏実と颯人くんが結婚なんて夢みたいな話、フミちゃんが心の中で願うことを、誰も文句は言えないもの。フミちゃんの好きにしてちょうだいな」
圭は困ったような表情を浮かべ、フミにそう言うと、フミはみるみる表情を明るくし、満足そうにうなずいた。
「圭さん!」
颯人が横から抗議の声を上げると、圭は申し訳なさそうに振り向いた。
「颯人くん、ごめんなさいね。まあ……フミちゃんは颯人くんのこと心配してあれこれ言ってるのよ」
「どこが!? 完全に自己中心的な考えじゃないですか!」
「まっ……まあ、いますぐどうこうじゃないんだし、颯人くんは颯人くんの想う人を見つけて、早くフミちゃんを安心させてあげたらいいんじゃないの? 杏実のことは可能性ってだけで……」
「その可能性が厄介なんですよ!」
「はは……」
颯人の言い分を理解してだろう、圭は引きつった笑いを浮かべた。
「まあ……フミちゃんの関心も一時の事かもしれないんだし……」
「圭ちゃん、あたしゃそんな軽い気持ちじゃないんだよ」
「でも……ほら、颯人くんが……」
「圭ちゃんと家族になるんじゃぁ~楽しみじゃ……」
「フミちゃん……」
おろおろと颯人とフミを見比べている圭。気の毒だが、圭も同罪だ。
……冗談じゃねーぞ! 俺は断固として、その思惑には乗らないからな!!
颯人はその決意を胸に秘めつつ、どうあがこうとも一度はこの先面倒な厄介ごとに巻き込まれるかもしれないという予感を拭いきれずにいた。
颯人は憂鬱さを吐き出すように、長い溜息をついた。