6.ミルク
「くそっ……どうなってんだよ。このっ……」
うだるような暑さの中、目の前が黒く翳り始め、視界が霞む。鉛を乗せられたように、頭が重くなっていた。
気分が悪い。
地面が上下したかのように感じて、足元もおぼつかなくなってきた。
あと少しってとこで!
そう思っても、このままでは社のビルに行きつく前にみっともなく倒れてしまうかもしれない。
まあ、今でも十分みっともないが……
颯人は仕方なく大通りの生け垣に置かれたベンチに倒れこむように、腰を下ろした。そのままゴロリと横になる。視界を遮るように腕を顔の前に投げ出し、後ろでに視線を向ければ、燦々と降り注ぐ太陽がビルのミラーガラスに反射して、その光にさえめまいがして眉をひそめた。
昨日は雨だった。
その鬱蒼とした雨が嫌で、浴びるように飲んだ焼酎が、後になって湧きあがった湿気と共に、今の颯人を苦しめていた。
要するに、二日酔いだ。
しかしその体調で朝から外回りともなれば、熱気に当てられても仕方ない。今は8月。夏、真っ盛りなのだから。
ミルクが亡くなって、半年以上の日々が過ぎていた。
あの日は身を切り裂くような寒い日で、さらに土砂降りの雨が降っていた。スーツにしみ込んだ雨に体を震わせ部屋に帰った颯人を、眠るように体を丸め冷たくなったミルクがそっと迎えてくれた。
そしてミルクの葬儀(祈祷をあげてもらうだけだが)の日も、土砂降りの雨だった。犬のくせに雨が大好きだったミルク……雨の日の散歩の後は、はしゃいで泥だらけになったミルクを文句を言いながら拭いてやるのが日課だった。きっとこの雨もミルクが望んだことだろう、きっとミルクが喜ぶ……そう思いながらも、寒さと冷たい雨の中、濡れた体を擦り付けてくる温かな存在はもういない……そのわびしさに、一人になったのだと実感した。
しばらくはなんの気力も湧かなかった。淡々と仕事をこなし、たまに誘われ平田と飲みに行く。適当に寄ってきた女と遊び、過ぎていく時間をただ無意味にやり過ごしていた。
季節は冬から春……そして夏となった。
さすがに半年も過ぎれば、愛犬の死を受け止められていると思う。しかし雨の日になると、どうしても思い出さずにいられないのだ。そしてその気持ちを誤魔化すために、酒や女を利用し、あとで後悔することとなる。
今日のこの時のように。
「なっさけね……」
こんな愚痴を言ったところで、ますますみじめになるだけだとわかっていても、呟かずにいられない。
ベンチには容赦なく太陽の熱が降り注ぎ、ぐるぐる回る視界と、滝のように流れる汗に気が遠くなりそうだ。
颯人は目を閉じて、じっと深呼吸を繰り返す。ここはひとまず落ち着くのを待つしかない。少しでも気分が良くなれば、社に戻って、クーラーの中で過ごせばもっと回復するだろう。
場合によっては、しばらく医務室でベットを拝借すればいいことだ。
そう思って、我慢を決め込む。しかし―――――ふと目の前が翳ってきたのを感じた。
目を閉じているので、光が遮られたことが感じられるだけだ。有難いことに曇ってきたのだろうかと思う。
しかしかすかに服の擦れる音がして、近くに人の気配を感じた。
そして怪訝に思って重い瞼を開けようとするよりも早く、小さく遠慮がちな声が頭上から響いてきた。
「あの……ご気分が悪いんですか?」
柔らかく、優しくシロフォンを鳴らしたような可愛らしい声色だった。……しかし、どこかで聞いたことのある声のような気がした。
その姿を確認しようとして、目を開けようとした颯人に、その人物は慌てたように話しかけてくる。
「あ……! お辛そうですし、そのまま目を閉じていてください」
その言葉に少し驚きを感じる。正直言って、目を開けることすら、辛かったのだ。
しばらくすると風が吹いてきたのか、少し涼しくなってきた。頭上は相変わらず、良い具合に光が遮られ、わずかに気分が上向いてきている気がする。
そしてどのぐらい経ったのか、颯人が少し回復を感じてホッと息を吐き出すと、驚いたことに同じ場所から先ほどの人物の声が響いてきた。
「少し、良くなってきました?」
どうやらあれからそこにいたらしい。遠慮がちで心配そうな声色だ。幾分か良くはなってきたものの、目を開けるのは億劫で、颯人はそのままの態勢で返答を返す。
「……少し」
「そうですか!」
明らかにホッとしたような声が響いた。他人ごとになのに親身なやつだと思う。
「あの……持病をお持ちなんですか?」
「……いや」
「この暑さで気分が悪くなられたんですか?」
「……そうだな」
「そうですか……」
その人物はそう返事をすると、再び口を閉ざしたようだった。しかし、そこから去ったわけではないようで、同じ気配を感じた。
いったいこの人物は、ここで何をしているのだろう?
気分が落ち着いてくると、少しそう疑問が湧いてくる。関係のない奴に周りとウロチョロされるのは、それだけで気分が悪い。
そう思って口を開こうとするより早く、頭上の人物が声を上げた。
「あっ……少し、そのまま待っていてください」
そう言うと、颯人が反応するより早く、頭上の生け垣に何かカサッと置く音がして、その人物の去っていく足音がした。
とたん、風も止んだ。
“待つ”?
バカ言え、ただ単に、動けねーだよ、こっちは!!
その奇妙な状況に重い瞼を開けた。しかし驚いたことに------目の前にピンクの花柄が広がっていた。
は?
よく見ると、それは傘だった。おかしなことに颯人の頭上に傘が広げられていた。この奇妙な状況に戸惑うように顔を横に向けると、そのピンクの傘の柄が生け垣に差し込まれているのが見えた。それゆえに不安定ながら颯人の頭上に鎮座しているらしい。
もしかして……
そう思って、その傘を頭からずらすと、たちまちに強い太陽の光が颯人の目の中に飛び込んできた。
曇っていたのではない。先ほどの人物が“この傘”を、颯人に差してくれていたのだ。
しかし首を回し辺りを見回すが、それらしき人物は見当たらなかった。颯人は傘の柄を持ち、ゆっくりと頭を起こした。
再び頭にガンと硬いものが当たったような痛みを感じて、目をきつく閉じる。
まだ……無理みたいだな。
再び横になり、幾分落ち着く頭痛にホッと息を吐き出した時、足早にベンチに近づいてくる足音を感じた。
そして、傘がひょいっと上に上げられた。
「あ!」
その言葉と共に傘の横から出てきた顔を見て、颯人も驚きで目を見開いた。
“アメ”だ。
そこには、久しぶりに目にするスクラリの地味なメガネの彼女が、颯人を覗き込むような恰好で立っていた。
「起きてたんですね。ご気分は大丈夫ですか?」
アメはそう言って、傘を左手に持ち帰ると、何かを渡すように、颯人の頭上にずいっと差し出した。その瞬間、颯人の額に冷たい水滴が落ちてきた。
「っ!」
その冷たさに驚いて、とっさにそのアメの手にあるものに手を伸ばした。
冷たくて丸い……ペットボトル?
「すごく汗かいてましたし、暑いっておっしゃっていたので水を買ってきました。良かったら、飲んでください」
「……」
ゆっくりそのペットボトルを受け取って、目の前に持ってくる。今しがた買ってきたことを物語る様に、小さな水滴がその壁面についていた。落ちてきたのは、この水滴らしい。
ありがたい。
今更ながら、口渇を意識してきた。しかしながら、先ほど頭を起こした時の惨事を思い出し、しばらくはじっとしておこうと思い返す。
「まだ……起き上がれなくて」
「ああ……そうですよね。無理しないでください。それは差し上げますから、あとで飲んでくださいね」
「すまない……」
そう言うと、アメは何でもないように笑顔を見せて、カバンから何かノートのようなものを取り出すとゆっくりと颯人に向けて扇ぎ始めた。
―――――“風”。どうやらあの風も、彼女が扇いでくれていたものだったらしい。
「暑いですよね……」
返事を期待していないのか、独り言のように傘から除く空を見上げてつぶやいている。
彼女と会うのは、久しぶりだ。
こうして目の前にいるのは、あの冬の雨の日以来かもしれない。あの時は、再びアメの様子を見にいこうと思っていたのだが、その後の出来事ですっかり忘れていた。そして、ここ半年は仕事も忙しく(というより、没頭していてほかのことを考えられなかった)カフェには行っていなかった。
久しぶりに見る彼女は、どこも変わっていないように思える。
相変わらず、不恰好なメガネをトレードマークに、黒髪を後ろに束ねている。ただ、夏だけにTシャツから伸びた白く華奢な腕は透き通るようで、たまらなくなまめかしく感じた。
ふと、以前平田が“吸ったら跡が付きそうだ”と言っていたことを思い出した。
本当だ。その腕の付け根に唇と這わせて、軽く吸ったらどうなるだろう。絹のように繊細で柔らかい肌が唇に触れ、赤く跡が付くころには、その楽器のような可愛らしい声が甘く色づいて女に変わる……そして、その薄いTシャツの中に手を入れ…
「あの……大丈夫ですか?」
その声にハッと我に返った。
今、何を考えてた?
先ほどまでは息をすることすら苦しくて、暑さに参っていたのに、ついに頭が沸騰したのか、意図せぬ別の場所が熱くなってきていた。
こんなとこで、何考えてんだよ!
その熱が一か所に集まるのを食い止めようと、何とか気持ちを冷静に落ち着かそうと理性を総動員する。よりにもよってこんな地味女に……道の往来で……
「あの……救急車呼びましょうか?」
その声に再び彼自身がピクッとが反応すると同時に、言われた内容を理解してギョッとする。
救急車? バカ言え!?
そのばかばかしい提案に頭がたちまち冷えてくる。
助かった……
「いりません」
「……でも、なんだか様子が……」
「少し、考え事をしていたので」
「……そうでしたか。てっきり言葉にできないぐらいお辛いのかと」
確かに、今考えていたことは言葉にはできそうにない。
颯人の言葉にホッと胸を撫で下ろしている彼女の隙を見て、颯人も安堵のため息をつく。
まったく……どうかしてる。
二人の間にしばし、沈黙が流れた。
アメは相変わらず、傘を片手に、もう一方の手で颯人に風を送り続けている。
こちらに気を使ってか、アメは颯人に視線を向けずに、大通りの車や人の流れをじっと見つめていた。
その様子は、颯人の存在を意識していないかのようにも見え、くつろいでさえ思えた。
颯人に言い寄ってくる女は大抵、執拗に視線を送り、意識をこちらに向けようと必死にアピールしてくる。もしこんなに弱っている自分に遭遇すれば、これ幸いと弱みに付け込んでくるに違いない。自分は出来る女なのだと、母性本能をこれ見よがしに証明したがるのだ。女と言うのは計算高くて、都合のいい思い込みの産物なのだから。幼少期からの性格の腐ったいとこに揉まれ、少々女について見解が歪んでいるのは自覚しているが、まあ似たり寄ったりだろう。
それゆえに、アメの自然体で見返りの求めない姿勢が意外に映った。全く無関心のようで、それでいて颯人に風を送り続けている遠慮がちな気遣いが、本心から来るものに思えて、素直に心に響く。
彼女といるこの空間がこの時が、何よりも心地よかった。
どのぐらい時が経っただろう。その沈黙は、突然のアメの叫び声で破られた。
「あ~!!」
颯人が驚いて、目を開けると、そこには焦った様子で腕時計を見つめるアメの姿があった。
「た……たたた……大変! おっ……遅れちゃう!!」
そう言ってアメは持っていたノートを乱雑にカバンに放り入れると、おもむろに立ち上がった。そしてその様子をベンチから見上げていた颯人を振り返る。
「すっ、すみません! 急ぎの講義が……用があって……今すぐ帰らなければいけないので」
“講義”?
そう言えば、あのおばちゃん店員も学費だとか言っていた。アメは大学生なのだろうか。
「ああ……」
「すみませんっ……」
何に対して謝っているんだ?
そもそも、こんな見ず知らずの男、見て見ぬふりをすればいいものを……もし俺が性質の悪い野郎だったらどうするつもりだったのか……。
しかも、大切な用事があったに関わらず……鈍くさいにもほどがあるだろ。
「俺はもう大丈夫だから、早く行けよ」
「はい!」
完全に立場が逆転しているが、アメは気にした様子もなくそのままその場を去ろうとした。その様子を見ながら、ハッと今頭上に広げられた傘のことを思い出す。
「おい! 傘!」
いまだ頭が起こせない状態ながら、そう必死で呼び止めると、アメはその声に反応して振り返った。
「傘! 忘れてんぞ! きちんと……」
「どうぞ、そのまま使ってください!」
「……は?」
「後日、取りに来ますから、気分が良くなったら、閉じてその辺にでも置いておいてください」
「なっ……」
そう言い放つとアメはそのまま踵を返そうとして、また何か思い出したのか、こちらに駆け寄ってきた。
やっぱり、傘を取りに来た?
「忘れてました」
アメはそう言うと、おもむろにカバンの中に手を突っ込み、しばらく探ってから何か取り出した。
その手のひらに白い小さな袋がいくつか握られていた。それは互いに擦れてカサカサと音がした。その袋を颯人の目の前に差し出す。
「これ、良かったら食べてください」
「は?」
「脱水には水と塩が良いんです。しっかり水を飲んでいただいて、その後これをどうぞ」
「これは……?」
「塩アメです。と、言っても、私はあの淡白な味が苦手なので、普通の塩アメとは違うんですけど……実はミルク が入ってるんです」
そう言って、颯人の手の中にその包みを落とした。
「ミルク……?」
「はい。私、ミルクが大好きなんです」
“ミルクが大好き”
その言葉を聞いた瞬間、不意に颯人の心の奥深くに仕舞い込んでいた悲しみに、触れられたような気がして、大きく気持ちが揺さぶられた。
彼女は“ミルク”を知るはずもないのに。何気なく言った言葉だとわかっていても、颯人の心を代弁したかのようなストレートな想いは、胸を締め付けた。
「ミルクって……まろやかで優しい味でそれだけでもいいんですけど、いろいろなものと混ぜても合いますし、それ以上に他の味を引き立ててくれるって言うか……とにかく万能です。私、本当はふつうの塩アメを買うつもりだったんですけど、つい、ミルクの文字に惹かれて買ってしまったんです。でも正解でした……これすごく美味しいですよ」
アメはそんな颯人の様子に気づくことなく、楽しそうな調子で語り続けていた。そして颯人の手の中にそのアメを落とす。
「塩で身体のバランスを整えて、ミルクの甘さで疲れを吹き飛ばしてくださいね」
そう言ってアメは優しい笑顔を颯人に向けた。
その笑顔に、言葉に、胸が熱くなってその息苦しさに言葉を失う。呆然とアメを見つめることしかできなくなった颯人に、アメは拒否の姿勢と勘違いしてか首を傾げて不安そうな様子で尋ねてきた。
「もしかして……塩アメお嫌いですか?」
「……いや」
「ミルク味は……お好きですか?」
ミルク?
ミルクは……
ミルクは俺にとって―――――
「何よりも……好きです」
吐き出すように言ったその言葉と共に思いがあふれて、目頭が熱くなってくる。あの時……マンションで冷たくなったミルクを見た時でも、泣かなかったのに、どうしてだろう。今更ながらあふれる涙を止められそうになかった。
誤魔化すように、目を閉じた。
「そうですか。よかったです」
アメはそんな颯人の変化に気づいたのか気が付かなかったのか、あいまいな返事を返し、しばらくすると、目を閉じたままの颯人の手のひらにもう一つ包みを握らせた。
「たくさんあるので……もう一つどうぞ。このミルクのアメの優しい味には癒し効果があるんです」
「……」
「早く元気になってくださいね……」
そう言うと、アメの足早に遠ざかっていく音が聞こえた。それと同時にそこにいたアメの気配も消える。
今度こそ講義に向かったらしい。
目を閉じていても、頭上の傘の存在ははっきりと意識できた。この桃色の花柄の折り畳み傘は、また傘は人の手に渡ってしまった。しかも、今度は返す保証もない見ず知らずの人のもとに託されたのだ。
しかし、今は何よりもありがたい。
颯人の目から流れ出る涙を、隠してくれている。その涙は、ずっと心の奥底に住みついて吐き出すことのできなかった悲しみを連れて、外に流してくれている。
――――――ミルクが大好きなんです
そう……大好きだった。俺の大好きなミルク。
―――――ミルクのアメの優しい味には癒し効果があるんです
―――――甘さで疲れを吹き飛ばしてくださいね
いつも、ミルクがいるだけで、疲れなんか吹き飛んでた。ミルクがいるだけで、俺は癒されていたんだ。
あの優しい瞳に、温かさが何よりも恋しい。
ミルクに……会いたい。
涙は留まることを知らないかのように、あふれ出していた。周囲に気づかれないように嗚咽を抑える。胸が詰まって苦しい。
その息苦しさを誤魔化すかのように、手に持っていたアメを一つ口に入れた。
甘い。それでいて、塩が爽やかな口当たりを生み出していた。
「美味っ……」
―――――早く元気になってくださいね
その言葉が頭の中に優しく鳴り響く。
“ミルク”と“アメ”―――――不思議な組み合わせ。
いったいどちらに癒されたのだろう?
いつの間にか止まった涙に目を開ければ、燦々と降り注ぐ太陽を透かしながら花柄の明るい世界が颯人を包みこんでいた。