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2.黒縁メガネの女店員

―――――2年前




「は? 雨?」


 入社して1年という時が流れていた。自分のペースをつかみ、徐々に責任のある仕事も任されるようになってきたある日。社内のドリンクコーナーで紅茶を飲んでいると、同期の平田がひょっこり現れた。

 平田 裕之(ひらた ひろゆき)。同期にして高校からの腐れ縁。茶色の猫っ毛の髪に、甘いマスクで社交的にふるまう男だ。

 誰から見ても順当に整った容姿に、常にさわやかな笑顔を張り付けている。爽やか……通常の人ならそう表現する。しかしその実、相当なドSで女ったらし、自分が楽しければ他人はどうでもいいと言った、どうしようもない自己中心的な性格だ。しかし、妙なことに気が合う。颯人にとって、唯一腹を割って話せる存在であることは否めない。


 そしていつものように、くだらない話をし始めたのだ。


「違う違う。雨じゃなくてアメ! “アメ”ちゃんだよ。知らないの?」

「お前、飴ちゃんって大阪のおばちゃんが使う言葉だろ」

「ぷっ……何それ」

「お前が言ったんだよ」

「違う違う。……てか、その反応。ほんとに知らないんだ」

「意味わからん。俺とアメの因果関係、知ってるやついたら連れて来いよ」

 にべもなくそう言い放つと、平田は「仕方ないなぁ」と言ってニヤリと笑う。どうやらこの話題は、平田にとって割と重要な話題らしい。こいつは興味のあることにはこんな表情をする。


「アメちゃんは人の名前だよ。“スクラリ”の店員さん。朝倉もあのカフェ、行ったことあるでしょ?」

「当たり前だろ」

 ”スクラリ”は、会社の併設のカフェだ。もちろん行ったことはある。特に可もなく不可もなくといったカフェだった。(この市販の紅茶より、味はうまいのは確かだろう)

 しかし最近は、ある事情(・・・・)でよほどの用が無ければいかないことにしている。それについては、平田(こいつ)に言えば、恰好の餌食となりかねないので、口には出さないが。

 そのことは関係ないとしても、そのカフェと平田の言っている意味のつながりは全くわからなかった。

 

「そこの店員さんに“アメ”って子がいるの。結構地味なんだけどね……腕がいいんだよね」

「腕? お前も見るとこ、大概変態だな」

「まあね……って、その腕じゃないって。いや……どうだったかな……確かに白くて柔らかそうではあったかな……ちょっと吸ったらすぐに跡が付くだろうし……」

 あほらし。

 平田の女の話は毎回くだらない上に、温泉のように次から次へと湧いて出る。この会社に入社してからも、いったいどれだけとっかえひっかえしたことか。しかも水面下に上がってこないから性質が悪い。

 “アメ”かなんだか知らんが、所詮いつもの女の話だ。

 聞くのも面倒になって、カップをゴミ箱に投げ捨て、考え込む平田を置いて、ドリンクコーナーを出る。

 そんな颯人に気が付いて、平田が後を追ってきた。


「朝倉!」

 その呼びかけに、仕方なく振り向いた。


「せっかちすぎるんじゃない? まだ休憩時間でしょ」

「そうだとしても、お前の女の話を聞くような時間はねーよ」

「言ってくれるじゃん。ふ~ん……そんなこと言うなら、今週末飲みに行く約束してたよね? その時、僕の赤裸々な情事を耳にタコができるまで話してあげるからね」

「なんだ、その嫌がらせは」

「いやだなぁ~灰色の人生を送る朝倉に色を加えてあげようって言ってんでしょ? 思いやりだよ~。黒の、お、う、じ、君?」

「………やめろ、それ」

 颯人がその言葉に明らかに嫌悪感を表すと、その表情を見て平田は面白そうに噴きだした。


“黒の王子”

 最近、颯人は社内で、ひそかにそう呼ばれているらしい。面と向かって言われたことはないが、その話を聞いた時、耳を疑った。

 なんだ、その歯の浮くようなネーミーングは……と。

 社の女どもが付けたようだが、その「黒」には“残酷な”“冷酷な”といった意味が込められているらしい。就職してからいっそう女のアプローチが面倒で、ほとんど無視を決め込んでいたのが悪かったようだ。

 そしてもう一つ。

 少し前まで付き合っていた社内の年上の女。結局、付き合って早々、結婚だのなんだのとうるさく言うので別れたが、それもその噂に加担した形となった。あの女は身体は悪くなかったが、口が軽すぎた。女なんてそんな生き物だとわかっていたのに、油断していた俺が悪かったのだ。

 所詮は身から出た錆、とはいえ、この性格の歪み切った平田が“光の王子”と呼ばれているのには異論を唱えずにいられない。

 この男が光ならば、世界は真っ黒に染まってしまうだろう。

 笑い続ける平田を一瞥して、足早に部署への帰路に着く。

 平田はかなりの笑い上戸なのだ、しばらくは追ってくることもないだろう。


 結局、何の話だったんだ?


 そんな疑問を残しつつ―――――




 しかし、それから平田を通して、その名は何度も耳にすることとなった。

 聞けば、その店員の入れるコーヒーがうまいらしい。また、からかうと面白いと言うのが、平田にとって何よりも評価が高いところのようだった。

“アメちゃんが……”そんなフレーズを聞くたびに、『またか』と思いつつも、興味が無いわけではなかった。しかし、カフェに行くことはなかったので、無論その店員を見る機会もなかった。

 やがて半年が過ぎ、季節は冬となった。


 

 そして―――――“あの日”


 寒い日だった。他社での取引を終え社に帰ってきた颯人は、あまりの寒さと疲れに、思わず避けていたことを忘れていたスクラリに、足を運んでしまったのだ。

 店員から『いらっしゃいませ』と言われて、ハッと店に入ってしまったのだと気が付いた。

 ここまでくれば後の祭り。


 仕方ない……。

 颯人は覚悟を決め、さっと周囲を見渡した。客が3組ほどと女の店員が1人。

 あいつは……いない。

 ホッと胸を撫で下ろし、適当に窓際の席に座る。そのタイミングでテーブルに水とメニューが置かれた。颯人はメニューを見ることなくミルクティーを注文した。

 似合わないとは言われるが、コーヒーが嫌いゆえ、颯人はもっぱら紅茶派なのだ。そして仕事中はストレスから胃痛を感じることもあるので、いつもミルクティーにしている。

 颯人の注文を受け、店員は軽く頭を下げて、厨房へ入っていった。


 そしてもう一度、入念に周囲を注意深く観察する。


 ……いない、か?


 入社当初は足を運んでいたこのカフェに、めっきり寄り付かなくなった理由。それはスクラリの店長なのだ。

 この店の店長は、おそらくオカマだ。そしてその店長から颯人に向けられる―――――思いがけない好意。

 初めは勘違いかと思った。しかし……クッキーなどが添えられる余計なサービス。奇妙な“視線”。レジでお釣りをもらう際に、なぜか何度も手が触れる……etc。

 普通の女ならば、少し好意を感じた時点でコテンパに突っぱねるところだが、今回は男と油断して気が付くのが遅かった。そして告白されたわけでもなく、ただの店員なのであからさまに突っぱねるわけにもいかない。

 しかしあの視線は生理的に気持ちが悪い。よってこの店には寄り付かないことにしていたのだ

 取引先の資料を見返しながらも、時折視線を感じる気がして、颯人は周囲を見渡す。しかし、そこには先ほどと変わりのない風景が広がっているだけだ。

 なんで、こんなこそこそと……情けない!?

 そう思うと、さらにドッと疲れを感じた。


「お待たせしました」

 そんな颯人に、突如頭上から女の声が響いた。颯人は張りつめていた緊張感から、その声にびくりと身体を震わせ、とっさに顔を上げた。

 しかしその動作に驚いたのか、その原因とも言える人物も目を丸くしてその動作を止めた。

 違う。店長ではない。

 目の前に―――――黒縁メガネをかけた女の店員が立っていた。


 初めて見る顔だ。その店員はほっそりとした小柄な体格と、丸く優しそうな輪郭に形のいい唇。眉までかかった漆黒のストレートの前髪はきっちりと揃えられており、後ろに伸びた長い髪は、飾り気なく後ろに束ねられていた。そして何よりも印象的なのは、その小さな顔に奇妙なほど大きく存在した黒縁のメガネだ。その眼鏡が限りなく不釣り合いな店員だった。

 まあ“地味”。あの店長にあってこの店員。この喫茶店はセンスの欠片もないと思う。


「あ……の?」

 見るからに貧弱な外見に似合わず、穏やかで可愛い声が颯人の耳に届いた。さらにその店員は、颯人の過剰なまでの警戒心を察してか、怪訝そうにさらに言葉を続ける。


「なにか……お困りでしたか?」

 かすかに眉を寄せ、颯人の顔色をじっと観察している。

 颯人もつられて、その店員に視線を合わせ、ハッとあることに気が付いた。

 最悪だ。

 この店員のメガネは不釣り合いな上に、目の表情まで見えないほどに分厚いレンズで構成されているらしい。はっきり言って、見てるこっちまで、気の毒になる。

 まあ彼女にしてみれば、大きなお世話だろうが。


「あの……注文の品をお持ちしました」

 店員が再び口を開いた。

 不快な感情に気を取られて、とっさに返事をし忘れていたことに気が付く。

 慌てて「集中していて、少し驚いただけです」と言い、視線を書類に戻した。そんな颯人の言葉を受け、店員はホッとした様子で、トレーからカップとポットをテーブルに置き始めた。

 

 きれいな手をしている。

 白くて指が長い。何よりもカップを持つ動作は繊細で、カチャカチャと不快な食器の音を立てることはない。見た目は地味だが、思いのほか優雅な給仕をする店員のようだ。


「ごゆっくり」

 店員は、颯人に義務的な言葉ながら耳に心地よい声でそう言うと、踵を返し厨房へ戻って行った。

 その姿を見て、颯人は知らずにホッと胸を撫で下ろす。あまりに驚いたためか、心臓がいつもよりも早く動いて、頭に響いていた。


 くそ……忌々しい店だ。たかがお茶一杯にこんなに動揺する羽目になるとは!?

 それもこれも、あのオカマのせいだと思う。どうにも対処できないなら、さっさと飲んで退散するが勝ちだろう。

 颯人は心の中でそう決意すると、テーブルに置かれたカップに視線を戻した。

 そしてポットに入った紅茶を、目の前のカップに移そうと手を伸ばす。しかしその瞬間、ハッとある違和感に気が付いた。


 どーなってんだよ……ミルクがねーじゃねーか!

 間違いなく“ミルクティー”を注文したはずだ。しかし、液だれして困る陶器のコーヒークリームを入れた小瓶もなければ、使い切りの丸く小さなコーヒーフレッシュも見当たらない。

 あの店員、目も悪けりゃ耳も悪いのかよ……。

 颯人は無意識に“チッ”と舌打ちをすると、目的のものをもらうために店員を呼ぼうとする。

 が、ふと我に返って、挙げようとしていた手を引っ込めた。


 もしここで声を上げて、中に店長がいた場合……。

 そう思い返し、首を振る。とんでもない。大人しくしている方が得策だ。

 諦めて、再びポットからカップに紅茶を注いだ。

 しかし、その瞬間、驚いて目を見張る。茶色の透明な液体が―――――白く濁っていた。


 は?

 一度ポットを置いて何度か瞬きを繰り返した後、再び注いでみる。

 やはり茶色の液体は、白濁していた。


 どーなってんだよ……

 戸惑いながら周囲を見渡す。しかし先ほどの店員はバックヤードに戻っているのか、厨房すら見当たらなかった。

 おい……腐ってんじゃねーだろーな……

 颯人はそう疑いつつ、その奇妙な液体の匂いを嗅いでみる。

 これは――――――紅茶だ!?

 紅茶の匂いがした。間違いない。しかも腐ってるどころが、温かい湯気が立ちのぼり、なんとなく……美味しそうだと思う。

 まじかよ……

 外気温で冷え切った身体には、この上なくそそられた。颯人は半信半疑ながら、口に含むことにした。

 しかしその瞬間、さらに驚きに目を見張った。


 ……旨い!

 熱すぎず、ぬる過ぎず、胸の中に染み入るようにそのぬくもりが広がる。そんな紅茶だった。

 しかもこれは間違いなく“ミルクティー”だ。そして、とんでもなく旨い。

 味が、か?……しかしそれは、いつもの癖のない茶葉の味に感じる。

 信じられない思いで、もう一口飲んでみる。


「……甘味?」

 かすかに舌の中で、甘みを感じた。しかし……それもどこかいつもの甘さとは異なる気がする。スッと溶けていくような、控えめで限りなく邪魔にならない甘さに思えたのだ。

 もともと甘いものが大嫌いな颯人は、大抵飲み物にも砂糖は加えない。しかし、不思議なことに、この甘さは嫌いではなかった……いや、むしろ、ホッとするのだ。

 そして最後に残る、紅茶と異なるかすかな苦味。しかしそれも悪くない味だった。

 最高に旨い。

 小さな感動を覚え、気持ちが高揚しているのだろうか、冷え切っていたはずの颯人の手足も熱くなってきた気がした。温かい紅茶のおかげで身体の済み済みまでが温まってきたのだろうか。

 これ(ミルクティー)は、先ほどの店員が入れたんだろうか?

 周囲を見渡すが、なぜか店員は誰一人として見当たらなかった。

 しかし、何という名前の店員だろうと思う。

 正直、顔も、あのメガネのせいで良くわからなかったのだ。あのおかしなメガネ……そうだ。後で会計の時、あのメガネを目印に探せばいい。そして、その時に名前を確認しよう。

 颯人はそう思うと、再びカップに手を伸ばしたのだった。






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