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15.雨の音

あの時の―――――悲しそうな瞳が……逸らされた視線が、心の中で鉛の重りのように重く冷たく頭の隅に圧し掛かる。

無視しようとしても、脳が覚えているかのように、身体は言う事を聞かない。


「待って!」

 とっさに呼び止めていた。

 辺りはどす黒い雲に覆われ、天気予報の通りに昼ごろから雨が降っていた。しとしとと降り始めた雨が夏の名残を吹き飛ばすように、涼しくあたりを包んでいた。

 次第に早くなりつつある日没が、あたりを薄暗く影を落とす。

 仕事を終えて社員用の昇降口のドアを出た時、目の前にアメが立っていた。上を向いて、降り続く雨をじっと見つめていた。

 その様子は静かに降り積もる雨に溶けこむ様に寂しく儚げで、今にも消えてしまいそうだ。

 しかしその姿はあまりに自然で、完成された一枚の写真を見るように目が離せなくなった。 

初めてアメに会ったのも雨の日だった。

雨とアメは名の通り縁がある。

 やがてアメは他の人の気配を感じたのか、空から視線を外し振り返った。その瞬間、うつろな瞳が颯人をとらえまるで夢の世界から現実に立ち返ったかのようにハッと目を見張った。

 視線を逸らせずにいた颯人も、その変化に我に返る。

 アメが一瞬、眼鏡越しに表情を曇らせたのがわかった。そしてすぐに彼女は、視線を逸らして降り続ける雨の中に身を投じようと足を踏み出した。

 


―――――「待って!」

 考えるよりも先に身体が動いていた。とっさにアメの腕を取り引き留めていた。

 予想外だと言うように、アメが目を丸くして振り返る。

 その瞳を身近に見つめ、ハッと自分の行動を意識した。


 俺は………何を引き留めてんだよ!?


「あっ……あの、朝倉さん?」

 自分の行動に混乱して言葉を発しない俺に、戸惑った様にアメがおずおずと呼びかけてきた。


「あの……なにか?」

 そう言いながら、掴まれた腕に視線を落とす。

 その仕草ににハッとアメの腕を掴んだままであったことを思い出しパッと手を離した。


「すまない」

「……いえ」


 アメはそう言いながらも、少し距離を取る様に後ろへ下がった。もう少し後退すれば軒先に居ながらも雨に濡れてしまうだろう。

 それほどまでに、颯人といることが気まずいのだと言うことがありありと行動に表れているようだった。

 胸の中が針を刺されたかのようにツキンと痛みを感じる。


 そんな女々しい感情は今まで意識したことが無いのに……バカみたいだと思いつつも、その感情は予想外の方向へ口を開かせた。


「あれは……君のことを言ったわけじゃない」

「え?」

「先日の封筒を拾ってもらった時……俺が言ったことだ」

「あ……」

 アメはやはり心当たりがあるのか、ハッとしてうつむいてしまった。その仕草に心の中に言いようのない焦りが走り、颯人はさらに言い訳を並べるかのように言葉を重ねた。


「……そう言う意味じゃなくて……あれは本心だった……でも少なくとも君に向けての言葉じゃないんだ」

「え……?」

「同じと言えないこともないが、君は……彼女とは全く違う。君の紅茶は何よりも美味しい……少しお人よしだと思うわなくもないが、そこは君らしいと思うし……つまりどう考えても彼女よりも可愛…………は? 俺は何言って……じゃねえ。つまり長所は多く……」

 今までこんな風に女性の長所について考え、褒めようとしたことなどあっただろうか? ――――――いや、ない。

それゆえに、この異例の状況にまったく手も足も出ない情けない自分に、心の中で嘲笑せずにいられない状態だ。

 俺は―――――本当に何をやってるんだ?


 その思いを察したのか、それともただの偶然か。しどろもどろに(支離滅裂か?)言葉を紡ぐ颯人の言葉に、アメが突如口をはさんだ。


「あの……」

 そしてさらに遠慮がちな声で「すみません……」とつぶやく。

 何に対して謝ってるのか、と考えた颯人の前で、やがてゆっくりとアメは顔を上げた。そして颯人と視線が合うと恥ずかしそうに目を伏せた。


「あの……わからないのですが……」

「……え?」

「朝倉さんがおっしゃってるのは、先日女の方とお二人で話をされていた時のことですよね?」

 その言葉に否定も肯定もせず、ただアメを見つめる。するとさらにアメは言葉を続けた。


「何かもめてらっしゃる雰囲気だとは思いました。親密そうでしたし、きっと朝倉さんの、かっ……彼女だろうなって」

―――――彼女!? ひどい勘違いをしてくれたもんだ。


「あまり見たら失礼だから早く行かなきゃって思ってたんです……でもちょうどその時、目の前に封筒が落ちてきて……無視したら失礼かと思って持っていきました。でも……あの……周りの工事の音がうるさくて……」


 工事の音?

 そうだ。このところ隣のビルで何らかの工事が行われていて、防音シートが張られていたが連日すごい騒音だったのだ。

 あの日も例外でなかった気がする。隣にいた佐々木の声が、その機械音と同等の音量で颯人の耳に届いて、同様に騒音のように不快だと思っていた気がするのだから。

 そこまで思ってハッとする。

 工事? 


…………まさか……!?


「お二人の会話は……まったく話は聞こえなかったんです……」

「――――っ!」

 たちまち怒涛の羞恥心が心の中に広がる。

 聞こえなかった? ――――嘘だろ!!?


「あの……だから、先ほどから朝倉さんが何を言ってるのかわからなくて……あの……なぜ、私のこと……そんな風に褒めてくださったのか……」

 

あぁ!?

 俺は……俺は……何やってんだ!!!

 後悔しか浮かばない。一人で勘違いして、動揺して……アメから見れば今の俺はとんでもなく滑稽に見えるに違いない。

 あまりの情けなさから言葉を無くし黙り込んでしまった颯人を訝しんでか、アメはちらりと視線を向けた。

 しかし何を思ったのか、バッと再び視線を足元に落とす。

 そして……突然口をきゅっと真一文字に結ぶと、思い立ったように顔を上げた。


「あっ、あのっ……あの方は、か、彼女なんですか!?」

「……は?」

 まったくに的外れな問いに、思わず間抜けな声が漏れる。

 彼女?


「違う。あの女は……そんなんじゃない」

 それに問題はそこではないのだ。つまりは、自分が醜態をさらしたことであって……それをどう言い繕っても、苦しい言い訳のようにしか思えないことであって……


「そう……ですか……」

 ん?

 明らかにホッとしたような表情を見せたアメに、一瞬気を逸らされる。

 なんだ……?


「あの後……仲直りされたのか……ずっと気になってたんです」

「仲直りどころか、あの女はただの研修の社員でもうここにはいない。餞別に……ちょっと無茶なことを言われてカッとなったが、それだけのことだ。彼女自身もまったく気にもしてないだろうな」

「そう……でしたか。喧嘩は長引くとお辛いだろうなぁと思っていたので……」

 まったく……アメの気にするところはそこなのか?

 今しがた颯人の晒した醜態など気にもしていないようなアメの様子に拍子抜けする。

 自分のことなのに、追求するどころか他人の心配。こんなところにも、お人よしは発揮されるらしい。

 そう思うと、自然に笑顔が浮かんできた。

 今更、取り繕う必要もない気がする。彼女にはただ素直に謝ればいいことなのだと不思議とそう思えた。


「すまない」

「え?」

「さっき俺の言ったこと、忘れてくれていいから。俺はちょっと口が悪いから、君まで傷つけてしまったんじゃないかって、そう勘違いしてた」

「……私を……ですか?」

 不思議そうに首を傾げたアメの様子が、おかしくて思わず笑ってしまう。


「違ったみたいだな。……杞憂でよかった」

「……あの……そうですね」

 アメはそう言うと、颯人の笑顔に答えるように優しく笑った。

 こんな薄暗い天気の真っただ中にいてもなお、彼女の周りだけ陽だまりのような空気が取り囲んでいるような気がした。

 冷たい雨に晒されてた颯人の足元さえも、あたたかく包まれているような。今まで感じたことのない感覚に、颯人はアメから目を離せずにじっとその瞳を見つめた。

 颯人の変化を感じてか、柔らかかった笑顔に一瞬緊張の糸が張られた。しかし次の瞬間「ひゃっ……」とアメが突如小さな叫び声をあげて、肩を震わせた。

 目の前に軒先からこぼれた大きな雨の滴が、ポツッ……とアメのほほを濡らしたのだ。

 アメは突然の衝撃と滴の冷たさに驚いたのか、きつく目を閉じて体を固くさせた。  

 小さな滴一つに怯えるように体を小さくするアメが可愛くて、思わず笑ってしまう。

 その笑い声に、アメが我に返ったように目を開けた。


「……雨だよ、そんな端っこにいるから……」

 そういって、アメの腕をつかんで雨のかからない場所まで引っ張っていく。


「すみません……」

 申し訳なさそうなそれでいて恥ずかしそうな様子で、アメは小さくお礼の言葉を口にした。

 そしてそのまま足元に視線を落としてしまった。

 霧のような繊細な雨音が、二人の耳にこだまする。まるでこの空間は二人だけのものであるかのような錯覚さえ覚えるのだ。

 雨の日に現れるアメ。きっとそんな彼女だから、アメもその音を楽しんでいるような気がした。

 ふと、アメの横顔に目を向ければ、先ほどの滴が頬を伝ってまた小さな滴を形成しようとしていた。

 かすかに反射したその光に吸い込まれるように、腕を伸ばす。

 白磁のような肌にその手が触れたとき、アメは驚いたように颯人を振り向いた。


「雨、で……濡れてる」

「あ……はい」

 分厚いレンズ越しに驚いたように瞳を見開いたアメの様子に、颯人の心臓が早鐘を打ち始めた。

 指にかかる滴と、あたたかいアメの頬の感触が、その指先からしびれるように伝わってくるような気がした。


「……あ……」

 しかし、真っ白な頭の中と相反して、なにか無意識に言いかけた颯人の言葉は突如大きな叫び声にかき消された。

 


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