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12.萌の涙

「いらっしゃい、はーくん」

「……ただいま」

 ドアの向こう側から、笑顔で声をかけてきたのは伯母の"光利"だ。50代を迎えた今でも飛び切りの美人な造形は衰えを見せず、快活な雰囲気がより若々しくその姿を映し出している。

 光利のような伯母をうらやましがる人も多い。確かに弟の息子を二つ返事で引き取りここまで育ててくれたのだから、優しい人物と言えよう。しかし下村家の自己中さをきっちり継いでいる伯母は颯人からすればフミと同様、要注意人物に他ならない。

 油断は禁物なのだ。


「光利さん、こんばんは!」

「あら? 裕之君も一緒だったの? いらっしゃい」

「光利さん……今日も一段と美しいです……」

「あら、ありがと」

「光利さんに会うと、いつも僕の中に住む数多の女性がたちまちに霞んでしまうんです」

「本当にお上手ね」

「事実ですよ。光利さんの魅力に太刀打ちできる人なんていないんです」

「ふふふ」

「そんな笑みを見せて……僕を混乱させてからあしらうつもりですね」

「あら、そんなつもりはないわよ。今日は久しぶりに私の手料理を食べに来てくれたんでしょ?」

「違います。長期海外出張に出ている社長に代わって、今夜こそ冷たくなった光利さんのベットを温めようときたんです」

「結構よ」

「つれない……でも僕は……」

「裕之!! いい加減、やめろ。毎回、鬱陶しい!」

「……あさくらぁ~光利さんとの久しぶりの再会、邪魔しないでよ」

「聞いてて虫唾が走る!」

「だって光利さんてば、毎回僕の誘いに乗ってくれないから」

「当たり前だろうが! 人妻なんだぞ。しかも俺の伯母……」

颯人が何気なくそう言った瞬間、目の前の人物から鋭い眼光が飛んできた。


「颯人……てめぇ―――――いまなんっつった!?」

「あ……おば……」

そしてその時ハッと状況を把握する。

やばい……伯母は“おばさん”と呼ばれるのを、大に嫌うのだ。


「まさか“おば”……なんたら、つーつもりじゃねーだろな!?」

「……家系図の……生物上の呼び名……」

「颯人!! この家の掟、忘れたのか!」

「……光利さん……です」

「そうだろうがよ!! 馬鹿野郎が……金輪際使うんじゃねーぞ、その言葉。わかったか!!」

「……へ~い」

「次使いやがったら、二度とこの家の敷居は跨がせねーからな」

 そう言うと、光利は踵を返す。そしてしばし沈黙を経た後、にこやかに振り返った。


「ところではーくん、例の学校の資料持ってきてくれた?」

明らかに先ほどとは違う声色。本当に同一人物かと思うぐらいだ。


「ああ……うん」

若干、その迫力の余韻に圧倒されたまま曖昧に返事を返すと、そんな颯人の様子には関係がないというように光利は眩くような笑顔を見せ「よかった! さっそく萌呼んでくるわね」と言って、軽やかに玄関横の階段を上っていった。


久しぶりに、強烈な伯母の豹変ぶりを見てしまった。

 光利は美人で気立てが良く、普段は穏やかな性格なのだが、時折鬼に変化する。颯人にはその琴線がいまいち理解できず、帰ってきては定期的に地雷を踏んでしまうのだ。

 後に引きずるタイプではないので、その点は楽なのだが、毎回そのギャップに驚かされてしまう。


「光利さん、かっこいい……」

 そしてもう一人、いまだその感覚が理解できない人物がいる。


「どこが。よくもあんなころころと……」

「やっぱ……光利さん、いいなぁ」

「お前、本気で言ってんのか?」

「当たり前でしょ。……あ~あ、なんでもっと早く生まれてこなかったんだろう」

「ああ?」

「そしたら光利さんが結婚する前に……」

「あほ言うな」

「だって、いつまでも僕は子ども扱いなんだよ?」

「そりゃ、光利さんからしたら子供だろーが」

「はぁ……いっそのこと、朝倉みたいに近い位置に入れたらよかったのにな」

「俺の位置は……苦労するぞ」

「……甥と伯母かぁ……禁断が上級レベルだね」

「気持ち悪いこと言うんじゃねえ」

「それ……おかずになりそう」

 このド変態が!


 いまだブツブツとつぶやく平田を無視して、さっさと玄関から家の中に上がる。久しぶりに踏む実家は家庭の匂いがして、くすぐったい。

ダイニングに鞄を置いてリビングで、テレビをつける。普段とは異なる時間のニュースに耳を傾けていると、暇を持て余してかおもむろに平田が口を開いた。


「そういえばさぁ……」

「あ?」

「さっき、僕のこと久しぶりに名前で呼んだよね」

「そうだったか?」

「うん。“平田”呼びが板についてきてたから、新鮮だったよ」


平田のことは学生時代“裕之”と名前呼びしていた。しかし偶然にも同じ会社に就職することとなり、社会人になったからには公私混同を避けるために、その時からは苗字で呼ぶことに決めたのだ。

始めは慣れなかったが、今となればそちらの方が定着して、今日のようなとっさのことが無ければ間違うこともない。


「そういや、お前も昔俺のこと名前で呼んでたよな?」

「ああ、まあね」

「高校……大学の一回生ぐらいまでか? 急に“朝倉”呼びし始めて……まあ、どうでもいい事だし、気にも留めなかったけどよ……今思えばなんか意味あんのか?」

「あった……よ?」

「なんだよ」

「う~ん……今更じゃない?」

「今更なら、言えんだろうが」

「でもなぁ……朝倉きっと怒ると思うよ?」

「はぁ?」

「実はね……」

「颯人お兄ちゃん!」

 平田が話し始めた時、バンッとリビングのドアが開き、その声とともに小さな生物が颯人の身体めがけて飛び込んできた。

 柔らかく繊細な髪は短くカットされており、小さい身長とガリガリの体型が颯人の腕の中によりこじんまりと映る。

 いとこの"萌"だった。


「ただいま」

 骨と皮だけかと思われるほど痩せているが、颯人を離すまいと必死でしがみついてくる身体はまだまだ子供のごとくぽかぽかと温かい。

 どんな姿だろうが、颯人にとっては可愛い(いとこ)に他ならない。


「ずっと……来てくれなかった……」

 蚊の鳴くような小さな声でそうつぶやく。自信が無いのか、萌の声は徐々に小さくなっていく気がする。


「仕事が忙しくて……ごめんな」

 そう言うと、萌は颯人に抱き着いたまま小さく首を振った。そして少し身体を離すと、颯人の顔を遠慮がちに見ながら、小さくつぶやいた。


「大丈夫?」

「何が?」

「……お仕事、しんどくない?」

「うん、忙しいけど楽しいよ」

「風邪……引いてない?」

「うん。俺は頑丈だからな」

「そう……」

「萌は、元気だったか?」

「……うん」

 そう言うと、萌は見るからに表情を曇らせた。下を向いて、今にも泣きだしそうだ。萌自身、自分の今の状況に葛藤を感じているのだろう。

なにより一番辛いのは萌だ。

 声をかけるより先にポンポンと頭を叩くと、萌は俯いたまま僅かに表情を緩めた。


「はーくん、どこ?」

 ダイニングから顔を出した光利が、そんな二人を割って話しかけてきた。


「カバンの中に入ってるよ」

「りょーかい」


 先ほどから光利が口にしている言葉。それが今日ここに来た理由―――――萌のフリースクールの資料を持ってきたのだ。経理部の部長の親戚が経営しているところらしく、先日たまたま知り合いの子がひきこもりになっている話をしたところ、資料をくれると言うのでもらってきた。

 部長の親戚ともなると、萌は社長の娘なので社内で変な噂がたてられては困るのだが、入学するかしないかは別として一つの選択肢としてあってもいいのではないかとおもっているのだ。

 萌が少しでも楽しく毎日を送れること。それが一番だ。

 しばらくして「ああ~これね」と言う光利の声が聞こえた。ダイニングの椅子を引く音がして、資料を読み始めたらしい。


「萌ちゃん、こんにちは」

 横から優しい声色が響いた。平田が萌に話しかけたらしい。その声に萌は今になって他人がいたことに気が付いたのか、びくりと身体を揺らした。


「萌ちゃん、覚えてる?」

 萌は颯人の胸の中で少し視線を平田に向け姿を確認すると「……ひら……たさん」とつぶやいた。

 忘れるはずもないだろう。

 平田はかつてこの家に何度も出入りしていたのだ。引っ込みじあんのため、直接接することはなかったとはいえ、一番接することの多かった“他人”に他ならない。


「よかった、覚えてくれてた」

 女子供には、無二に優しい平田は、萌にとっても同様の効果をもたらしたようだ。平田の笑顔は萌に警戒心を解かせたようだった。


「ひらた……さん、ご飯食べに来たの?」

「うん」

「今日は……ひらたさんの好きなカレーじゃないよ」

「僕の好きなもの覚えてくれてたんだ」

「うん……。ひらたさん、カレーとオムライス好き。颯人お兄ちゃんハンバーグ好き」

「そりゃ、萌の好きなものだろ」

「……颯人お兄ちゃんも好きでしょ?」

「子供のころはな……」

「そうなの? じゃあ今は?」

「そうだな……」

「萌ちゃんは、パンケーキだよね」

「……えへへ」

 的確な平田の返しに、萌はうれしそうに笑顔を見せた。久しぶりに笑うところを見た気がする。

 平田の情報記憶能力には恐れ入るが、そんな女たらし(・・・)もたまには役に立つ。


 少しずつ萌の緊張もとれ萌の最近の様子などを尋ねていると、ダイニングから突如、光利の大声が響いた。


「萌!」


 その怒声とも思える声に、三人は驚いて光利を振り返る。

 光利はこちらを向いておらず、じっと手元の資料を睨みつけていた。表情険しく、それを物語るように「こっちへいらっしゃい……」と、普段の(と言っても、豹変前の様子だが)穏やかな声色と異なる低い声で萌を呼びつけた。


 なんだ?

ただならぬ雰囲気に眉を寄せる。その異常な光利の様子に怖くなったのか、萌も身体を硬くして、動こうとしなかった。

光利はたびたび豹変することはあるが、必ずそれ相応の理由がある。光利は先ほどからフリースクールの資料に目を通していただけだし、颯人達の言動に何らその原因は思い至らない。ひょっとして別に何か激昂するような……そう考えた時ふと、萌は今日颯人がこの資料を持ってくることを知っていたのだろうかと思い当たった。萌があらかじめ知らされていたとするならば、きっと萌自身も何らかの反応を見せたに違いない。光利や颯人が良かれと思っていたことでも、実際学校に対して抵抗を感じている萌にとってはただ苦痛でしかなく余計なおせっかいなのだ。楽観的に見える光利とて、母親なりのプレッシャーや苦悩があるに違いないし、その思いが萌自身に通じないことはもどかしさを感じるだろう。もしこの件に対して事前に二人の間にはすれ違いが生じていたとすれば、このような険悪な雰囲気も納得できる。

光利は抵抗する萌を何とか説得しようと強い態度に出ているのだろう、と。


「萌、聞こえないの! こちらへいらっしゃい」

「……」

「光利さん、どうしちゃったの?」

 緊迫感の漂う二人の様子に見るに見かねてか、平田が口を挟んだ。


「裕之君……私は萌を呼んでいるだけよ」

「でも……なんだか、ただ事じゃなさそうだよ? ほら……萌ちゃんも怖がってるじゃん」

 そう言うと、平田は震える萌の肩にそっと触れた。


「光利さん、そのフリースクールの件で萌となんかあったんですか?」

 颯人の言葉に光利は、戸惑った様に首を振った。辛そうに目を伏せた光利の表情は硬く、眉間に深いしわが寄っていた。

 

「はーくん……違うのよ。萌のことを思うと……私……おかしいわよねこんな態度。これを読んでいると、いてもたってもいられなくなって……」

「それはどう……」

「……ママ……私そんなところ行かない……」

 問い返した声に重なるよう様に、横から萌が小さな声でつぶやいた。


「萌!!」

「だって……一緒だもん!! そんなところ行っても何にも変わんないよ! やりたいこともないし、学校なんか行かない。萌ずっとここにいる!」

「そんな風にきめつけては……ダメよ。少しのきっかけで世界は変わるものよ」

「変わりたくないもん!!」

「難しく考えることはないの。取りあえずこれを読んでみるだけでも……」

「いや!!」

 萌はそう言うと、心配そうな顔を見せる光利から顔を背けた。

 

「萌ちゃん、とりあえず見てみたら?」

 次第に緊迫する雰囲気を割る様に、横から平田が声をかけた。


「……でも……萌、興味ない」

「いいじゃん。もしかしたら楽しそうな雰囲気かもしれないし、ものは試しだよ」

「でも……」

「僕も一緒について行ってあげる」

 そう言うと平田は萌の手を引き、光利のもとへ連れて行く。颯人が立ち上がろうとすると、平田は『大丈夫』と言うように、片目をつぶった。

 女性のエスコートはお手の物と言うことだ。


「ママ……」

 平田に導かれ光利の隣についた萌に、光利はそっと資料を手渡す。萌は戸惑いながら手元の資料に目を落とした。


 そんな二人の様子を見ながら、ふと光利はいつも萌とこんな殺伐とした雰囲気なのだろうかと思う。

萌がひきこもりになった原因は小学校でいじめにあったことだと聞いている。萌は幼いころから仕事で海外と日本とを往復する両親についてまわっていたこともあって、幼いころから固定した友人はおらず、ほとんどを一人遊びに費やしていた。帰国子女として小学校に入ってからは、兄弟とともに日本で暮らすこととなったのだが、目はくりっと丸く可愛い容姿に時折飛び出す異国語は、異性に絶大な人気を及ぼした。もともと自己主張の激しい家族に揉まれ引っ込み思案な萌は、包容力を愛情とを勘違いしがちなガキどもにますます火をつけることとなった。それゆえに、友人からねたみを受けてクラスの女子から無視されることとなり、ますます人とのコミュニケーションに自信を無くした末、家に引きこもっている。

 伯母は初めは何とか学校に……と、考えていたようだが、最近は諦めて放置しているように思える。

 伯母曰く、萌は頭がいいので、いずれ何とかなると言うのだ。

 萌は大切な妹。もう少し自信をつけてあげれば、伸びると思うのでそこがもどかしい……。

 しかも以前に比べ萌の引きこもりに対して伯母が過剰に反応するようになったらしいことも踏まえると、ますます萌にとってつらい環境になってきたようだ。何しろここにはあの威圧的な恵利も住んでいるのだからなおさらだろう。

 もし萌が望むなら、自分のマンションに住まわせてやってもいいのではないか…… 


 バンッ

 思いに気を取られていた颯人は、その音にハッと顔を上げた。

 驚いて視線を向けると、萌が資料を叩きつけるようにテーブルへ置いたところだった。そしてそのままドアのほうへ足早に向かっていく。


「萌?」

 訝しんで声をかけると、颯人の声に萌はドアの前で立ち止った。


「何かあったのか?」

「お……お……お兄ちゃ……っ」

 振り向いた萌の大きな瞳には大粒の涙が溜まっていた。苦しそうに顔を歪ませ、相当動揺しているのか唇を震わせながら、日本語とも英語とも言葉にならない単語をつぶやいている。


「どうした……?」

 ただ事ならない様子にソファから立ち上がった時、萌はビクリと身体を震わし颯人から視線を外すと、そのまま部屋を出ていってしまった。


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