10.ミルクとアメと約束
どのぐらいそうしていただろう。
アメのミルクティーを飲み終わる頃には、すっかり胃の不快感も感じなくなり、いつの間にかかなりの時間が過ぎていた。
「―――――……そ~おぅ?」
かすかに厨房から人の声がして、ハッと顔を上げる。
店長だ。
……やばい
颯人は急いで書類をカバンに突っ込むと、伝票を掴んでレジに向かう。
有難いことに、向こうはこちらに全く気が付いていないようだ。素早く店員に呼びかけると、さっと背を向け財布を取り出した。
万が一、店長が対応しに来た場合は、レシート不要でさっさと立ち去ろう。
そう思い、きっちりと伝票通りに代金をトレーに置いた。
「お待たせしました」
しばらくして、柔らかい女の声が背後から聞こえた。
店長ではなく、アメが会計に来たようだ。
先ほどのやり取りが、尾を引いているのか、アメは一度もこちらに視線を向けなかった。
相当怖がらせてしまったようだ。
普段から無愛想だと自覚はしているものの、他人からどう映っているのかは気にしたことが無い。普段、図太い女どもと、無神経な親友に関わっていると、より感覚がマヒしているような気がする。
不本意ながら“黒の王子”などど、異名もつけられたぐらいだから、女から見れば怖い存在に値するのかもしれない。
たかが店員。フォローするのもおかしな話だ。
そう思ったが、気が付けばお金を受け取ろうと手を伸ばした彼女に、話しかけていた。
なぜこんなことをしたのか。しかし止められないほどに―――――アメという人物に興味が湧いていた。
「あのミルクティー…」
「えっ?!」
明らかにピリピリと神経を張りめぐらせていたのか、颯人の言葉に、過剰までにアメは身体をビクリと反応させ、顔を上げた。
そして次の瞬間、何を思ったのか、眼鏡越しに見える茶色の瞳が大きく開かれた。
「いや……牛乳で作ってくれましたね? どうして……ですか? きっぱり断られたはずです」
彼女をこれ以上怖がらせないよう、慎重に言葉を選ぶ。
しかしアメはまだ警戒しているのか、質問に答えようとせず、じっとこちらを見つめていた。
「…………」
しばらく待つが、アメはフリーズしてしまったかのように、反応を見せない。
無視しよう……ってんじゃなさそうだけどな……
アメのことはよく知らないが、少なくとも颯人が接してきたアメは、人の質問に無視するタイプには見えなかった。
今日のことにしても……むしろ、あまりすれていない性格に見える。
おい、意識あんのか……?
心配になって覗き込もうとすると、アメはその動きにハッと身体をすくませた。
どうやら、防御機能だけは健在らしい。
苦笑したい気持ちを抑えて、もう少し様子をうかがっていると、アメは必死で答えようとしているのか、目を泳がせ何度か瞬きを繰り返した後、ようやく口を開いた。
「ミルク…………ああ! ミルクティーのことですね!!」
そう言ってから、ようやく颯人に対する恐れが少し治まったのか、先ほどとは打って変わって目を輝かせ話し始めた。
「私もあの時のお客様の意見には賛成だったんです。……私もミルクで作ったミルクティーが大好きで、まかないの時もミルクで作ってました。何度か店長を説得してみましたが、だめで……。確か…………私が対応させてもらってるとき、朝倉さん、よくミルクティーを注文されてましたよね? ひょっとして……今日もそのつもりだったんじゃないかと思ったんです」
―――――え?
その内容よりも、アメの口から自分の名前が出たことに驚いた。
“朝倉さん、よくミルクティーを……”
俺のこと……知ってたのか?
入社してもう間もなく3年。その間、何度も来たことがあるのだから認識されていてもおかしくはない。
しかし―――――彼女の口から、そのことを告げられたことに、胸の奥がざわざわと落ち着かなくなった。
なんだ、この感覚は?
「?」
アメは急に反応を見せなくなった颯人に、不思議そうに首を傾げた。
慌てて、返答する。
「それで……わざわざ?」
「はい。やはりミルクティーを愛する”同志”として、おいしく飲んでいただきたかったんです」
「同志……?」
「でも……勝手なことをして、申し訳ありませんでした」
そういって、アメは深く頭を下げた。そして気になっていたのか、再び遠慮がちに「胃の痛みは大丈夫ですか?」と、尋ねてくる。
この件に関しては、彼女のミルクティーのおかげで、マシになったも同然なのだ。そう思って「少し温かいものを飲んで落ち着いたみたいだ」と、返す。
アメはその言葉に安心したように、ホッと息を吐いた。
「よかったです」
アメはそう言い、颯人に笑顔を向けた。
その瞬間、ハッと息を飲む。
自然で裏のない、優しい笑顔だった。おかしなメガネなのに、それすら気にならないような、その陽だまりのような笑顔に、心臓がどくどくと音を立てて脈を打ち始めた。
息苦しい。
こんな感覚は初めてだった。落ち着かない鼓動に頭が混乱して、彼女を取り巻く柔らかい雰囲気に飲まれてしまう。
気が付けば、勝手に口が動いていた。
「また…」
その言葉にアメが顔を上げた。二人の視線が合う。
颯人は再び息苦しくなって、視線を逸らした。
なんだ? なんだってんだ?
ますます思考が混乱する。しかもその思考を飛び越えて、勝手に口が―――――。
「……飲むことはできないかな? ……君のミルクティー」
どの口がそう言ったのか。そう言った瞬間、アメがぽかんと口を開け、呆気に取られた表情を浮かべた。
「私のミルクティー……ですか?」
そして、その言葉を聞いた瞬間、ハッと我に返る。
俺……今―――――なんっつった?
自分が言葉を再び認識したとたん、後悔と羞恥心が怒涛のように押し寄せてきた。
自分が理解不能だ。思わず悪態をつく。
そして当然ながら、その言葉を受けたアメは、しばらくして、面白そうに笑い声をあげた。
「みっ……ミルクティーが…お好きなんですね」
「……もう忘れてくれ」
「いえ……うれしいです」
はあ? 意味わかんねーよ。
あまりにばつが悪く、軽くアメを睨みつけた。
しかしビビるはずもない。颯人の睨みに笑顔を向けてきた。
恥ずかしいやら、情けないやらで、思わず両手で顔を覆ってしまう。社内では“黒の王子”と異名を持つくせに、聞いてあきれる。
「もし気が向いたら8時過ぎに来てください。いつも店長がその時間に休憩に入られるので、その時なら大丈夫です」
シロフォンのような優しいアメの声が、再び耳に届いた。そしてその内容に顔を上げる。アメは穏やかな笑顔を携えて、颯人を見ていた。
―――――これは、約束、か?
颯人が言い出したことに、アメは素直に応えてくれたと言うことだろうか。少々情けないやり方ではあったものの、ここに来るたびに、ミルクティーの味気なさに落胆を隠せなかったため、心を惹かれる提案だった。
颯人は気まずい気持ちを誤魔化すために、一度咳払いをすると、「……わかった」と言って、その場を去ることにした。
これ以上、長居は不要だ。また、がらにもないことをしてしまいかねない。
――――――あの、傘のように。
「ありがとうございました」
後ろから追いかけるように、アメの声が聞こえた。
“ありがとう”
店員が客にかける事務的な言葉だったが、その言葉にふと心が動かされる。
面識のない行き倒れに傘を貸し、ただの胃痛の客にミルクティーをふるまう。そして何気ない彼女の言動が、何度も俺を救ってくれた。なにかを求めているわけでもなく、見返りを期待しているわけでもない。
ありのままの自然体の彼女。疲れた時に口にした飴のように、ホッとして癒される。
“ありがとう”
それは俺のセリフだ。
「おいしかった……ありがとう」
振り返って、アメにそう告げた。ありがとうなんて、もう何年も口にしていないけれど、彼女になら素直に言ってもいい気がした。
しばらく視線が交差した。この距離ではアメのレンズは光を反射してどんな表情をしているのかわからない。
しかし別にどう反応しようとも、構わなかった。
"朝倉さん" 呼んだアメ。いつの間にか彼女の中に自分が存在していたのだ。そして、わずかだが繋がったつながりが不思議なほど心地よかった。
"アメ"
その名前は颯人の嫌いな“雨”を差し、地味なメガネでお人よし。颯人とは正反対の彼女の行動は、まったく理解できない。そして先ほどから感じているこの自分の落ち着かない気持ちの意味も分からない。けれど、たまらなく興味が惹かれるのだ。
知らずに颯人は、アメに笑顔を向けていた。
何も言わないアメから視線を感じながら、颯人はそのままスクラリを後にした。