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9.思いがけない再会

 

 季節は再び冬が来た。

 入社して三年目の冬。

 あの日から、もう1年も経ったのだ。

ミルクの一周忌。

悲しい出来事が優しく塗り替えられたような気がした……

 俺はその日のことを―――――忘れない。







 あの夏の日以来、何度かスクラリに足を向けていたが、直接アメと接触する機会はなかった。そしてミルクティーを注文するたび、なぜかあの日偶然飲んだ“まかない”が思い出されて、いつもの味が味気なく感じてしまうのだ。その違いにイライラしてしまう。そしてついに彼女が直接注文を聞きに来た時、思わず『ミルクティーを”オレ”にして作ってもらいないか?』と聞いてしまったのだ。

 その言葉にアメは面食らっていたようだった。当然だろう、一介の客が何を言うのかと思われても仕方がないのだ。その時点で断ると思っていたのだが、意外にもアメは、一応店長まで話を通してくれた。しかし予想通り、できないとことだった。当たり前だろうと思う。むしろどうしてそんなことをしてしまったのかと、自分の行動が情けなくなった。イライラしてしまうなら、行かなければいいのだ。そうすればいずれこんな思いも無くなる。そう思って、その日以来スクラリにはいかないと決めた。


 それなのに……


 思わず舌打ちをしてしまう。どうしてまた来てしまったんだろう。

 来ないつもりだったのに。どうかしていたのだ――――――




 とにかくここ最近は、仕事が多忙を極めていた。追い立てられるように、ノルマをこなし、顧客との交渉や接待を済ませていると、あっという間に時が過ぎて行った。

 その日は夕方から本社に他の支店から研修で来ていた社員の送別会があると言う事だったが、気が付けば開始時間をとっくに過ぎていた。

 メールを見れば、同僚から「来い」と何度もメールが来ていた。遅れて行けないこともない……しかし面倒だと思うのだ。


特にあの女社員と顔を合わせたくない。

その女、緊張していたのか初めは全く他の社員と言葉を話さず、暗そうな印象だった。しかも身なりもいまいちセンスが無くメガネをかけて常にうつむいていたので、余計に陰気な感じを受けていた。3ヶ月という研修を終えた今では大分垢がぬけ、明るい印象となったようだが、颯人は特に直接接する機会もなかったので、人となりはよく知らない。しかし、このところどうもその女から妙な視線を感じていた。色目を使われていると言うよりも、何か観察されているような……何気なく視線が合うと、笑顔を向けてくるのだが、その笑顔が反対にストーカーじみていて気持ちが悪かった。

 今日顔を出せば、またあの視線を感じなくてはいけない気がするし、最後ともなると、なんらかコンタクトを取ってくると思うと、嫌悪感を隠しきれない。よって、仕事を口実に断れるなら、ラッキーだと思うのだ。


 正直言って……このところ眠りが浅く、疲れている。

 忙しいと言うよりも、ミルクがいなくなった日―――――命日が、日に日に近づいてきていたからだと思う。

 もちろん、もうミルクのことは受け入れている。思い出すことも少なくなった。しかしその日が近づくにつれて、言いようのないむなしさが胸に広がるのだ。

 そして、今日がその日(命日)

 仕事であっという間に一日が終わって、ほっとしている。食事もろくにとれないぐらい忙しくて、感傷に浸る暇もなかったのだから。

 窓越しに暗くなった空を見上げた。夕方からどす黒い雲が掛かってきていたようだが、どうやら雨が降っているようだった。傘は持ち歩いている。特に今日という日には、必ず降るだろうと思っていたのだ。

次第にどっと疲れを感じて、ため息をついた。

 帰ろう……

 そう思ってカバンを手にした。


―――――手にした。……間違いなく、帰るつもりだった……それなのに。


気が付けば目の前にメニューが置かれていた。





「ご注文は?」


 耳をくすぐるような柔らかい声にハッとする。

 アメが目の前に立ち、トレー越しにこちらを見つめていた。

 とたんに、今の状況を把握した。無意識のうちにスクラリに来てしまっていたらしい。再び自分の行動の不可解さに苛立ちが募ってきた。

 メニューも見ずに“ミルクティー”と注文しようとして、ハッと前回のやり取りが脳裏によみがえってきた。


 バカか。今頼めば恥の上塗りだ……


 自分があまりに滑稽に見えて、思わず舌打ちをしてしまう。その音に驚いたのか、アメがビクッと身体を震わせた。

 しまった……

怖がらせるつもりではなかった。なぜかそんなことが気にかかった。普段なら他人からどう思われようとも構わないのに。

彼女から受けた親切に“借り”を感じているのだろうか?

再び自己嫌悪に陥らない内に、「紅茶。ストレートで」と簡潔に告げて、メニューを渡した。

アメはいつもよりぎこちない動作でそれを受け取ると、厨房へ戻っていった。

はぁ……

言いようのない緊張感に、思わずため息が漏れる。店内を見渡せば、自分以外の客はおらず、不快の根源の店長も見当たらなかった。それだけでも救いだと思う。

暇を持て余すように、カバンから仕事の書類を取り出そうとして、ふとテーブルの上に小さく立てかけられたメニュー表が目に入った。

“ミートスパゲティーがおすすめ”

そうだ……今日は昼食も食べ損ねて朝から何も口にしていなかった。通常ならかなり腹が減っているところだったが、今日は全く食欲が湧いてこない。むしろ、食べ物のことを考えると、腹がズッシリと重く鈍痛を感じた。

スタミナはあると自覚しているし、ちょっとやそっとじゃ体調を崩すこともない。しかし、さすがにこのところの忙しさに、身体が参ってしまっていたようだ。明日も休日出勤をするつもりだったが、たまには休んだ方がよさそうだ。そう決めて、再び目の前の資料に神経を集中させようと視線を手元に落とす。

どのぐらいそうしていただろう。ふと、耳に雨の音が響いてきた。黒く塗りつぶされたような窓の外は激しく雨が降リ注ぎ、ガラスにカツカツと雨粒がぶつかって形を変えて消えていった。店内には一昔前のBGMが流れていたのに、その日の店内は不思議なほど、静かな空間が広がっていた。

その時、背後に人の気配を感じた。


「お待たせしました」

 アメが注文の品を持ってきたようだった。とっさに顔を上げようとして、再びみぞおちに痛みが走った。この様子では胃が受け付けるかは不明だが、いつまでもここにいても仕方がない。早く飲んで帰ろうと改めて決心する。


 アメがテーブルの横に立ち、その声とともに、静かに颯人の目の前にポットのコースターを置き始めた。

 相変わらず、丁寧な給仕だ。細く折れそうな腕なのに、重力を感じないような動作でポットをソーサーに置き、音を立てることなく、カップとソーサーを颯人の胸の前に置く。

 何気ない仕草なのに、その一つ一つが大切に扱われ、その柔らかい雰囲気に、気持ちが穏やかになる気がした。なによりも、きれいな手だと思う。


 すべての品を客の前に置き終わると、最後に伝票を置いて、店員は立ち去る。

 しかし―――――不思議なことに、アメは一度置いた紅茶のポットに手を伸ばした。

 そしてカップの前で、そのポットを傾けると、静かに中身の液体を、空のカップに注ぎ始めた。

 その動作に疑問を持った颯人の目の前で、さらに意外な出来事が起こった。


「え?」

 そのポットから注がれた液体は、白く混濁していた。

 そして温かさを証明するかのように、柔らかく半透明な湯気が注ぎ口から湧き出る。

 

 は?

 思わず、その予想もしない事態に間抜けな声が漏れた。

 しかしそれと同時に、ハッと状況を把握した。


 これはミルクティー(・・・・・)だ!

 その事実に気が付いた時、先日のアメとの出来事が脳裏に駆け巡った。あの(・・)ミルクティーを渇望してしまう自分の不可解な行動、情けなさ、恥ずかしさが途端に蘇ってきて、その感情は怒りへと変化した。このところ感じていた疲れや、言いようのない寂しさも、それを助長するようにイライラへと繋がる。

感情コントロールが不能になったロボットにでもなったように、頭に血が上った。


 この女……俺を馬鹿にしてやがる。思い出させるかのように、いまさら蒸し返しやがって!

 冷静に考えれば、八つ当たりに近い感情だったに違いない。しかしその時は、何事もなかったのようにあっさりとその要求通りの品を出す、弄んでいるかのようなアメの振る舞いに、ただただ怒りが湧いてきた。

 ふざけんなよ……俺はお前のミルクティーなんざ、今更飲みたいとも思ってねーよ!!

 その時、思わず罵倒してしまいそうな怒りを抱えた颯人の頭上から、アメの少し遠慮がちな声が聞こえてきた。


「勝手なことをして申し訳ありません。ただ……お客様がその……お疲れのように見えて」


 はぁ?

 いったい、それがなんだってんだ! ふざけんなよ……

 そう思い、顔を上げる。彼女と視線が交差した。

 アメはその瞬間、ようやく颯人の怒りを感じ取ったのか、身体を硬直させたちまちに顔色が青ざめていった。

 

「俺は、こんなもの頼んでないはずだが?」

 静かにそう言い放つ。この一言で、十分こちらの怒りは伝わっているだろう。

 人を馬鹿にしたような振る舞いを、隠そうとどんな言い訳を並べるのか出方を鑑賞させてもらおうと、鋭い視線を投げかけながら、じっとアメの様子を観察する。

場合によっては自分で辞めると言うまで、再起不能にしてやる。どうあがこうと、注文したものと違う品を堂々と出したからにはこちらにはクレームをつける理由があるのだから。

どす黒い感情が自分自身を支配し、余計な思いを無視するかのように、その怒りだけをアメ一点に集中した。そんな緊迫した雰囲気のなか、アメが口を開いた。小さく消え入るような声で。


「……ス…ストレートでは……よ…余計に悪く……す…」 

「……何?」

「……い…いが…」


“い”……“いが”?

 アメはかなり動揺しているのか、途切れ途切れに話す内容が支離滅裂で意味不明だ。よく見ると相当怖いのか、手足をがたがたと震わせていた。

 しかも顔色も先ほどよりも青ざめ、その唇も白く血色を失っていた。今にでも倒れそうに浅く息をはきだすアメの様子に、心配になってその顔色を窺うように、一瞬眉を顰めた。

 そしてそれが合図のように、次第に怒りが治まってくる。途端に、今の状況を冷静に考えれるようになってきた。

 そうだ……

 もしかしてまた(・・)慌てて“まかない”を、間違えて持ってきてしまったのかもしれない。

 ここは冷静になって、アメが何を言おうとしているのか、聞いてやる必要がありそうだと思い返した。


「い?」

 幾分声を和らげ、相手の言葉を促すように聞き返してみる。

 アメはその言葉に、怯えを含んだ視線を向けた。眼鏡越しにも、今にも泣きだしそうに瞳を揺らしているのが分かる。もしかするとその目尻には、うっすらと涙が溜まっているのかもしれない。

 泣かれると面倒だ。

 そう思った颯人に反して、アメは泣かなかった。深く息を吸い込んで、深呼吸を何度か繰り返し、気持ちを落ち着かせて、青ざめた顔でゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。


「私……胃が痛いのではないかと思ったんです……ですから、ミルクを入れれば少し痛みが和らぐんじゃないかと思って、ミルクティーにさせてもらいました。……勝手なことをして、すみませんでした……本当にすみません…」

 そう必死で言い終えると、何度も頭を下げた。


“胃が痛い”?

 颯人はもう一度、その言葉を頭の中で反芻させる。

痛み……?

そうだ、先ほどから胃が重だるく、軽い痛みも感じていたのだ。 

要するに、俺のためにミルクティーにして持ってきたと言うことだろうか?


わざわざ?

店長から“NO”と、言われたに関わらず?


「今から入れなおしますので。本当にすみませ…」

 何も言わない颯人に、しびれを切らしたのか、アメは何度も頭を下げながら、重ねて謝罪の言葉を口にした。その声にハッと我に返る。

そしてその言葉通り、カップを下げようとしたアメの手を、とっさに制止した。

 頭の中が混乱している。


 どういう事だ?


 その言葉が頭の中を飛び交っていたが、今、このミルクティーを逃してはいけない気がしてならない。

 颯人は「もういい」というと、手を泳がせ困惑の表情を浮かべるアメを視界の端で感じながら、カップに口をつけた。

 アメの言葉を聞いた瞬間から、たまらなく飲んでみたくなったのだ。

 そしてそのミルクティーを口につけた瞬間、ハッとする。

 そうだ、このミルクティーだ!

 間違いなく、このまろやかで優しい味わい。包み込まれるような温かさと、舌に蕩けるような美味しさが途端に口の中に広がっていく……あの時飲んだミルクティー(まかない)だ。

 思いがけない再会に小さな感動を覚えて、思わず顔を上げる。


「ひっ…」

その視線に驚いたのか、アメはその怯えた声とともに、大きく身体を震わせると、肩をすくめて、固く目を閉じた。再び怒られると、思ったらしい。

 先ほどの振る舞いを考えれば、彼女の反応も当然だと思う。

 しばらくその様子を見つめるものの、アメはその態勢のまま、微動だにしなかった。


 参ったな……


 しかしながら、過剰に反応してしまったことを、何と伝えたらいいのか全く見当もつかなかった。

 出来ることは、アメをこれ以上怖がらせないよう、視線を外すことだろう。

 そう思って、平常心を装い紅茶を口にすることにした。

 


「すみませーん」

しばらくすると、後方から店員を呼ぶ声が聞こえた。どうやら新しいお客さんが来たようだ。


「は……はい。すぐ参ります」

 アメは、戸惑いを隠せない口調で返事を返している。

 そして、再び颯人を振り返ると、意を決したように小さな声で話を始めた。


「あの……やっぱり交換を…」

「必要ない」


 颯人は視線を向けずに、きっぱりそうアメに投げかけた。

 アメはその言葉に「え……そんな……」と、ブツブツとつぶやいていたものの、それ以上何も言わない颯人に諦めを感じたのか、再び他の客に呼びかけられて、その場を去って行った。

 その様子に、知らずに緊張していたのか、ホッとため息が漏れる。


 しかし、いちいち美味(うま)い……


 ミルクティーだからだろうか。その温かさに、不思議と胃の痛みがやわらいでくるのを感じた。

“ミルクを入れれば少し痛みが和らぐんじゃないかと思って、ミルクティーにさせてもらいました”

そう言えば―――――

“ミルクって……まろやかで優しい味で……” 以前アメが、ミルク味の塩アメを颯人に渡した時、そうも言っていた。

その言葉通り、アメは相当ミルク好きらしい。


「ミルク……か」

 不思議な縁がある。

 あの夏の日といい、今日の命日といい……。まるで悲しみという痛みにじっと耐える颯人を、少しでも癒そうと、愛犬のミルクがアメを送り込んできたように感じるのだ。

 よりにもよって、かなりのお人よしの地味メガネを……?


 ふっ

 自然に笑い漏れる。こんな穏やかな気持ちは、久しぶりかもしれない。


 颯人はその胸に広がる温かい気持ちを感じながら、カップに再び口をつけた。





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