序章~愛しい君
「私の名前の由来ですか?」
のどかな日曜の昼下がり。お気に入りのミルクティーを飲みながら、以前から不思議に思っていたことを口にする。
長い月日を経てようやく恋人となった杏実は、その茶色の瞳をいっそう丸くして、不思議そうにそう聞き返してきた。
そんな何気ない表情さえ愛しい。思わず引き寄せてしまいそうになる衝動を抑え、静かにうなずくと、杏実はそんな俺の考えには全く気が付かずに、首を傾げながらも答え始めた。
「千歳飴です。私の苗字が千歳なので、それから千歳飴……で、“アメ”です」
「……そうか。千歳飴……本当に飴からだったんだな」
「え?」
「……いや、なんでもない」
そういって閉口してしまった俺を、杏実は怪訝そうに覗き込んだ。
「なんだ?」
「というか……私の名前、知ってたんですね」
「?」
「だって……いつもスクラリに来ても“あの”とか“きみ”とか、名前を呼ばれたことが無かったので」
思い当たる節はある。
当たり前だ。意図的に呼んでいなかったのだから。
その事実を誤魔化すように、当たり障りない言葉を選ぶ。
「……そうだったか?」
「そうですよ! 私、てっきり名前を憶えられて無いんだって思ってました」
「んなわけねーだろ」
「だって……」
そう言って、杏実は不満を表すかのように、口を前に突き出した。しかし何か言いかけると、そのまま下を向いてしまう。
杏実の悪い癖だ。すぐに遠慮して気持ちを隠そうとする。特殊な環境で育ったせいかもしれないが、願わくば俺の前ではもっと、我が儘でいてほしいと思う。
「カフェの店員を、名前で呼ぶ奴の方が珍しいだろ」
その寂しそうな様子に思わず、そんな言葉が口をつく。もっと気の利いたことを言えたらいいと思うが―――――本当のことは言いたくない。
「そんなことありませんよ。平田さんは、みんな名前ですし、私も“キャンディーちゃん”とか、なんとか……」
「あいつは特殊だろ? 知らん女の名前は無い」
「……まあそうですけど」
納得いかないのか、歯切れ悪く言葉を切る杏実に、仕方なくため息をついた。
女ってのは、どうしてこんなくだらないことにこだわるんだ?
面倒だと思う反面、どんなに面倒でも杏実のことならそれは苦ではないとも思える。
いくらでもつきあってやる、と。
お前を笑顔にするまでは……。
「そもそも、俺はお前の紅茶を飲みに行ってたんだから、知らないわけないだろ」
「……あ……そうか」
「それに……”好きな女”の名前を憶えてない男がいれば、見てみたいもんだな」
「え?」
またこの反応だ。
本当にこいつは鈍い。俺のみならず、人から受ける愛情に鈍感すぎるのだ。
想いを告げる前に、俺があからさまに態度で表そうと、強引にキスをしようとも、全くこちらの気持ちに気づいてなかったぐらいなのだから。
「あのなぁ……俺はお前がカフェの店員だったころから、好きだったって言っただろ?」
そう言うと、杏実は見るからに顔が赤くなっていく。戸惑うように口をもごもごと動かすと、小さく「そうでした……」とつぶやいた。
呆れて小さくため息をつくと、杏実は不安そうなそれでいて、恥ずかしそうな瞳で俺を見上げた。
赤く火照った顔に、微かにうるんだ瞳で上目遣いに見つめられ、そのあまりの可愛らしさに、ぐっと胸を詰まらせる。
やばい……理性が飛びそうだ。
気持ちを抑えることに集中して、何も言えなくなった俺に気づくことなく、杏実は恥ずかしそうに口を開いた。
「まだ……信じられなくて……そんなに前から見てくれていたなんて……。私、平凡で特徴もないし、あのころは化粧もしたこともなくて本当に地味だったから……」
「そ、う、だったか……」
集中できない。その声もどうして、こうも……
「あの……」
そう言うと、杏実はさらに顔を赤くして下を向いた。「え……と、その……」と、意味不明な言葉をつぶやきながら、懸命に何か言おうと格闘し始めている。ありがたいことに、その奇妙な様子に、少し気持ちが落ち着いてきた。
そしてしばらくもごもごと、なにか言ってはやめてを繰り返した後、意を決したように顔を上げた。
真っ赤な顔の中に、幾分か強い瞳がきらめいていた。
「いっ……いっ、つから、なん……んですか?!」
「は?」
あまりに勢いづいたためか、言葉が詰まりまくっている。さっぱりわからない。
杏実もその失態に気が付き、恥ずかしそうにうつむいた。
「もっ、もう!……なんで、私って……肝心な時に……」
そう言いながら涙ぐむ杏実の様子に、可笑しくなって思わず笑う。
まったく飽きない。
そんな風に笑い出した俺の様子に、杏実は恨めしそうな視線を向けた。
しかし反論は諦めたのか、がっくりと肩を落とす。さらに可笑しさがこみ上げた。可哀想だが、見ていて面白いのだから仕方ない。必死で笑いをかみ殺しながら質問を返す。
「くっく……なんだって?」
「え?」
「何が聞きたい?」
「……」
「あ~み?」
再び優しく呼びかけると杏実は、少し遠慮がちに話し始めた。
「いつからなのか、気になって……」
「何が?」
「わっ……私を好きになったのが」
「……ああ」
なるほど。
いつからなのか―――――それは俺自身もわからない。
いつの間にか……しかも、好きだったのだと自覚したのは、最近のことなのだ。
しかしそんな答えで納得するだろうか。そう思い、杏実に視線を向けると、杏実は不安そうに瞳を揺らした。
「……それは」
わからない。と言いそうになって、口をつぐんだ。正直に言えば傷つくかもしれない。
誤魔化すように「お前は?」と質問を返すと、一瞬その目を丸くして、恥ずかしそうにはにかんだ笑顔を見せた。
「私は……ミルクティーを飲みたいって言ってくれた時です」
「ミルクティー?」
「はい。覚えてませんか? 初めて話しかけてくれて……店長に隠れてこっそりミルクティーを作って持って行ったこと」
覚えている。……しかしあれは、初めてではないのだが……。
「あの時、最後に“美味しかった”って言ってくれたんです。笑顔を見たのも初めてで……それが忘れられなくて。その時から、です」
そう言って、俺を見て優しく笑う。胸の中に言いようのない気持ちがこみ上げてきた。
愛しい。
そんな気持ちをもうあの時に感じていたのだから、あの時俺はもうすでに、杏実を想っていたということになる。
「……なら、俺はその前からだな」
そう言うと、その言葉を飲み込むよりも早く、杏実を引き寄せ顔を近づけた。甘くやわらかな杏実の香りが鼻孔に広がり、その香りに包まれながら、温かくふっくらとした唇にキスを落とす。
初めは軽くそして次第に深く口づけていくと、杏実の身体から力が抜けていくのが分かる。
幾度となくキスを繰り返しても、飽きることはない。それでは足りないと頭の中に警告が鳴り響くのだ。
でも今はまだ真っ昼間だ……これ以上はやばい。止められなくなる。
必死で自制を総動員させて身体を起こすと、耳に窓に打ち付ける微かな水音が響いた。ふとそちらに視線を移す。
雨が降ってきたようだ。太陽の光も差し込んでいるので、通り雨だろうか。
急に窓の方を見つめた俺に、不思議そうな杏実の声が聞こえた。
「どうか……したんですか?」
いつの間にかソファーに押し倒すような形で覆いかぶさっていた俺は、その態勢のまま杏実に視線を戻す。
しどけなくクッションに横たわり、出会ったころよりも幾分か伸びた髪が肩にふわりとかかっている。そしてキスの余韻に赤くなった唇を開いて問いかけるさまは、なんとも色香を感じさせた。
「雨」
「え?」
「雨が降ってきたな……と思ってな」
そう言って再びキスを再開しようとすると、されるがままになっていた杏実は突如「雨!」と叫び、俺を押しのけるようにして勢いよく起き上がった。
そして窓に目を向けた。
「降ってる~~~!!」
「言ったろ?」
突然の杏実の豹変ぶりに驚きつつ返事をすると、杏実が悲しそうな視線を向けた。
「晴れていたので、外に洗濯物干してるんです!」
「……ああ」
なるほど。洗濯物か。
「なんで……急に。こんなことなら……もうっ! 取り込んできますね」
杏実は、そう独り言のようにブツブツをつぶやくと、俺に目もくれずにソファーから立ち上がった。
杏実は家政婦の境さんがいない日は、この家の家事を担当している。この家は俺の祖母の家であり、杏実は居候の身なのだ。とはいえ、家には、俺といとこの萌と不在がちな夏美がいるだけだ。家事なんて適当にすればいいものを、杏実はいつもきっちりとやりこなす。かなり責任感が強い。サボるなんてもってのほかだと言わんばかり。それゆえに、雨ごときにかなりの慌てようだ。
ドアの方へ歩き出そうとした杏実を反射的に引き寄せ、再び腕の中に連れ戻した。
突然の俺の行動に驚いて目を丸くする杏実を見て、少々可哀想だと思いながらも、その戸惑った表情が俺の加虐心を煽る。
杏実の困った表情は、また別の意味で可愛いのだ。
「なっ……」
抗議しようとした唇に、優しくキスを落とした。
「あっ……ん!」
「な……ぅん!」
「ちょ……んん!!」
言いかけるたびについばむようなキスを繰り返すと、杏実は閉口して、顔を真っ赤に染め、恨めしそうな瞳を向けてきた。
目尻を微かに潤ませて、口を一文字に結ぶ姿を見ていると、不思議な達成感を感じる。
その満足感に、思わず笑みを浮かべ再び優しいキスを落とすと、杏実が微かに「ずるい……」とつぶやきを漏らした。
「なにが?」
「……わかってやってますね?」
その問いには答えずに顔を寄せると、杏実は諦めたのか目を閉じて、再開したキスに遠慮がちに応え始めた。
「杏実……」
我を忘れて没頭する。
そのうちにふと窓に打ち付けていた雨の音色が変わっていることに気が付いた。
そうだ。雨だ。
杏実が必死で守ろうとしていた洗濯物のことをすっかり忘れていた。自分自身は雨で洗濯物が濡れようが気にならないが、杏実が大切に思う事ならば尊重してあげたいと思う。
「杏実……」
柔らかい耳朶に唇を寄せ無ながら名前を呼ぶと、微かに杏実の身体が震えた。俺の声にさえ反応する感じやすい身体をもっと啼かせたいと思いつつも、今は理性を最優先させる。
「……いいのか?」
「ぁ……なん……?」
「濡れるぞ」
「……やぁ……そんな違っ……」
「違わないだろ……。そろそろ行ったほうが良くないか?」
「そっ……なんでそんなこと……! やめてください!」
何か杏実の反応がおかしい気がする。
愛撫を続けながら、怪訝に思いつつもう一度尋ねてみる。
「いいんだな?」
「だからっ……!」
「洗濯物濡れるぞ」
「……せ?」
「雨が降ってきたから取り込むんだろ?」
「………あっ――――!」
たちまち我に返ったのか、杏実は大きくそう叫ぶと、「酷い!」とつぶやきながら起き上がった。
「もっと早く……言ってくれれば~~~!」
そうブツブツつぶやいて、身なりを整えながら、窓に目を向けている。無情にも雨は本降りになっていたようだった。それを見るとがっくりと肩を落として立ち上がり「いってきます……」と言って、トボトボとドアの方へ歩き出した。
いたずらが成功したと思う反面、かわいそうなことをしたと思う。
「杏実」
俺が呼び止めると杏実が振り向いた。もっと怒ってもいい場面なのに、俺を責めるような様子は微塵もない。
その人の良さに苦笑を漏らす。
「俺も行く」
「え?」
「手伝ってやるよ」
そう言って杏実の手を取り、リビングを後にする。階段を上っていると杏実が「あっ!」と声を上げた。
「どうした?」
「結局、答えてもらえてません」
「なにが?」
「さっきの……いつからって質問に、です」
「……ああ。言っただろ?」
「え?」
「言った」
「……本当に?」
そう言い杏実は記憶を手繰り寄せるように、眉を寄せ首を傾げた。
「……」
その沈黙が、杏実の頭の中に疑問符が飛び交っている事を物語っている。
その様がおかしくて笑うと、杏実が「まさか嘘だったんですか?」と抗議の声を発した。
「んなわけねーだろ。言ったって、言ってるだろ。忘れてんなら残念だったな」
「え~……そんなぁ……」
「くっくっ……」
本日何度目かわからない止まらぬ笑いをこらえていると、横から杏実のため息が聞こえた。これ以上言っても無駄だと諦めたらしい。
本当にいちいち可愛い反応をしてくれるものだ。
「杏実」
「……なんですか?」
「好きだよ」
杏実がその言葉に息を飲んだ。いっそう丸くなった茶色の瞳が潤んでいる。
「それで充分だろ?」
そう言って繋いだ手を握ると、遠慮がちに杏実も握り返してきた。
テラスに出ると本降りの雨が地面を濡らしていた。そして無情にも洗濯物はびしょ濡れになっており、杏実は必死でその濡れた洗濯物を取り込み始めた。
“雨”と“杏実”―――――ふと杏実と出会う前の自分を思い出す。
『……私の名前、知ってたんですね』
『呼ばれたことが無かったので』
そう。
呼んだことはない。
でもあのころ、ずっと知りたいと思ってた……
―――――君の本当の名前を。
「蜂蜜とミルクティー」をお読みになった読者の皆様、大変ご無沙汰しております。
そしてこの話からお読みになった方は、初めまして!!
暁 柚果と申します。
このたびは、”蜂ミル”のスピンオフである颯人sideのお話を読んでいただいてありがとうございます。
このお話は”蜂ミル”のsideながら、独自のストーリーでもあり、主に颯人の過去のお話です。
そしてこの序章は”蜂ミル”の後日談であり、颯人編においてはプロローグ兼エピローグの役割となっております!
本編をお読みになられていない方でも、颯人独自のお話として楽しんでいただけるのではないかと思いますし、本編をお読みになっていただいた方は、新たなストーリー共に時折出てくる杏実とのやり取りを、本編と見比べて楽しんでいただけたらと思います。
拙い文章とともに、相変わらずの亀更新ですが、みなさまの感想やコメントを心よりお待ちしております!!(返信は遅くなりますが、あしからず!!)
次回のあとがき、完結の折お会いできる日を夢見て……