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短編集  作者: 貴遊あきら
日常
9/11

黙示録

 電車通勤の僕は、家から歩いて15分のこの駅からいつも仕事場に向かう。駅自体はなんてことない普通の駅だ。普通という言葉は少し厄介で、人によって定義が違うだろうけれど、とにかくここでは僕にとっての「普通」を用いることにする。人気を引く特徴もなければ、面白い駅員がいるわけでもなく、際立って汚らしいわけでもなく、そういう点で言えば、清潔ですっきりした駅と言ってもいい。入ってすぐ右側にはキオスクがあり、僕は決まってカロリーメイトとお茶を買う。余談だが、チーズ味以外は邪道だと思っている。メイプルシロップ味が発売された時は少し躊躇ったが、やっぱり不動の一位はチーズ味だと思う。


その日――平日の、よく晴れた日だ、雲ひとつない青空が広がっていて気持ちがよい――、いつものように駅に到着した。カロリーメイトとお茶を買って、そのまま改札を通ろうと定期を背広のポケットから取り出して手に持つ。普通ならそのまま改札を通って電車に乗るのだが、その日は違った。僕はついと視線を改札から外し、別に何かを思ったわけではない、本当にちらと、何の気なく入口の方を振り返った。


 目に入ったのは駅の入口の景色と、女が一人。どちらが興味を引くかといえば、後者だ。間違いない。歳は10代後半から20代前半。薄い黄色のワンピースを着て、手には何も持っていない。文字通りその身一つだ。隣人に回覧板を届けた帰り、駅にふらりと立ち寄ったのだと言われれば、間違いなく納得しただろう。だがそういうわけではなさそうだ。ぎゅっとワンピースの裾を握り、どこか所在なさげに立っている。誰かを待っているのだろうかと、この時僕はちらとも考えなかった。


 言い訳としては、この明らかに困った様子の女性を無視する行為は、教育者として許されないと思ったからだ、と言っておこうと思う。

「先生なあ、今日駅で女の人が困ってるのを見たんだけどな、知り合うと面倒だと思って無視しちまった」などと朝のHRで漏らした瞬間、ちょっとやんちゃなタカシくんやマモルくんあたりが、やんややんやと騒ぎ立て、「先生あかんやん、そこは男としてジジョウってやらを聞かなあかんやん」だの「ただあれやろ、面倒とか言って、その人が先生のオメガネにかなわんかったんやろ!」だの言われるに決まっている、と予想できたからだとも言っておこう。

 まあ、言い訳は何とでも言えるのだ。言い訳だけは出来ると昔から自負している。しかしまあ、後者の言い訳を使った場合、先生として一つ訂正しておかなければならないことがある。


―――黄色のワンピースを着たその女は、とても可愛い容姿をしていた。






「どうかしたの?」


 迷わずそう声をかけた。女は僕の顔を見て一瞬目を見張ったが、すぐにまたしゅんとした雰囲気を取り戻し、僕の存在なんかどうでもいいと言わんばかりに頭を振った。彼女は何かとてつもなく重いものを内に抱えていて、他のことなんか構っていられない、そんな印象を受けた。

 しかし僕は引きさがらなかった。正直にいえば、強引に物事を進めるのは主義に反する。しかしこの場合、いや、時に強引にいかなければ、男として後で随分と後悔することが容易に想像できた。


「道に迷ったとか?」


 実に馬鹿げた質問をした。もし道に迷ったのであれば、さっさと駅員にでも道を聞けばいい。大体その身一つで駅に来るような女が道に迷っている状況とは果たしてどういうものだろう。何か犯罪に巻き込まれて逃げてきたか? それにしてはどこも汚れていない。やはり、回覧板説が一番有力だった。あとは全て想像の範囲外だ。


 女は小さくため息をついて、一瞬どうしようかと迷ったのだろうが、意を決したように僕の顔を見上げる。


「いえ、道に迷ったわけじゃなくて……」


 こう返されて、ではどうしたのかと尋ねるのは失礼かもしれないと思ったが、どうせ僕はこの女の中でそれほど良い評価を受けていないだろうと開き直り、思ったことをそのまま尋ねる。

 すると彼女は僕の顔を観察するようにジッと見つめて、躊躇いがちに応える。


「人生に迷ってるの」


 僕はこの時、一秒間に三回瞬きをするという偉業を成し遂げた。







 人生に迷っていると言った女は、何と返していいか分からず呆然としている僕の手を引いて、駅構内にあるベンチに座るよう促した。僕は素直に従った。朝礼に遅れるとか、そういうことは考えないことにした。声をかけたのは僕で、それに連なる出来事の責任はおそらく僕にある。


「変な女だと思った?」


 女は恥かしそうに言う。僕は頭を振った。変な女だと思ったと過去形を使うのは正しくない。現在進行形で変な女だと思っている。しかしそう問われて頭を振って否定した場合、相手は違う意味に取る。「僕が相手を変な女だとは思っていない」、と受け取るのだ。


「優しいのね」と彼女は笑う。僕は何て言おう。おめでたい思考ね?


「はは、そうかな?」

「そうよ。だって普通、人生に迷ってるなんて言う女、どうかと思うわ。私だったらおいて逃げちゃう」


 何も言えない僕を引っ張ってきたのは君だよ、と言わない僕は確かに優しい男かもしれないな。そんなことを思いながらにっこり笑う。しかし、かける言葉は出てこない。


人生に迷うとはそもそもどういう事態だ?


 僕には「人生に」と「迷う」という言葉の間にとてつもない何かが省略されているような気がした。でもそれが何か僕には分からない。


 生きるか死ぬか迷っていると言うことだろうか?とするとこの女は自殺志願者?


―――黄色のワンピースを着た自殺志願者。その身一つのところから言えば、悪くはない。想像は難しくない。しかし、自殺志願者と駅の関連性は何か。電車に乗って死に場所に向かう?いやいや、財布を持たずしてどうやって切符を買うんだ。貧困な想像力を呪った。



「……なんて言おうか迷ってる?」


女は僕の顔を覗き込む。僕は素直に頷いた。


「なんていうか、その、人生に迷うっていうのは凄く曖昧な表現じゃないかと思って」

「そうね、凄く分かりにくいかも。そうじゃない人にとっては」

「僕はそうじゃない人?」

「なんとなくわかると思うわ。『そう』だったら」

「なるほど」


なるほどという言葉は便利だとつくづく思う。


「具体的に何に迷ってるの?その、人生において」

「人生において、細かくそれがどうとかじゃないの。人生に迷ってるの」

「僕には良く分からないな。人生っていうと、つまり生き方について迷ってるってこと?」

「そういうんじゃないの。分からない?こう概念的に」

「概念的に。なんだか難しい話だね。昨日僕はビールの摘みはスルメかカワハギロールかで迷ったけど、それとは大違いだね」

「比べるものでもないと思うけど」

「そうだね。比べるものじゃない。摘みと人生は同じじゃない。でも摘みに悩む人生も悪くはないと思わない?スルメとカワハギロール、中々のトピックだ」

「微妙ね。私はいつもチータラだから」

「チータラも悪くない。どうかな?チータラと人生の関係性について考えてみるのは。人生に迷うより有意義かもしれないよ」

「人生に迷う過程でチータラと人生の関係性について考える方が有意義よ」

「どう違うの?」

「大きく違うわ」


 彼女は確信を以て頷いた。「そうかもしれない」と僕は相槌を打った。


「今、私は駅のベンチにあなたとこうして座っているでしょ?でも周りはいつも通りに、私たちを取り残して勝手に進んでいくわ」

「別に僕らが取り残されたわけでもないと思うけど」

「取り残されているのよ、確実に」

「電車には置いて行かれたけどね、確実に」


 遅刻決定、という言葉が脳裏を過る。彼女は僕の発言を無視して続ける。


「彼らは何も疑問に思わないわ。確実に進んでいくの。でも私は取り残されている。それが分かるの。つまり、迷ってるのよ、人生に」


 彼女の言葉は僕にとって説明不足以外の何ものでもない。色々と言わなければならないことを、「つまり」という一言にぎゅっと圧縮して影も形もなく潰してしまうのだ。


「どうして、取り残されていることが迷っていることになるのかな?」


 そう聞けば、彼女は何か下世話な一言を放った上司を見るような目つきで僕を見たが、すぐに諦めたような溜息をついた。


「そういうことなのよ。あなたはそうじゃないからそう思うの」


 それ以上説明は無理だ、とでも言わんばかりだ。彼女はその場から立ち上がり、いいのよ、分からなくても、と付け加える。その笑顔はとても綺麗だ。


「でも」と思わず口を開くと、彼女はその細い人差指を唇に当ててきた。


「いいのよ」と繰り返す。


 いいのよ。


 デートの待ち合わせに10分ほど遅れた彼氏への許しの言葉のようだったが、それとは明らかに重さが違った。一つひとつの言葉が、それぞれしっかりと重力を伴って僕の心に響く。決して、僕は何かを許された気分にはならなかった。しかし、かといって咎められた気分でもない。その中間点をふわふわと漂って、着地点が見つからない奇妙な心地だった。


 呆然と女が駅の入り口から出ていくのを見つめていた。ワンピースの裾がひらりと揺れた。遠くで朝礼に間に合うだろう最後の電車が出発する音が聞こえた。その時、何かがスッと僕の中に忍び込んできた。得体の知れない、感覚的にいえば少し冷たい何かだ。僕はベンチに座ったままだった。人々の足音が聞こえる。駅員の声。ざわざわと空気が揺れるのを感じた。乗り遅れると言うよりも、取り残されるのだと漠然と思った。



 僕の世界が、初めて揺れた日だ。


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