恋の歌
おまえがおらへんと生きていけへんわ、なんて言ったくせに、
あいつは私の前からいなくなった。
とか
ちくしょう
今でも思い出すのは、突然噴き出すように笑いだしたあいつの顔。どうしてそのタイミングで笑ったのか分からなかった。今でも分からない。確か、お湯を沸かそうとしてヤカンに水を入れて数分後、コンロにかけたのはいいものの火をつけるのを忘れていたことが発覚したその十分後。あいつは突然笑いだした。
『火ぃつけへんとお湯が湧くわけないやんか』
至極当たり前の突っ込みをしながら、というよりその突っ込みを十分間も温めていたのだろうか、よくわからない、――とにかく、そう言って腹を抱えて笑いだした。対する私はまったく面白くなくて、顰め面であいつが笑うのを睨んでいた。
今思えば、あのとき笑えば良かったのかもしれない。
『なんや、この面白さが分からへんの?』
そう言ってあいつは怪訝な顔をしたのを覚えている。
映画を見てあいつはよく泣いた。親子ものに弱かった。感動の再会、とかそういうやつだ。出会えてホンマよかったなあ、とか、お父さん必死に探しとったんやで、とか。大粒の涙を流してボロボロ泣く。人目なんて気にしない。そこが映画館だろうが家だろうが関係なかった。周りの客が白い目であいつを見ていたのを覚えている。恋愛ものもやっぱり泣く。悲恋ものは見ない主義だから、ハッピーエンドの代物だけ、やっぱりこれも、幸せになれてよかったなあ、とぐずぐずになるまで泣く。ハンカチなんてお呼びじゃない。バスタオル必須の状態だった。
対する私は本当に対照的で、わざとらしいお決まりの再会シーンに眉を顰め、型にはまった恋愛ものは大抵眠ってしまってラストを逃す始末だった。全部、こんなの非現実だと斜に見ていた気がする。
『泣きたいときに泣いて、笑いたいときに笑わへんと、大変なことになるで』
あいつは無表情の私に度々そう言った。ちょっと呆れたような表情だったのを覚えている。今から思えば、大変なこととはあいつがいなくなることだったのかもしれない。泣けばよかったのか、笑えば良かったのか。つまりそれは私にとって感情を偽ることだったとしても、そうするべきだったのかもしれない。
『おんなじ景色が見たいんよね』
あいつはそう、目を細めたから。
小さい頃から犬が嫌いだった。気ままな猫が好きだった。鎖に繋がれているなんてまっぴらだったからだ。あいつは犬派だった。猫なんかわがままやん、とむくれたように言ったのを覚えている。飼ったことないくせに、と私が言えば、
『おまえも犬飼ったことあらへんやろ』
そう唇を尖らせた。
私は犬を飼ったことがないし、あいつは猫を飼ったことがない。だからこの議論は大した結論も出ないまま終幕を迎えるのが通常だった。でも一度だけ、あいつが躊躇う様に言ったことがある。
『せやったら、もし一緒に住むことになったらどうすんの。俺犬がええわ。猫は嫌やわ』
あのとき、一瞬時が止まったような気がしたのを覚えている。忘れられない出来事の一つだ。「もし」という仮定の言葉をあいつはあまり使わなかった。「もし」ってなんだったんだろう、とあれから時々考えたけど、「もし」に含まれたあいつの気持ちはあやふやだった。
「もし」って何?「もし」って、
―――ともかく、あのときは驚いた。
顔には出さなかったけれど、驚いて声も出なかった。私は何と返したんだっけ。
そういえば一度、突然イタリア語を勉強する、と独学本を買ってきて、まるで自慢するように見せてきたことがあったっけ。ようやくアルファベットの発音を覚えた程度で、まるっきり片言の挨拶を披露してきたのを覚えている。ボンジョルノ、とかブオンコンプリアーノ、とか。こんにちは、誕生日おめでとうって脈略ないやん、とそう返したらあいつは言った。
『いつか言ったるわ』
へん、と胸を逸らし、自慢げにそう言ったのを覚えている。
こっそり、そのいつかを楽しみにしていた自分が愚かだったと、泣いたことも覚えている。
小さな子どもが母親にお菓子を買ってもらえなくて泣いている場面を見た時、あいつは呆れたような顔をした。
『こっそり籠に入れたらええのに。真正面からぶつかるからあかんのや』
そう言って意地悪そうな顔で笑った。会計のところで見つかって怒られるんじゃないかと言えば、あいつはちょっと変な顔をして応えた。
『それがええんやん。会計で怒られて恥かいたらええんや。親を騙すちゅうことがどういうことかよう分かるやろ?』
親の味方なのか子の味方なのか、良く分からなかった。たぶん、そういう顔をしていたのが分かったのだろう。あいつは肩をしゃくって言った。
『そういうんがオヤジの立場や』
あのとき、得体の知れない感情が私を襲ったのを、決して忘れない。
あいつの中であいつが「オヤジ」なら、隣にいた私は何だったのだろうかなんて、考えるだけで惨めになったことを、忘れない。
たった一度だけ、真正面からあいつに言ったことがある。あいつの方は、「おはよう」と交わしたときと、「バイバイ、またな」と手を振ったときと、珍しく私が泣いた時と、私が料理を失敗した時―――数えきれないけれど、色んな節目でよく言った。
『好きやで』もしくは、『好きやからな』、と。
おまえがおらへんと生きていけへんわ、とあいつは言った。
そしてあいつは私の前から消えて、それからあいつのことばかり考えていた。何が駄目だったのか、どうすればよかったのか、過去を悔しがって、過去の自分を呪った。残されたのは笑いのタイミングが分からない私と、感情表現が苦手な私と、犬が嫌いな私と、イタリア語でおめでとうと言われたかった私と、あいつの傍で何者かになりたかった私。取り残された私は惨めで、どうしてもっと伝えなかったのかと泣いた。
突きつけられたのは、あいつのことが無茶苦茶好きだったこと。言えば良かった。好きだと。好きでどうしようもなくて真正面から好きだなんて言えなかったと。
好きで好きで堪らなかったから、あんたの「もし」がちょっと怖かったと。
ちくしょう
ちくしょう
「もし」がこんなに重いなんて