罪状を知らぬ被告人
寂しいのかもしれないというと、目の前の男は小さく笑った。まるで馬鹿にしたような、彼のお馴染みの笑い方だった。
「じゃあきっと明日にでも冷たくなってるな」
「私はウサギか」
「うわ、痛い子。自分をウサギだとか言っちゃってまあ」
私たちは日に何十回というこんな馬鹿げた会話をする。それが日常の一部としてすっかり溶け込んでいるのだから怖い。きもちがわるい。なんだかんだ言ってこういう状況に陥っている自分が歯がゆい。ハッと気が付くと、現在の私のように、喫茶店で彼とお茶をしている私がいる。我に帰ると、目の前ににやりと笑うこの男がいる。そこに至るまでの記憶がない。最近まで、もしや私は記憶障害か何かかと本気で疑っていた。
「まあ、とりあえずグッドニュースだ、弥生ちゃん。俺は今暇を持て余している」
もんもんと現在に至るまでを思い出そうと努めていると、彼はなんだか楽しげに、ニヤニヤしながらそう言った。私の眼は点になる。
「……あ、そう」
暇なことはいいことだ。しかし果たしてそれがどう私に関わるのか。どういうつもりで持ちだした話題なのかよく分からない。
「よかったな」
私の薄っぺらな反応に、彼は満面の笑みを浮かべた。ますます意味が分からない。
「いや、別に私には関係ないけど。喜ぶのはあんたじゃないの?」
そう返すと、彼はフフッとくすぐったそうに笑う。その笑い声とともに辺りに撒き散らされた爽やかな雰囲気がおそろしく胡散臭かった。とうとうおかしくなったか、と冷静に心配した。
「分かれよ」と彼は言う。
何を分かれと? と即座に突っ込んだが、彼は笑みを崩さなかった。どうしよう、逃げたい。
「この俺様が、おまえの抱えた寂しさを埋めるために貴重な時間を割いてやる、って意味だ」
語尾に星マークがくっついていそうな浮き浮きとした口調に、私は思わず身震いする。
「……ええと、熱があるとか?」
「熱か。俺はいつもおまえにくらくらしてるからなあ」
だめだ!神経もやられてる!
と突っ込みたいのは山々だったが、いかんせんここは他のお客さまもいらっしゃる喫茶店。朗らかな空気の漂う素敵な喫茶店だ。落ち着け私、と言い聞かせる。
「あー、まぁいいか。俺だって何もおまえにわざと寂しい思いをさせてやろうなんて思ってねぇ。そろそろ許してやってもいい」
「え、ごめん、何を?何を?」
「よしわかった、おまえがそこまで言うなら、俺だって鬼じゃない」
鬼じゃないけど、おそらく変態だ。しかし、あえて口には出さない。大体どうしてこの男は人の話を聞かないのだろう。ああ、以前からそんなところは全く変わっていない。私が遠い目をしていると、目の前の男は喜々としてため息をつく。
「また、彼女にしてやる」
目の前の男、そう、私の元彼であるその男は、傲慢にもそうのたまった。
そりゃあ、一目惚れという言葉を実体験させてくれたくらいだ。顔はそんじゃそこらのモデルも真っ青になって逃げ出すほど整っている。背だって高いし、なんと187センチだそうだ、某有名大学法学部在籍で、スポーツは何をやらせても卒なくこなす。いわゆる眉目秀麗、スポーツ万能男だ。しかし神様は意外にもちゃんとそこらへんの天秤を上手く測ってさい配していたりする。
外ヅラ完璧、性格破滅級。
簡潔に説明すれば、私の元彼はそういう男だった。
最近ここに「変態」というワードも連なった。
対する私は、そんな彼と合コンで出会い、周りにいた女の子同様彼に一目惚れをしていた。元来ドライな性質だった私には椿事だった。一生恋なんかしないし、結婚を迫られたらお見合いをしようかなんてのんびり考えていたくらい、恋愛というものに興味がなかった。合コンも頭数をそろえるために参加しただけだったし。まあ、あんまり恋愛っけがない私を心配した友人がセッティングしたという話もないわけではないけれど。
そういう経緯もあったので、友人たちは椿事に驚きつつ、告白しろと(多分その場のノリみたいなのもあったんだろうと思う)私をせっついた。
半ばヤケになっていた。当って砕けろ、の精神とはこういうことかと納得したほどだ。だから彼に告白した。真っ正直に、「一目惚れしました!」と告白した。そのあとしばらく彼は無言だったので、とたんに消えてしまいたい衝動に駆られ、恐ろしいほどの恥かしさを感じ、遠慮がちに「もし、お暇でしたら」と言ってしまった。
その瞬間、見守っていた友人たちや他の男たち、沈黙していた彼さえも噴き出し、場が大いに盛り上がったことは言うまでもない。
どういうわけか、私たちは付き合うことになった。彼曰く「まあ、暇だし」とのお答え。こんなイケメンでも暇なんだ! とあの時は感動したくらいである。多分どうかしていたんだ。恋は盲目、なるほどなあと納得した。
彼と付き合えただけで儲けモノ! とさえ思っていた私は、はっきりいうと根本的には恋愛に対してドライだった。彼は引く手あまただし、良くて三カ月後くらいにはフラれると思っていた。そこに幾分かの悲しさは感じられたけれど、彼を見るたびに自分との差を感じて、それは仕方がないことだと思う様になった。いや!別れないで! と服の裾を引っ張るようなまねはしたくなかった。最後の最後まで相手に迷惑をかけるのは嫌だった。最後くらい、こんなにあっさりと別れてくれるなんて、話が分かる女だな、と思われたほうがいいに決まっている。
付き合ってみると、彼は意外とまめだった。そして彼が完璧な人間ではなく、不得手もあることを知った。
第一に、彼は掃除ができない人だった。部屋はとても汚い。ゴミが落ちているとかそういうことではなく、整理整頓が出来ない人だった。第二に、彼は壊滅的に料理ができなかった。まあ、常に作ってくれる人がいたのだから、特に困ることはなかっただろうけれど、一度「今日は特別に俺が作る」と言いだして、卵を電子レンジに入れて爆発させた時は、ホントにこんなことやる人いたんだ!とちょっと感心した。いるところにいるものである。
第三に、彼は人の話をあまりよく聞いていなかった。初めはそんなことはなかったのだが、付き合いを重ねていくうちに素が出てきたのだろう。思い込みも激しければ、強引で何でも思うように決めてしまうし、まあそれはそれで欲求が少なく優柔不断な私には有難い話でもあったけれど、言いかえれば、独善的な部分もあった。
しかし私は彼が好きだった。
一カ月が過ぎ、幾分か冷静になっても、彼が好きだった。
彼に女が近づくと不安になったし、辛くもあった。だからと言って、私が彼の彼女なんだから、と独占欲を丸出しにすることはなかった。なかった、というよりも、できなかっただけかもしれない。今一つ、どうして彼が付き合ってくれているのか分からなかったし、理由として挙げるのならば彼が暇だったから、なのだろうけれど、もしかしたら彼女というカテゴリーに入れてはいけないのかもしれないと思うこともあった。
身の丈に合わない恋愛をすると、こういう不都合があるのだと学んだ。
付き合って二カ月目に入って、彼はますます自由人としての自分をさらけ出してきた。端的にいえば俺様だった。しかし、私が振り回されていたのかといえばそういうわけではない。起こりうるだろうと予想されたこと、例えば他の女子からのやっかみとか、別れろという圧力とか、そんな恐ろしいことは一切起こらなかった。
ときどき、刺すような視線を向けてくる綺麗なお姉さんはいたけれども。
付き合って三カ月がたつと、大いに感動したものだ。その頃になると、彼はマンションに極力滞在するように言い付けた。彼曰く「また来るんだから、ここにいたらいいじゃん」ということらしかった。それじゃあ私の部屋の存在意義って何と問うと、「そんなもの俺様の前では無に等しい」とか理不尽なことを言われた。まあ、彼の存在がそもそも理不尽なのかもしれない。一応今は彼の彼女のポジションにいるのだ。私がいない時にお腹が空いたら面倒だとでも思ったのだろう、と納得した。
付き合って三カ月と一週間くらいだったと思う。
彼は突然、普段見せないような真剣な表情で私にこう尋ねた。
「なあ、俺が別れたいって言ったら、おまえどうする?」
とうとう来たか、とその時思ったものだ。
ショックではあったが、前々から覚悟してきたことなので、衝撃で呆然、という失態は犯さなかった。もしも別れてほしいと言われたら、私はいつだってこう 答えると決めていたのだ。
「わかれるよ」
彼はその直後、どういうわけか激高した。今までに見たことのない激しい感情が迸っていた。とても怖い顔で、「じゃあ別れろよ」と言った。私は頷いた。今までありがとう、楽しかった。馬鹿みたいなセリフを付け加えて。
彼は表情を歪め、背を向けて去っていった。
俺もまあまあ楽しめた、と言ってくれるかと思っていたので、彼のあの表情を見、戸惑いを隠せなかったが、何にしてもこれで三カ月と一週間の彼との付き合いは終わったのだと思い知った。流石に部屋に戻ってから泣いた。なんだ、熱い恋をしてたんじゃないか。
流石に一週間は落ち込んだ。別れたことを友人に告げるととても驚かれた。どうしてそんなことになったの、とまで言われた。私に言わせれば、いつか終わりは来るものだと予想していなかった友人たちにびっくりだ。
しかし、その一週間後、更に私を驚かせることが起こった。なんと、彼からメールが届いたのである。なんとなくアドレスを消せずにいたので、まあどうせ送らないし送られてくることもないだろうから、いつかほとぼりが冷めたら消そう、とでも思っていたのだ。
表示された送信者の名前を見て、私は一瞬我が目を疑った。
彼 は私を駅前の喫茶店に誘った。とりあえず行ってみると、本当に彼がいた。彼はいつものように笑っていた。そして、最近どうしているだとか、俺のあげたクロとマダラは元気かと聞いてきた。クロとマダラというのは、彼が一緒に出かけた祭りで掬ってくれた金魚の名前だ。彼らは元気だと伝えると、おまえは元気かと尋ねてきた。元気だと私は答えた。
彼は見るからに元気そうだったので、私は何も聞かなかった。
その日を境に、彼はよくメールをしてくるようになったし、電話はもちろん、呼び出すことも多々あった。その度に、クロとマダラは元気かと問うのだ。
かくして今日も、同じ質問をされたのだが、私はいつものように「元気だ」とは答えなかった。そうは言えなかった。クロとマダラは、朝起きると死んでいた。水面に腹を見せるようにぷっくりと浮いていた。涙は出なかったけれど、途方もない喪失感を感じた。
「……寂しいのかもしれない」
たぶん、彼らが死んでしまったせいだ。
彼は笑った。
「じゃあきっと明日にでも冷たくなってるな」
冷たくなったのは金魚たち。彼らの死体を水の中から掬った私の手。
「私はウサギか」
ウサギならば、寂しさで死ねたのだろうか。寂しいさみしいと寒さに泣いて、冷たくなって。私の心だって冷たくなった。ぽっかりと穴が開いた。埋めるものがなくて、まだ空いたままだ。ウサギは死ぬことで開いた穴を埋めるのだろうか。
じゃあ死なない私はどうしたらいいのだろう。
「うわ、痛い子。自分をウサギだとか言っちゃってまあ」
哀れなウサギ、なのかもしれない。この男を前にすると、未だにふと、うずくのだ。もしかすると穴がふさがるかもしれないと、うずく。
カラン、と音を立てて喫茶店のドアが開く。私たちは外に出た。肌に感じた外気はもう夏も終わりだというのに、湿り気を帯びているせいか生温かかった。しばらく歩いて、ふと立ち止まった。彼は二三歩歩いて、私をゆっくりと振り返る。
「どーした、弥生」彼の声は明るい。
「……さっきの話、冗談だよね」私は俯いた顔を上げる。
「まさか」と彼は笑う。底抜けに明るいその笑い声は、少し恐怖を感じた。
「今日からまた、弥生は俺の彼女だ」
「なんで?私たち、別れたよね。あれからまだ一ヶ月も経ってない」
もしその事実が嘘だというのなら、泣いて過ごしたあの一週間はどうなる?
「あのねー、弥生ちゃん」
彼は小さい子にでも話しかけるように私の名前を呼ぶ。こういう時の彼は、たぶん機嫌が良くない。
「俺、怒ってるわけ。そこのところは理解してる?」
「なんで怒るの?私たち、円満に別れたじゃない」
「円満って言葉の意味、わかってねぇよ」
「別れてっていうから、うんって言った」
「それが円満?」
「そうよ」
強い口調で言い返した。
「その無知はもはや罪だ、罪。殺してやりたいくらいだ」
彼は真剣な面持ちでそう言う。相当怒っているようだったが、どうして彼が怒っているのか分からない。私は努めて冷静だった。何の迷惑もかけず、物わかりの良い彼女だったはずだ。わけがわからない。
「分かってる?おまえは俺を殺したんだ、あの瞬間、俺を捻り殺した。……そんな女を、このまま野放しにしておけるかって話だ」
いったい何をしてしまったのだろうか。
「あぁ、やっぱり、おまえが俺の絶望を知るまで、おまえの罪は許されない。許してやらねぇ」
彼は艶然としてその場に立っていた。彼の放った言葉が恐ろしいものだとは思わなかった。
私は彼への気持ちを消すことができたわけではない。ただ、落ち着いただけだった。酷い嵐から抜け出たわけではない。ただ、台風の目に入っていただけだった。
彼の視線、言葉、全てが私を熱くした。
今この瞬間は、私は彼に独占されていると思った。
そして同時に、私は彼を独占していた。