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短編集  作者: 貴遊あきら
自分への叱咤
3/11

逃亡犯一号

注意:自殺をほのめかす表現があります。

不快感を覚える方はお手数ですが、目次にお戻りください。

 飛べることが自由なのではない。

 だから、自由に空を飛べる鳥たちが自由だとは決して思わない。

 飛べることが自由じゃない。飛び去ってしまえることが、本当の自由だと僕は思う。


 生きていること。そういうしがらみを全て捨てて、今この場から永遠に姿を消すために、飛び去ってしまうことだと、僕は思う。





 軟弱そうな金網の穴に、黒光りする革靴の先をねじ込む。ギシ、と軋む音がして、足元はとても不安定だ。もう一方の足を灰色のコンクリートから一歩上へ、金網の上に登らせる。両手はずっと上のほうを掴み、四肢を使って、金網越しに見える灰色がかった街の景色を眺めながら、ずっと上のほうへ登っていく。細い針金が五本の指の腹に食い込む痛みは、とてもリアルだ。もしかしたら、この痛みだけが僕の唯一の現実なのかもしれない。


 目の前に広がる見なれた世界は、俗世の理に縛られ、人々の汚い排ガスで満たされ、タバコの煙よりもずっと有害なそれが、今ではもう奴らにとってなくてはならないものになってしまったと、そこにいる奴らは気が付いていない。すっかり上に登って、金網越しではなくなった視界は、僕の目にやけにクリアに映る。


 本物の世界だ、と漠然と思う。


 深く息を吸い込むと、この高い金網の上、そして金網は高い廃ビルの上にあるのだけれど、それよりもっと高い場所に向かっていける気がする。


 そうだ、僕はもしかすると飛べる。

 いや、飛び去ってしまえる。



 金網の向こう側にトンと軽く音を立てて降り立つ。コンクリートの床の上に立って金網を見上げていた時よりもずっと、乗り越えた今の僕の体は軽い。もしかすると、いくつかのビル群の向こうにあるアドバルーンよりもずっと軽い。


 ここから見える景色は灰色で、でも本当は絵の具を出しっぱなしにしてこびり付き、それを無理やり剥がそうとパレットナイフで削ったあとの、傷だらけだが様々な色が混在してしまっているパレットの上そのものだ。ぐちゃぐちゃになって混じり合った様々な色に、最早名前などない。そんなもの、誰もつけたりしない。

 少し前まで、あそこを歩いていた。歩くだけで、不快な色の群が、この真っ黒な学生服の袖に、襟に、裾に、様々な場所にこびり付いて、沁みついて、一生離れてやらないとしがみ付く。それを掃ったりはしなかった。目星をつけていた廃ビルに上り、金網を登り始めるまで、ここに辿り着くことだけを念頭にただただ歩き続けてきた。


 黙々と。そう、黙々と。



 様々な人々の似通ったテンポの煩い声の群が、僕の鼓膜に縋りつこうとする。言葉など聞き取れない。一つの下らないまとまりになって、いつまでも同じようなノイズを上げる。僕にとって、世界は、そういうあつまりをいくつもいくつも集めて、集めて、集めて、どれだけ集めたらいいのか分からない人々がうようよいる、そういう空間だ。


 いつかそこにある色をたった一色にできたらと、そこにあるノイズから言葉を紡ぎ解き明かすことができたらと、まるで夢物語のように思っていた。


 しかし、僕は今、夢物語の絵本を閉じて、飛び去る。金網の向こう側に立っている僕は今、どこまでも自由だ。トンともう一度軽い音を立てて、今立っているこの場所から、空虚な灰色の街の上に落ちていくだけでいい。


 あるいは、飛び込めばいい。

 そうすれば僕は、飛び去ることができる。


 コンクリートの床ぎりぎりまで足を動かす。その間呼吸をしない。


 ぐっと拳を握り、原因不明の汗に僅かに意識を取られ、ほんの五ミリほど金網にまた近づく。心臓が叫ぶ。じゆうはすぐそこだぞ、と。


 じゆうは、すぐそこだぞ。


 じ ゆ う は す ぐ そ こ だ ぞ 。



 その声と重なるようにして、どうしてだか誰もいないはずの廃ビルの上に、もちろん僕のじゃない声が響く。おかしい。変だ。ここには僕以外はいないのに。



「君がそこから飛び降りるのは勝手だけれどね、君が立っているその場所は君のものじゃないし、君の落下地点も君のものじゃないんだよ」


 意味が分からない。だけど、はっきりと聞こえる。

 ゆっくりと振り返った。金網の向こうに誰かがいた。誰かはもちろん知らない。

 ―――女だ。近所の高校の制服を着ていて、スカートがびっくりするほど短い。下に履いている、側面にハートのラインが入った黒のハーフパンツが丸見えだ。真っ黒な髪はヘルメットみたいだ。ピンク色と白色の渦巻き飴を持ち、気だるそうにそれを舐めながら、空いているほうの手をコンクリートの床に置き、僕が黙ってじっと見つめると、ニィと赤い唇を横に伸ばす。白い肌にその赤色が驚くほどよく映えて、そこだけが灰色の世界から逸脱している。


「まあ、この世界に、誰かのものなんてもの、ないかもしれないけれどね。法律とか、土地権利とか、そーいう見地から考えても、とりあえずまあ、君には自由にできるものなんて一つもないんだ」


 女はそう言ってまたぺろりと飴を舐める。僕は彼女を睨みつける。


「あらら、その目案外悪くないよ。ここに来るのはね、もう少しトロンとした目の人が多いんだ」

「あなた、誰ですか?」

「おもしろい。そういう質問が来るとは」


 からかうようにそう言うので、内心苛ついた。気づけばもう随分金網のほうに近づいている。無意識に金網に指をからませていた。


「私、ここでシマ張ってんの。ほら、ここが誰の持ち物だろうと、それは自由でしょ。精神的自由って言うの?」

「不良か何かですか?」

「そ。ご名答。君はなかなか筋がいい」


そう言って舌を出す。赤い舌だ。そんな舌を今まで見たことがなかった。色が、ある。


「君は、そういうの?」


 不良かと聞いているのだろう。僕は不良なんかじゃない。成績は常にトップを保っているし、求められればなんでもこなす。そういう者を、人は不良とは言わない。


「不良なのは、この世界のほうですよ」


と返した。違うと答えるだけでは物足りなかったからだ。


「そうかな。この世界は割と正常だと思うよ」

「それは、あなたがこの世界に生きているからですよ。だからそう思う」

「君だってここで生きてる。同じだよ」

「僕は違う」

「なるほど、それは面白い」


言って、またぺろりと飴を舐める。僕の話なんてどうでもいいと言わんばかりだ。


「僕は、この世界から飛び去るんです」

「そこから飛び降りて内臓まき散らして?」


 嫌な言い方だ。僕は失笑した。


「僕は自由になるんです。全てを捨てて、身軽になる。僕を縛るものは何もなくなる」


 そう言ってやると、女はふーんと漏らし、飴を口にくわえたまま、そのまますっと立ち上がる。気だるげな様子とは違って、その動きは酷く素早かった。コツコツ、と焦げ茶色のローファーが音を立てる。彼女はゆっくりとこちらに歩み寄る。僕はその動きをじっと観察していた。目を離してはいけないと誰かが強制的にそうさせているようだった。


女は舐めていた飴を、金網越しに僕の唇に押し当てる。僕はハッと目を見開いた。


「君は自由を履き違えている」


彼女は鋭く言う。赤い唇から洩れた言葉は、クリアだ。


「光がある、それゆえに闇が生まれる。しがらみがあるからこそ、束縛があるからこそ、捕らわれるべきものがあるからこそ、そこには自由が生まれるのだ」


はっきりと、まるで学術書の一説のように抑揚のない、堅く、明瞭に紡がれる。


「それが自由だ。君が求めるものは、自由じゃない。大体、それは何も求めていない。ただの逃亡だよ」



 と う ぼ う


と、赤い唇が言う。僕はそこから目を離せない。


 逃亡。それは僕の中で愚かなことだった。


 逃亡。はたしてその愚かしい行動を最後に残し、僕はこの世界から飛び立てるのか。嫌にすんなりとそう考えることができた。



「君はなかなかに面白い。ただでさえ、内臓が飛び散るのを見るのはげんなりするっていうのに、なかなかに面白い君がはじけちゃうんじゃあ、それはもっとげんなりだよ。私に言わせると」

「どういうことです?」

「君ならもっと足掻けるはずだ。内臓とともにはじけるんじゃなくてね、もう少し、違う形で」

「それは、褒めているんですか?」

「私なりに」

「それはそうですね」


軽く返す。彼女は楽しそうに笑う。



「あなたは、自由を知っているんですか?」

「そこに立っている君よりは。そうだねえ、君がこちら側へ戻ってきたら、少しは君も分かるかもしれない」

「悪くないですね」

「悪くないだろう?」


彼女はぞくりとするくらい赤く、艶めかしい舌を出して僕を誘う。





再び僕は金網を超えた。

灰色の世界に彼女がいる。


飛び去るよりもずっと、なぜだろうか、目の前にいる彼女のほうが自由な気がして。




僕はもう、金網の向こう側を振り返らなかった。




進むことも後退することも無駄だと思っていたあの日を振り返って。

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