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短編集  作者: 貴遊あきら
鈍感な彼
2/11

Please tell me.

上の続き

ときどき彼女は不思議なことを言う。


 初めてあんたを見た瞬間、何かが分かったの。彼女はそう言った。何が分かったのか尋ねた。そうしたら彼女は、「あんただったんだなあって」そう言って楽しそうに笑った。ときどき彼女は不思議なことを言う。この言葉はそのうちの一つだ。


 “あんただったんだなあって”


 今でも、その言葉の意味が僕には良く分からない。でもそのときのことを思い出すと、どうしてだかわからないけれどホッとして、同時に嬉しい。


「僕だったのか」


と僕は返した。


「あんただったのよ」


 やはり彼女は楽しそうに笑いながら、そう言った。






 僕らの出会いは言ってしまえばなんてこともない、運命的なものよりもむしろ策略の意図さえ感じられる人と人の出会いの場で起こったことで、簡潔にいえば合コンだった。


 あの日、薄暗い照明がぼんやりと辺りを照らし出す部屋の中に彼女はまだおらず、僕とそれから男女が四人ずつ、硬いソファに腰掛けていた。ガラステーブルの上には飲み物とジャンクフードとも呼べなくもない食料の山があった。僕はレモネードの入ったグラスに視線を落とし、グラスの表面を水のしずくが流れていく様をじっと眺めていた。


 甲高い笑い声、或いは談笑。好きな食べ物、映画、本、店、理想のタイプ、いかにして授業を上手くサボるか、教授、あるいは先生への愚痴、親に対する不平不満、化粧、小声で囁かれるセックスの話題。せっかくカラオケ店にきたというのに、誰も歌わないらしい。

 人数合わせで連れてこられたというのに女が一人遅れると言うわけで、つまるところ今の僕の役割は、この狭い空間で起こる全てをバックグラウンドに押しやり黙っていること、あるいはジャンクフードを粗食することだった。歌うつもりは最初からない。

レモネードを飲みながら、ぼんやりとレポートの内容を考えていた。作者の視点に立つか、あるいは主人公の男の目線で考えてみるか。いつものようにメタファーについて考察してもいいが、あの作品は人の心の機微を描写することに重点を置いているように感じたから、少し路線を変えて階級社会における男の立場について取り扱ってみてもいいかもしれない。


 すでに周りの雑音は僕の背景に押しやられ、すっかり自分の世界に入り込んでいた。


「ねえ、何考えてるの?」とそう声がかかるまでは。


 ハッと気が付いて隣を見やると、それまで空いていたはずのその場所に誰かが座っていた。女だ。遅れてきたんだろうとすぐに理解する。


「レポートについて」と正直に答えた。


 彼女は面白くなさそうな反応をすると思ったけれど、関心がある風でも興醒めした風でもないようだった。しばらく僕の顔を見つめたあと、小さく笑みを零す。


「名前、教えてもらっていい?」


 彼女はそう言った。





 彼女はどういうわけか僕を今夜の話し相手に選んだようで、ずっと隣に座って、他の参加者に話しかけられても言われても適当な返事を返すだけだった。明らかに僕が人数合わせのために連れてこられたと知り、同情して相手になってくれたのだろう。そうだとしたら可哀そうなことをしたと思いながらも、彼女の心づかいが嬉しかった。

 僕らが話したのは、好きな食べ物でも、嫌いな食べ物でも、もちろん親への不平不満でもなかった。彼女は僕の名前を聞いた後、自分の名前を言い、そのあとで「何か質問はない?」と尋ねてきた。妙な質問だと思ったし、僕としては別に彼女の何を知りたかったというわけではない。だけど、「質問なんてない」と答えるほど、彼女を邪険に扱う気にもなれなかった。


「困ってる?」と彼女は小首をかしげる。「何でもいいのに」とクスクス笑うアルトが、自然に僕の心に触れてくる。


「何でも?」


と彼女を見やる。彼女は頷く。――少し考えた。



「じゃあ、この世で一番怖いものは?」

 

 とある小説の主人公がこの質問を受けて「記憶」と答えたのを思い出し、そう質問した。


「あんたは?」と彼女は聞き返す。


「まだ一番は決められないんだ」と答えた。「たくさんあってね」


「たとえば?」

「分かりやすいのから言えば、目覚まし時計とか」

「目覚まし時計?」彼女は目を丸くする。

「心地よく平穏な時間をあっと言う間に奪い去る」

「それが怖いの?」

「いつの日か、そのけたたましい音でさえ目覚めなくなる日が来ると思うと、少し」

「どっちかっていうと、今のあんたの言葉のほうが怖かった。大学生って、いつもそんなこと考えてるの?」

「さあどうかな。とりあえず、僕の家に目覚まし時計はないよ」

そう答えたら、彼女は何やら得心が行ったように頷いて見せた。


「あんた、私に興味ないのね」


言って、周りをちらと見まわす。そう言われて、興味がないというのは失礼なことではないかと一瞬焦る。本当のことだけれど、本人に気付かれるのは良いことではない。


「そういうわけじゃないよ」

「ふふ、優しいんだ」

「それは君のほうだと思うけど」

「私?」

「僕に話しかけてる」


そう真面目な顔をして答えたら、彼女は小さく噴き出した。


「あんた、相当鈍いのね。優しいわけじゃないの、私はただのチャレンジャー」

「チャレンジャー?」と聞き返す。彼女はまた笑う。

「話しかけるなってオーラを出してたの、知ってた?」

「誰が?」

「あんた」


あっさりとそう返されて、僕は目を丸くした。


「その分だと、自分がどうしてここに連れてこられたか知らないわよね」

「人数合わせだよ」

「あんた、鏡で自分の顔見たことある?」

「毎朝見てる」


と答えながら、彼女の言葉の意味がほとんど理解できていない事に焦っていた。鏡で自分の顔を見ることとここに連れてこられたこととに一体どんな関係があるのだろう。


「ワオ、ホントに鈍い」


彼女は可笑しくて堪らないようだった。


「別に理由があるとか?」

「教えてほしい?」

「出来れば」


 そう真剣な面持ちで応えたら、彼女は心地よいアルトで小さく笑った。もう少し仲良くなったら教えてあげると彼女は言い、僕らはメールアドレスを交換した。

 それから色々あって、彼女の彼氏になった。まだ別の理由とやらは教えてもらっていない。もう少し仲良くなったら、と彼女は言っていたけれど、もう少しというのは本当に曖昧な表現で、未だ彼女が何も教えてくれないと言うことは、僕らはまだその段階に達していないということだろう。





「いつか、教えて」


そっと彼女の耳に囁く。


「その日を楽しみにしているから」


 僕の声が聞こえたからだろうか、彼女は僅かに眉間にしわを寄せる。起こしてしまったかと思ったけれど、それは杞憂に終わる。


 ふと時計を見やると、午前6時17分。まだ起きるには早い。僕は再び体を横たえる。彼女の穏やかな寝顔が目に入る。



彼女の寝息は、とても静かだ。



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