音のある静寂
――――痛い。どうやら唇が切れているようだ。そっと指を当てて確認すると、ピリリと小さな痛みが走る。明日には青くなっていたりして。またかよ、と軽く笑う友人の顔が思い浮かんだ。余計なお世話だ、と思う。
僕はしんと静まり返った部屋の中にいた。正確に言うと、冷たいフローリングの床に座り込んでいた。そこにあるのは見なれた景色。テレビと白いソファと白いテーブルと、たったそれだけの寂しいリビング。少し前まで壁には時計がかかっていたが、今はもうない。
静寂に包まれたこの部屋を、僕は結構気に入っていた。息を潜めるだけでどこまでも静かになってくれる。その冷たくも穏やかな空間が、唯一安心できる居場所。カチコチ、とあのときは―――そう、あの頃は、時を刻む音だけが静寂をより規則正しくし、何者にも脅かされない安寧の空間を作り上げていた。その空間の中で、ソファに座り、本を膝の上に置き、ゆっくりとページをめくっていた。テレビはほとんど物言わぬ箱に過ぎなかった。どうして購入したのか、今ではその理由を思い出せない。僕が欲しがったのではないことは確かだけれど。
フローリングの床はいつまでも冷たいままだ。
相変わらず唇の端にはピリリとした痛みを感じる。
もしかしたら、その冷たさと痛みだけが僕にとっての現実なのかもしれない。床についた掌からじわじわと体を這い上がるように侵食してくるその冷たさ。昔の僕にとっては、それが正常な温度だった。でも今は違う。唇に感じるこの小さな痛みがそう訴える。
ゆっくりと立ち上がる。
立ち上がった瞬間に、甘い匂いがした。人の手によって作り出された甘味料の甘さではなく、もしかすると花から生まれたものかもしれないと錯覚するような、居心地の良い匂いだ。ふわりと僕を包み込み、融けてなくなってしまったのかと戸惑うほど自然で、優しい香りだ。
ゆっくりと玄関のほうに歩いていく。
聞こえるのは静かな足音だけだ。あとは何も聞こえない。前はこんな静寂が好きだった。ここが僕の領域だった。何物にも煩わされず、呼吸音でさえ時に不快に感じるほどの静寂(もちろん、時計の針の音は別だけれど)。でも今は違う。唇に鋭い痛みが走る。舌でぺろりと患部を舐める。確認するように感じた痛みは、変な言い方だけれども、嫌いじゃない。
そっと玄関のドアの前に立ち、ノブをゆっくりと回す。音を立てないようにそっと回す。それでも僅かにキィと音を立てて開いたドアの向こう側から、ふわりと甘い匂いがした。その匂いにときどき眩暈がするのは気のせいじゃない。もちろん、芳しい花の香りに引き寄せられる蝶のごとく、そういう意味で。
「おそい」
とドアの向こう側にいた彼女はそう言う。
目が赤くなっている。泣いた?なんて愚問だ。僕はちゃんと、泣いた彼女が部屋から走り出ていくのを見ていたのだから。追いかけてこないでと言われた。だから行かなかった。それでもこうして、ドアを開けて迎えに行くと、ちゃんと彼女はそこにいる。
「ごめんね」と言う。
言っただけだ。謝ってはいない。正直に言うと、まだ彼女が部屋から飛び出していった原因が分からない。多分、僕が何かやらかしたのだろうけれど。鈍いらしいのだ。僕という人間は。彼女いわく、「ちょう鈍感」らしい。突然彼女がいきり立って、あっという間に部屋を飛び出していく。そんなことが頻繁に起こる。いつもどうしてだろうと考える。彼女いわく、それは一重に僕が「鈍感だから」ということだ。
「外、寒いんだから」
と理不尽なことで怒られた。ご丁寧に僕を殴りつけて、飛び出していったのは彼女なのに。
「雪、降ってる?」
「降ってない」
憮然とした様子でそう返された。
「じゃああとで買い物、行く?」
「行く」
そう言いながら、靴を脱いで廊下を渡ってリビングに上がっていく。どっかりとソファに腰掛け、玄関に立ったままの僕を見る。
「その前に、ココア」そう言われたので、僕はキッチンに向かった。
「マシュマロ、切らしてるけど」
「じゃあそれも買い物リスト」
「チョコレートあるよ」
「ホワイトなら」
「それしかないよ」
言って、冷蔵庫を開ける。
食べ物と分類できるものは、たいていこの中に入れている。ホワイトチョコの入った箱を取り出して、扉を閉めた。それを持ってリビングに行き、箱を彼女に渡す。彼女はちらと僕を見、訝しげな顔をした。
「嫌いなのに、買うの?」
「嫌いなの?」
「私じゃない。私は好き」
「知ってる」
彼女が箱を開けて、中から白い色をしたものをつまんで食べ始めるのを聞こえてくる音だけで想像しながら、ココアを入れるためにキッチンに戻る。モノクロの食器棚の中で、ひときわ存在感を放つ水玉模様のピンク色のマグカップを取り出した。
「ねえ、一つ聞きたいことがあるんだけど」
僕がココアの入ったマグカップを差し出すなり、彼女はだしぬけにそう言った。
「一つだけでいいの?」
自分のために入れたブラックコーヒーを一口飲んだ後、そう尋ねた。とりあえず冷たいフローリングの床に腰を下ろす。
「どうしてそこに座るの?」
「それが聞きたいこと?」
「それは別」
「なるほど」
僕は腰を上げ、ソファに腰かけなおす。彼女はどこかホッとした様子だった。僕もホッとした。とりあえず、殴られて逃走、という事態は免れたようだから。
「とりあえず、一つでいいの」
「質問のこと?」
そう返しながら、再び訪れた僕にとっての当たり前の静寂に耳を傾けていた。時計の音の代わりに僕の空間になくてはならないものになったのは、このアルト。
「私って、あんたの何?」
「へ?」
ときどき彼女は予想外の質問をしてくることがあるが、今回のもまた目を丸くさせるものだ。この間提出したレポートの課題もなかなかに難しかったけれど、彼女の質問はそれに増して難解なところがある。その漠然とした質問に対して、僕が答えとして用意できる言葉はいくつかあるだろうけれど、それらのほとんどはきっと彼女の望むものではない、とそれくらい察することはできる。
「答えられないの?」
「そういうわけじゃないんだけれど、少し質問の仕方を変えてもいい?」
「例えば?」
「『あんたって、私の何?』とか」
「……じゃあ、そう聞いたら?」
「彼氏かな」
「かな、は余計よ。なんで変えたの?」
「僕を何かと定義づけることはいくらでも出来るけれど、君をどういうものかと限定するのは難しい。もし、例えば一番に浮かんだ言葉「彼女」だと言えば、それは僕の希望を言ったに過ぎないし、何という質問に対しての答えとしては不適当かなと。それに、「彼女」という言葉でひとくくりにするには、君の存在はあまりにも大きすぎる。僕にとっての君は色んな側面があって、つまり様々な言葉で形容できる」
「あんたの言葉ってややこしいけど、深く考えると、恥ずかしいと思う」
彼女はそう呟くように言う。少し耳が赤い。
「学校で何かあった?」
と僕はマグカップをテーブルの上に置いた。
「え?どうして?」
「そんな質問したから」
「う……」
「う?」
「あんたって、ときどき鋭い?」
「僕としては別に鈍くもないと」
「基本は鈍感よ!」
「なるほど、基本」
納得したように頷いた。別に納得はしていないけれど。彼女がココアを飲み下す音が妙に耳に響いて聞こえる。
「友達に、彼氏ができたの」
彼女はぽつりとそう言った。僕は何も言わない。黙ってうなずくだけだ。
「それで、そのー……いろいろ、とね。話を聞いて。何て言うか、付き合ってどういうことをしたとか、そういう話?そういうの」
他人がどうしたと言う話にあまり興味がない僕は、さぞ詰まらない時間を過ごしたんだろうなと同情しながら、彼女の話に頷いて見せる。テーブルに置いたマグカップに手を伸ばし、コーヒーを啜った。
「チョコレート」
と僕は思いついたように言った。
「へ?」
「もう食べないの?」
話を邪魔されたと思ったのか、彼女は訝しげな顔をする。ムッとしたようで、唇を尖らせている。その唇に視線をやる。
「なんでそんなこと聞くわけ?」
と言う彼女の声が、どこか遠くから聞こえてくるように感じた。だから彼女の問いに答えなかった。
ふわりと甘い匂いがして、その匂いに引き寄せられるように、まるで花の匂いに誘われる蝶のごとく彼女に近づいて、まるでそれがごく自然なことのように、ほんの少しココアで濡れた唇に噛み付くように口づけた。それから当たり前のように細い肩に手を置いて、もう一方の手が掴んでいたマグカップをテーブルに置いて、それからその手で彼女の頭を包み込み、角度を変えてまた噛み付いた。怪訝な顔が驚きのそれに変わり、そしてうっとりと恍惚の色を映す。もしかすると、突然何をするのよ、とまた殴られるかもしれないと過ったけれど、本当に、過っただけだった。
そんな風に作りだした静寂は、僕の新しい静寂の一つだ。心地よいアルトが苦しそうに何か呻いても、それさえ穏やかな静寂を作りだすパーツに過ぎない。
空になった水玉模様のカップがごろりと音を立てて床に転がる。そこでようやくハッとする。彼女に目をやると、潤んだ瞳で僕をじっと見つめている。
「どうして分かったのよ」と彼女は悔しそうだ。
何が分かったのか、僕にはその意味するところが分からない。ただ、僕が今したことが、彼女の求める答えだったらしい。
「なんでだろう」とごまかすように笑う。
そんな僕に、彼女はやはり悔しそうに、しかし少し恥ずかしそうに言った。
「あともう一回、おんなじの」
そうして再び、僕の静寂は訪れる。