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『生き延びるための糧』

帝国歴303年12月、古都アンチアルマ。


背後の補給線であったボルゲーゼ領とアクスアルブを、セレスティア親王イリアードの手によって電撃的な無血開城で奪い返されたブランガ・オデュヌは、自らが完璧な「籠の鳥」となった現実と対峙していた。


雪がしんしんと降り積もる旧太守邸の執務室で、ブランガは冷え切った地図を睨みつけていた。前後を絶たれたこの古都で春を迎えれば、西から復讐に怒りを爆発させたグラッデェの怒濤の鉄騎と真っ向から激突することになる。イリアードと皇帝アラリックは、自分をグラッデェの戦力を削るための「肉の壁」としてこの地に孤立させたのだ。


「打って出ることもできず、ただ春の地獄を待つのみか……」


ブランガが低く苦々しい溜息を漏らしたその時、急報を告げる荒々しい足音が廊下に響き渡った。


「ブランガ様! 西のフェルゼンヴァルデン砦方面より、謎の補給部隊が到着いたしました!」


「なに……? 補給部隊だと?」


ブランガは眉をひそめた。イリアードの手によって完全に封鎖されたはずの補給路である。いまさら帝国軍が自分たちに物資を届ける理由などどこにもない。


「敵の襲撃か? 偽装した奇襲部隊か!?」


「いえ……それが、交戦の意図は皆無にございます。我が軍の警戒線をすんなりと通過し、大量の物資を城門前に下ろすと、あっという間に撤収していきました。残された荷の山には、差出人の書状が添えられております……」


報告に上がった側近の手は、寒さからか、それとも恐怖からか微かに震えていた。


ブランガは外套を羽織ると、重々しい足取りで城門前へと向かった。


吹雪く広場には、見渡す限りの物資の箱が積み上げられていた。整然と並べられた木箱の群れは、飢えに怯え始めていたアンチアルマの兵士たちにとってみれば莫大な糧食の山であった。


「これは……なんだ」


ブランガが力任せに箱の一つを剣の柄で壊すと、中から現れたのは白く乾いた大量の塊であった。


「……乾燥蓮根、にございます」


側近が緊張した面持ちで告げた。


それは、セレスティア領で大量に生産され、非常食用に高度な乾燥加工が施された特殊な保存食であった。セレスティア領の軍旗に描かれた「清廉なる蓮の花」——その地を象徴する産物そのものだった。水に戻せば長期間の籠城に耐えうる莫大な量の食料。


孤立無援のブランガ軍にとって、本来であれば涙を流して喜ぶべき命の綱である。しかし、その箱の上に置かれた一通の美しい書状を目にした瞬間、ブランガの顔からは血の気が引いた。


書状の末尾に捺された二つの印章と、記された称号。それを見たブランガは、戦慄とともに自らがさらなる底なしの策略の中にいることを悟った。


差出人の名は——『水鏡将軍』リゼリア、ならびに『水明将軍』セシリア。


「水鏡……水明だと……!?」


ブランガの口から掠れた声が漏れた。


その二つの称号は、かつての数々の目覚ましい戦功により、親王妃リゼリアとその従妹セシリアに下賜された帝国最高の特権称号であった。


『水鏡』『水明』の称号を持つ者は、帝国の危機に際して、いつでも帝国正規軍から五千の兵を無条件で借り受け、直接指揮する権限を持つ。


だが、この称号の真の恐ろしさはそこではなかった。


『黄金の獅子剣』を携えるセレスティア親王イリアードが、万が一不測の事態や過酷な戦況に陥った際、この二人はその「代理」を務めることが法的に認められているのだ。


黄金の獅子剣の代理——それは即ち、皇帝アラリックの直命と同等であり、帝国軍全軍の最高指揮権を握ることを意味していた。


フェルゼンヴァルデン砦に留まり、「遠見の眼」で戦局のすべてを見通すリゼリア。そして彼女とともに最高指揮権の代理資格を保持するセシリア。この二人の女性の手の中に、すでに帝国全軍の命運と権限が握られていたのだ。


イリアードが南下してボルゲーゼとアクスアルブを奪還したのも、リゼリアが砦から盤面全体をコントロールしていたからに他ならない。


ブランガの手が激しく震えた。


彼は震える指先で書状を開いた。そこには、女性らしい流麗で気品に満ちた文字で、たった一行だけ、残酷なメッセージが記されていた。


——『貴公らの健闘を祈る』


「……ッ!!」


静かな文字から放たれる、圧倒的な見下しと冷酷な嘲笑。


それは、「貴様らの企みも、あがきも、すべて私たちの掌の上だ。この食料を食んで、春までせいぜい生き延び、グラッデェ相手に泥を啜って戦うがいい」という無言の宣告であった。


「……ふざけるな……ふざけるなよッ!!」


ブランガの胸中で、猛烈な屈辱と怒りが火山のように噴出した。


自分はグラッデェの猛攻を退け、この古都アンチアルマを奪還した英傑のはずだった。帝国の覇権を握るべく動いていたはずだった。それがどうだ。今やフェルゼンヴァルデン砦に鎮座する二人の女から、哀れみと蔑みとともに「餌」を投げ与えられているのだ。


自分たちが生き延びるための食料すら、敵であるはずのセレスティアから与えられたという屈辱。しかもそれを食べなければ、春を待たずして兵が飢え死にし、グラッデェと戦うことすらできずに滅びるという事実。


「俺を……俺たちをここまで小馬鹿にしおって……!」


ブランガは書状を力任せに破り捨てると、怒りに身を震わせ、腰の剣を激しく抜き放った。


「リゼリア……! セシリア……! イリアードォッ!!」


咆哮が、冬のアンチアルマの城門前に空しく響き渡る。


兵士たちは沈黙し、積まれた乾燥蓮根の山と、狂乱する将軍の姿をただ青ざめた顔で見つめていた。与えられた食料は命の糧であるが、同時にそれは、彼らが二度とこの罠から抜け出せないことを告げる絶望の鎖でもあった。


破り捨てられた紙切れが、北風に乗って舞い上がる。


フェルゼンヴァルデン砦の『水鏡』と『水明』——最高指揮権を背負う二人の女将軍が見つめる眼下で、孤立した野獣ブランガ・オデュヌは、与えられた餌を喰らいながら、来たるべき地獄の春へと引きずり込まれていくのだった


登場人物一覧

* ブランガ・オデュヌ:都督の庶子である20歳の青年。異国風のベストに片刃の剣を帯び、卓越した戦術眼、兵站の把握力、火縄銃の「三段撃ち」などの革新的な軍制で破竹の勢いを見せるが、孤立無援の中でグラッデェ軍と戦い戦死した。

* ヴォルフラム:上質な羊毛のタバードを身に纏い、大剣を背負う流浪の吟遊詩人であり剣士。ブランガの副官として行動を共にする。

* アラリック:アルストラーナ帝国第14代皇帝(26歳)。若き支配者として憂いを抱えつつ、弟イリアードと共にブランガやグラッデェに対抗する思惑を巡らせる。

* イザーク親王:第14代皇帝アラリックの異母弟で、ボルゲーゼ親王領の君主。逃走中にブランガに救われるが、後にブランガを恐れて殺害を企て、逆に対策されていたブランガの手で誅殺された。

* イリアード親王(セレスティア親王):皇帝アラリックの異母弟で、フェルゼンヴァルデン砦にて13万の軍を預かる。「黄金の獅子剣」を託され、電撃的に補給路を断つことでブランガをアンチアルマに孤立させた。

* リゼリア(『水鏡将軍』):イリアード親王の妻。「遠見の眼」と「魂の潮流を読む力」を持つ異能の持ち主で、フェルゼンヴァルデン砦から戦況を見通し最高指揮権の代理資格を持つ。

* セシリア(『水明将軍』):リゼリアの従妹。リゼリアと共に帝国最高の特権称号を持ち、最高指揮権の代理資格を保持する。

* マートル・フォン・ブライトクロイツ:帝国の「中書令」。前帝の貴妃ソフィアの弟で、名門ブライトクロイツ家の当主。

* ヴァレリオ・フォン・ボルゲーゼ:帝国の三公の一角である「太尉」。重装甲の鎧を纏った老将で、殺害されたイザーク親王の叔父。

* リヒャルト・フォン・シュタインベルク:帝国の三公の長である「司徒」。太皇太后の兄であり、皇帝アラリックおよび皇后ロザリアの祖父。

* ジョヴァンニ・フォン・シュタインベルク:帝国の「尚書令」。リヒャルトの息子で、皇帝の叔父、皇后ロザリアの父にあたり、行政の実権を握る。

* ゲオルグ・フォン・フェルゼン:帝国の「侍中」を務める老政治家。

* ベアトリクス・フォン・オルデンブルク:土木・国家事業を統括する帝国の「司空」。

* ロザリア・フォン・シュタインベルク:皇后。皇太后の姪で皇帝の従妹にあたり、知謀に長けた進言を行う。

* エスゲイ・バール:騎馬民族グラッデェの首領で、「神の鞭」「草原の暴君」と恐れられる老覇王。長男の復讐のため35万の大軍勢を率いて侵攻した。

* カザン:エスゲイの長男(庶子)。15万の軍勢でアンチアルマを攻略するも、アクスアルブ近郊でブランガに敗れ戦死した。

* ベグ:エスゲイの次男(嫡子)。西の大秦国を陥落させた功績を持つ英雄。

* カガン:エスゲイの三男(嫡子)。功名心が強く血気盛んな若武者だったが、アンチアルマ城壁でブランガに討ち取られた。

* カサル:エスゲイの弟で、カガンたちの叔父。大弓の名手である歴戦の勇士。

* タルス:エスゲイの同母弟で、グラッデェ軍の最高宿将(軍師)。アンチアルマの攻城戦でブランガに打ち取られた。

用語集一覧

* アルストラーナ帝国:物語の舞台となる巨大な帝国。内部の腐敗や後継・権力闘争、西方からの異教徒侵攻により混迷を極めている。

* アクスアルブ:帝国南西部に位置する、交易路とレミ川・アシェロン川の水運が交差する繁栄した都市。ブランガが最初に勢力を築いた拠点。

* 古都アンチアルマ:帝国北方の要衝であり文化と繁栄の象徴。グラッデェにより一度落とされたがブランガが奪還し、最後は激しい攻防戦の舞台となった。

* 帝都ラーナ:アルストラーナ帝国の心臓部であり、白亜の城壁と「大理石の玉座の間」を備える宮殿が存在する。

* ヴェロニカ峠:山脈の入り口に位置する山隘。ブランガが火縄銃隊を率いてグラッデェの先鋒3万を退けた地。

* アイゼン平原:遮るもののない大平原。ブランガが野戦陣地を構築し、1万1千の兵でグラッデェ10万を打ち破った場所。

* グラッデェ:中央の大草原を拠点とする広大な遊牧騎兵民族連合。圧倒的な機動力と弓術を誇り、大秦国を滅ぼした。

* 大秦国:かつて文明の発祥地と謳われ不落の城壁を誇ったが、グラッデェによって徹底的に破壊・滅亡させられた西の国家。

* 火縄銃・三段撃ち:ブランガが黒色火薬と鉄を組み合わせて大量生産させた改良型火器と、絶え間なく鉛弾を打ち出すために編み出した革新的な射撃戦術。

* 鉄の砦(移動式鉄砦):馬車に鉄板を張り、銃撃用の銃眼を設けて野戦で即座に陣形を組めるようにブランガが考案した新兵器。

* 黄金の獅子剣:皇帝から賜与される帝国軍全軍に対する絶対的な軍権の象徴たる宝剣。

* 『水鏡』『水明』の称号:戦功により与えられる帝国最高の特権称号。正規軍から無条件で5千の兵を借り受ける権限や、「黄金の獅子剣」の最高指揮権を代理する法的権利を持つ。

* 乾燥蓮根:セレスティア領の特産物で、非常食用に高度な加工が施された高度な保存食。セレスティア側からブランガ軍へ「籠城して春まで生き延びろ」という挑発・蔑みを込めて届けられた。

* 枡形(ますがた):城門の奥に作られた、高い石壁で囲まれた半円形の殺戮空間(キルゾーン)。


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