『人海という名の絶望』
紫の信号弾が夜空に弾け、同時に古都アンチルマの地下水門が開放された。大河コミュシュルツからひかれた生活用水路である。大地を突き破って溢れ出した激流は、瞬く間に平原を底なしの泥濘へと変え、グラッデェ自慢の三十五万騎をその足元から絡め取った。
完璧な策だった。ブランガ・オデュヌの計算では、これで勝負は決するはずだった。
だが、彼は「騎馬民族グラッデェ」という獣の本質を、まだ完全には理解していなかった。
「馬が動かぬなら、歩め! 泥を味方の骸で埋め立てて突き進め!」
本陣に轟いた覇王エスゲイ・バールの咆哮は、絶望の淵にあった三十五万の軍勢を、一瞬にして狂気の軍隊へと変貌させた。
馬を失ったグラッデェの戦士たちは、狂ったように笑いながら泥の中に飛び込んだ。彼らは底なし沼に沈みゆく自らの愛馬の背を「踏み台」にし、さらに泥に足を取られて倒れた味方の身体を容赦なく踏みつけ、文字通り「肉の絨毯」を敷き詰めてアンチアルマの城壁へと殺到したのである。
「化け物か、奴らは……!」
城壁の上で、副官が恐怖に声を震わせた。
水計も、背後からの五万の伏兵も、グラッデェの圧倒的な「数の暴力」の前には、ただの遅滞戦術に過ぎなかったのだ。五万の帝国騎士団が後方をどれほど蹂躙しようとも、残りの二十万人以上の狂戦士たちが、泥を血で染めながらアンチアルマの城壁へ津波のように押し寄せてくる。
東、西、南の城壁には、同時に何千本もの梯子がかけられた。一本の梯子を突き落としても、その下には十本の梯子が、そして一人の兵を斬り落としても、その後ろには百人の兵が控えている。
「防衛線が持たん! 各所で壁が突破されているぞ!」
悲鳴のような怒号が飛び交う。ついに、数の暴力が知略の堤防を完全に決壊させた。
◇
「死ね、東方の弱卒どもが!」
一番に城壁を這い登ってきたのは、叔父カサル率いる北方の精鋭たちであった。彼らは城壁に足をかけるや否や、恐るべき体術で帝国の防衛兵たちを次々と斬り伏せていく。カサルが放つ矢は、城壁の防備の要となる騎士たちの喉笛を正確無比に射抜いた。
「左翼崩壊! 敵が市街へ流入しています!」
正面門を死守していたブランガの耳に、最悪の報せが届く。
城壁の至る所から、黒い毛皮を纏ったグラッデェの兵たちが、飢えた狼のように城内へと飛び降りていく。彼らは民家に火を放ち、手当たり次第に住民を虐殺しながら、正面門の「裏側」を目指して進撃を始めた。
内と外からの挟撃。一万五千しかいない防衛兵は、すでにその数を三分の一にまで減らしていた。
「閣下、もう限界です! ここは一度、本国軍の陣へと退避を!」
副官がブランガの甲冑を掴み、必死に叫んだ。
しかし、周囲を見渡せば、市街のあちこちから黒煙が上がり、退路となるべき東門の方向からもグラッデェの鬨の声が聞こえてくる。アンチアルマはすでに、完全に包囲され、内部から貪り食われつつあった。
その時、崩壊した正面城門の向こう、赤黒く染まった泥の海を割って、ひときわ巨大な影が近づいてくるのが見えた。
馬を捨て、己の足で泥を踏みしめて歩んでくる老将。
手にした黄金の宝剣からは、滴り落ちる血が泥を赤く染めている。
覇王エスゲイ・バール。
彼の周囲には、一度は恐怖に怯えたものの、覇王の執念に引きずられるようにして狂暴さを取り戻した三男カガンや、無数の牙兵たちが立ち並んでいた。
「ブランガ・オデュヌ!」
エスゲイの声が、戦場のあらゆる騒音を圧して城壁の上に届いた。その双眸は、我が子カザンを討った仇を狂おしいほどの憎悪で見据えている。
「お前の知略は見事だった。我がグラッデェの足元をすくい、大軍を翻弄してみせた。だが、それでおしまいだ。貴様がどれほど優れた策を練ろうとも、我が軍の『命の数』がお前の想定を遥かに超えていれば、すべては無に帰す!」
エスゲイは宝剣をブランガへと突きつけた。
「城を枕に討ち死にするか、それとも無様に首を差し出すか、選ぶが良い!」
城壁の上に、グラッデェの兵が次々と押し寄せる。ブランガの周囲に残った兵は、もはや数十人の親衛隊のみ。彼らは円陣を組み、背中合わせになって迫り来る無数の刃を迎え撃っていた。
「閣下……!」
副官の胸を、カサルの放った矢が深く貫いた。副官は血を吐きながら崩れ落ち、そのまま動かなくなる。
「ふん、手応えのない雑兵どもめ。兄カザンがこんな連中に遅れをとったとはな」
泥まみれになりながらも、勝ちを確信した三男カガンが、再び傲慢な笑みを浮かべて城壁の上に現れた。彼の後ろには、数重にも及ぶグラッデェ兵の壁が控えている。
ブランガは、息絶えた副官の目を静かに閉じさせると、ゆっくりと立ち上がった。
彼の銀の甲冑は凹み、あちこちから自身の血が流れ出している。視界の先には、三十万の質量に圧殺され、死体の山と化した古都アンチアルマの惨状が広がっていた。
どんな奇策も、どんな伏兵も、すべてを圧し潰す圧倒的な「数の暴力」。
それが、大陸の四割を支配下に置いた覇王の、真の恐ろしさであった。
「まだだ……」
ブランガは、血に濡れた剣を両手で強く握り直した。その瞳からは、まだ光が消えていない。
「数の暴力で全てを踏みつぶすというのなら……その数の頂点に立つ、お前の首を叩き落とすまで!」
絶体絶命の極限状態の中、ブランガ・オデュヌは退くことなく、眼下に佇む覇王エスゲイ・バール、それから城壁を埋め尽くす無数の敵に向けて、最期の突撃を敢行せんと地を蹴った。数万の敵兵が彼一人の肉体に牙を剥かんと殺到する、まさに破滅の瞬間であった。
登場人物一覧
* ブランガ・オデュヌ:都督の庶子である20歳の青年。異国風のベストに片刃の剣を帯び、卓越した戦術眼、兵站の把握力、火縄銃の「三段撃ち」などの革新的な軍制で破竹の勢いを見せるが、孤立無援の中でグラッデェ軍と戦い戦死した。
* ヴォルフラム:上質な羊毛のタバードを身に纏い、大剣を背負う流浪の吟遊詩人であり剣士。ブランガの副官として行動を共にする。
* アラリック:アルストラーナ帝国第14代皇帝(26歳)。若き支配者として憂いを抱えつつ、弟イリアードと共にブランガやグラッデェに対抗する思惑を巡らせる。
* イザーク親王:第14代皇帝アラリックの異母弟で、ボルゲーゼ親王領の君主。逃走中にブランガに救われるが、後にブランガを恐れて殺害を企て、逆に対策されていたブランガの手で誅殺された。
* イリアード親王(セレスティア親王):皇帝アラリックの異母弟で、フェルゼンヴァルデン砦にて13万の軍を預かる。「黄金の獅子剣」を託され、電撃的に補給路を断つことでブランガをアンチアルマに孤立させた。
* リゼリア(『水鏡将軍』):イリアード親王の妻。「遠見の眼」と「魂の潮流を読む力」を持つ異能の持ち主で、フェルゼンヴァルデン砦から戦況を見通し最高指揮権の代理資格を持つ。
* セシリア(『水明将軍』):リゼリアの従妹。リゼリアと共に帝国最高の特権称号を持ち、最高指揮権の代理資格を保持する。
* マートル・フォン・ブライトクロイツ:帝国の「中書令」。前帝の貴妃ソフィアの弟で、名門ブライトクロイツ家の当主。
* ヴァレリオ・フォン・ボルゲーゼ:帝国の三公の一角である「太尉」。重装甲の鎧を纏った老将で、殺害されたイザーク親王の叔父。
* リヒャルト・フォン・シュタインベルク:帝国の三公の長である「司徒」。太皇太后の兄であり、皇帝アラリックおよび皇后ロザリアの祖父。
* ジョヴァンニ・フォン・シュタインベルク:帝国の「尚書令」。リヒャルトの息子で、皇帝の叔父、皇后ロザリアの父にあたり、行政の実権を握る。
* ゲオルグ・フォン・フェルゼン:帝国の「侍中」を務める老政治家。
* ベアトリクス・フォン・オルデンブルク:土木・国家事業を統括する帝国の「司空」。
* ロザリア・フォン・シュタインベルク:皇后。皇太后の姪で皇帝の従妹にあたり、知謀に長けた進言を行う。
* エスゲイ・バール:騎馬民族グラッデェの首領で、「神の鞭」「草原の暴君」と恐れられる老覇王。長男の復讐のため35万の大軍勢を率いて侵攻した。
* カザン:エスゲイの長男(庶子)。15万の軍勢でアンチアルマを攻略するも、アクスアルブ近郊でブランガに敗れ戦死した。
* ベグ:エスゲイの次男(嫡子)。西の大秦国を陥落させた功績を持つ英雄。
* カガン:エスゲイの三男(嫡子)。功名心が強く血気盛んな若武者だったが、アンチアルマ城壁でブランガに討ち取られた。
* カサル:エスゲイの弟で、カガンたちの叔父。大弓の名手である歴戦の勇士。
* タルス:エスゲイの同母弟で、グラッデェ軍の最高宿将(軍師)。アンチアルマの攻城戦でブランガに打ち取られた。
用語集一覧
* アルストラーナ帝国:物語の舞台となる巨大な帝国。内部の腐敗や後継・権力闘争、西方からの異教徒侵攻により混迷を極めている。
* アクスアルブ:帝国南西部に位置する、交易路とレミ川・アシェロン川の水運が交差する繁栄した都市。ブランガが最初に勢力を築いた拠点。
* 古都アンチアルマ:帝国北方の要衝であり文化と繁栄の象徴。グラッデェにより一度落とされたがブランガが奪還し、最後は激しい攻防戦の舞台となった。
* 帝都ラーナ:アルストラーナ帝国の心臓部であり、白亜の城壁と「大理石の玉座の間」を備える宮殿が存在する。
* ヴェロニカ峠:山脈の入り口に位置する山隘。ブランガが火縄銃隊を率いてグラッデェの先鋒3万を退けた地。
* アイゼン平原:遮るもののない大平原。ブランガが野戦陣地を構築し、1万1千の兵でグラッデェ10万を打ち破った場所。
* グラッデェ:中央の大草原を拠点とする広大な遊牧騎兵民族連合。圧倒的な機動力と弓術を誇り、大秦国を滅ぼした。
* 大秦国:かつて文明の発祥地と謳われ不落の城壁を誇ったが、グラッデェによって徹底的に破壊・滅亡させられた西の国家。
* 火縄銃・三段撃ち:ブランガが黒色火薬と鉄を組み合わせて大量生産させた改良型火器と、絶え間なく鉛弾を打ち出すために編み出した革新的な射撃戦術。
* 鉄の砦(移動式鉄砦):馬車に鉄板を張り、銃撃用の銃眼を設けて野戦で即座に陣形を組めるようにブランガが考案した新兵器。
* 黄金の獅子剣:皇帝から賜与される帝国軍全軍に対する絶対的な軍権の象徴たる宝剣。
* 『水鏡』『水明』の称号:戦功により与えられる帝国最高の特権称号。正規軍から無条件で5千の兵を借り受ける権限や、「黄金の獅子剣」の最高指揮権を代理する法的権利を持つ。
* 乾燥蓮根:セレスティア領の特産物で、非常食用に高度な加工が施された高度な保存食。セレスティア側からブランガ軍へ「籠城して春まで生き延びろ」という挑発・蔑みを込めて届けられた。
* 枡形:城門の奥に作られた、高い石壁で囲まれた半円形の殺戮空間。




