婚約破棄されたので、王都のど真ん中に自分専用の『足湯』を掘りました ~温泉に夢中になっていたら、恋敵まで常連客になっていました~
婚約破棄されたので、王都のど真ん中に自分専用の『足湯』を掘りました
「エリアーナ・フォン・シルバーストン! 貴様のような無愛想で色気のない女との婚約など、もはや我慢ならん! 本日、この時をもって破棄とする!」
王立アカデミーの卒業記念パーティー。
大理石の床に靴音を響かせ、第二王子エドワードが右腕を振り上げた。
その隣には、桃色の巻き髪を揺らし、これ見よがしに胸元を寄せている男爵令嬢コレットがいる。
「そうですわ、エリアーナ様。殿方の隣に立つのは、冷たい鉄のような女ではなく、花のように寄り添うわたくしこそがふさわしいのです!」
二人の背後では、取り巻きの貴族たちがヒソヒソと嘲笑を浮かべていた。
悲鳴、あるいは涙の訴えを期待していたエドワードは、ふんぞり返って顎を突き出す。
しかし、指をさされた当の本人はといえば。
「……えっ。今、破棄って仰いました?」
エリアーナは目を丸くし、持っていたグラスを両手で包み込んだ。
その表情に浮かんだのは、絶望でも屈辱でもなく――満面の、澄み切った、春風のような笑顔だった。
「はい! 喜んでお受けいたしますわ!」
「……は?」
「あ、言質は取りましたからね! 皆様、お聞きになりましたわね? 王子殿下の明確な意思による婚約破棄です! これで私は、王家直轄領の管理義務も、毎週末の退屈極まりないマナー講習も、全部お役御免ですわ!」
「な、何を言っている……!?」
狼狽するエドワードを置き去りにし、エリアーナは胸の奥で高らかにガッツポーズを決めていた。
実を言えば、彼女には前世の記憶があった。
日本の片隅でシステムエンジニアとして連日デスマーチを生き延び、休日にはひたすら全国の温泉地を巡って湯に浸かることだけを生きがいにしていた、筋金入りの「温泉オタク」の記憶である。
この世界に転生して十八年。
厳しい王妃教育に縛られ、温かい風呂といえば侍女に湯加減を見張られながら入る浅いバスタブのみ。
肩まで浸かって「ふはぁ〜っ」と息を吐く至福の時間は、一度たりとも許されなかったのだ。
「私、ずっと我慢していたんです。王太子妃になる身で土いじりや探鉱など言語道断と止められていましたが……もう自由なんですね!?」
「え、あ、いや、自由というか……追放的なニュアンスで言ったのだが……」
「ありがとうございます殿下! コレット様もどうぞ殿下をお好きになさってください! では、手前どもはこれにて!」
エリアーナはドレスの裾を豪快にたくし上げると、優雅な淑女走りで会場の扉へと猛ダッシュした。
残されたエドワードとコレットは、ポカンと口を開けたまま立ち尽くすしかなかった。
* * *
翌朝。
王都の中央広場に隣接する、エリアーナ個人の私有地。
ここはかつて亡き祖父から譲り受けたものの、「街外れのガラクタ置き場」として誰も見向きもしなかった空き地である。
「よしっ、やるわよ!」
エリアーナは作業用の麻ズボンに長靴、頭には手ぬぐいを姉さん被りに巻いて、つるはしを肩に担いだ。
「お、お嬢様……! 本当に掘るのですか!? 元王太子妃候補が、自らツルハシを振るうなど……!」
駆け寄ってきた専属侍女のリーネが、卒倒しそうな顔でハンカチを握りしめている。
「何を言ってるのリーネ。ここは王都の断層が交差する地質学的な要衝よ? 王城の古文書によれば、三百年前にこの一帯から『熱い泥水』が噴き出して封印された記録があるの。……あれは泥水じゃない。温泉よ!」
「おんせん……?」
「いいから見てて! 前世の知識と、私の得意な土属性魔法を合わせれば――ハッ!」
エリアーナがつるはしを地面に突き立て、魔力を流し込む。
地中で眠っていた魔力の脈動が、ぐらりと大地を揺らした。
ズガンッ!
石を砕く音が響き、エリアーナは土を掻き出し、手頃な岩を並べて囲いを作っていく。
令嬢離れした見事な腰の入れ方である。
掘り進めること三時間。
深さ五十センチほどの細長い溝を掘り、周りに磨いた平らな石をベンチ代わりに敷き詰めたその時――。
ボコッ……ボコボコッ!
「キャッ!?」
リーネが飛び退く。
掘り割りの底から、澄んだ湯がこんこんと湧き出し始めた。
ふわりと立ち上る白い湯気。
微かに漂う、懐かしい鉱物の香り。
「き、キタァァァーーーッ!! 単純弱アルカリ性温泉! 湧出量も温度も完璧、推定四十二度!」
エリアーナは履いていた長靴と靴下を勢いよく脱ぎ捨てると、裾を膝までまくり上げ、惜しげもなく白い足を湯へと沈めた。
ジュワァァァ……。
「……ッ、んんんんんっっっ……!!」
全身の毛穴が歓喜の悲鳴を上げた。
歩き疲れた足先から、じんわりと芯に向かって熱が染み渡っていく。
肩の力が抜け、首が後ろへとカクンと倒れた。
「ふはぁぁぁぁぁぁぁ……。生き返る……。これよ、この世の極楽はここにあったのよ……」
「お、お嬢様!? 顔が! 貴族令嬢の作法をすべてドブに捨てたような顔になってます!」
「いいのよリーネ、もう貴族じゃないんだから! ほら、あなたも靴脱いで入りなさい! 立ち仕事でふくらはぎパンパンでしょ!?」
「えっ、でも私のような使用人が……あ、熱っ……えっ、温か……ほわぁぁぁぁぁ……」
リーネもまた、三秒後には骨抜きの表情になってエリアーナの隣で脱力した。
秋の涼しい風が、火照った頬を撫でていく。
小鳥のさえずりと、コトコトと湧き出る湯の音。
敷地を囲むレンガ塀の向こうの喧騒が、まるで遠い異国の出来事のように思えた。
* * *
それから数日後。
エリアーナの「足湯処・シルバーストン」は、口コミで急速に賑わいを見せ始めていた。
最初は遠巻きに見ていた市場の行商人たちが、
「なあ嬢ちゃん、それ、本当に足入れていいのか?」
「どうぞどうぞ、初回無料! 二回目からは銅貨一枚ね!」
と試したのが運の尽き。
「うおおおっ、足のむくみが一瞬で消えた!」
「昨日の腰痛が嘘みたいに軽いぞ!?」
「嬢ちゃん、塩握り飯持ってきたから食いな!」
噂は瞬く間に広がり、今や王都の職人、八百屋の親父、非番の衛兵、さらには買い出し帰りの他家のメイドたちまでが、長い丸太の腰掛けにずらりと並んで足を湯に浸けていた。
「お嬢様、本日の売上、銅貨で麻袋三杯分になりました」
すっかり足湯の番頭が板についたリーネが、ホクホク顔で報告してくる。
「上出来ね。あ、そこの大工さん! お湯から上がったらちゃんと手ぬぐいで指の間まで拭いてね、冷えちゃうから! あと冷たい麦茶一杯十層モル(銅貨一枚)だよ!」
「へい、女将おかみさん!」
エリアーナがすっかり町人たちに馴染んで「女将」と呼ばれていたその時――。
「え、エリアーナッ……!? き、貴様、ここで一体何をしているんだ!」
甲高い、裏返った声が響いた。
見れば、豪奢なマントを羽織ったエドワード王子が、取り巻きの騎士たちを従えて呆然と立ち尽くしていた。
その隣には、高いヒールでぬかるんだ道を歩かされて不機嫌そうなコレットの姿もある。
エリアーナはタライと手ぬぐいを抱えたまま、パチクリと瞬きをした。
「あら、エドワード元殿下。見ての通り、足湯の営業中ですが?」
「あ、足湯……!? 貴様、公爵令嬢の身でありながら、そのような下民どもと素足を晒して戯れるなど……恥を知れ!」
「恥? なんのことでございましょう。私はすでに勘当同然で婚約を破棄された身。自力で真っ当に稼いで納税しておりますわ。それに殿下、下民とおっしゃいますが……」
ずらりと並んだ客たちが、一斉にエドワードを睨みつけた。
筋骨隆々の鍛冶屋の親父が、湯からバシャリと足を上げて立ち上がる。
「ああん? 誰が下民だって?」
「おれたちのオアシスを侮辱する気か、このボンボンが!」
「ひっ……!?」
エドワードが情けなく一歩後退る。
コレットがすかさずエドワードの腕にしがみつき、眉をひそめて叫んだ。
「エドワード様! こんな泥水に足を突っ込むなんて不潔ですわ! 行きましょう、早く王宮へ戻って舞踏会の準備を……」
「泥水とは聞き捨てなりませんね、コレット様」
エリアーナがスッと目を細めた。
「あなた、さっきから足元がふらついて、顔色も青白いんじゃありませんこと? 無理なコルセットの締め付けと、高すぎるヒールで血行不良を起こしていらっしゃるわ。冷えは美容の大敵ですのよ?」
「な、なんですって!? わたくしが冷えているですって!?」
「まあ騙されたと思って、そこの端っこに足を入れてごらんなさいな。初回無料ですから」
「だ、誰がそんな――」
言いかけたコレットだったが、漂ってくるほんのり甘い湯気と、隣の八百屋のばあちゃんが「極楽だよ〜」と蕩けた顔をしているのを見て、ゴクリと喉を鳴らした。
実は今朝から立ちっぱなしで、足の指の皮が擦り切れて激痛だったのだ。
「……す、少しだけですからね! 殿下、少し休ませていただきますわ!」
「おい、コレット!?」
コレットは強引に靴とタイツを脱ぎ捨て、恐る恐る湯に足を差し入れた。
ちゃぽん。
「……っ」
コレットの背筋がピーンと伸びた。
瞳孔が開き、口元が微かに震える。
「……あ、あったかい……。なにこれ……足の裏から、じわ〜って……なんか、どうでもよくなってくる……」
「でしょう? 血の巡りが良くなると、余計なイライラも消えるのよ」
「ほわぁ……。殿下ぁ……もう王宮帰りたくないですぅ……。ここで一生、足をふやけさせていたいですぅ……」
「コレットーッ!? しっかりしろ! お前、我が妃としての誇りはどうした!」
エドワードが絶叫するが、コレットは完全に白目を剥いてトロトロに溶けていた。
「殿下も……入りなよぉ……すっごい気持ちいいからぁ……」
「入るかぁぁぁ!!」
赤面したエドワードは、周囲の客たちから「坊ちゃんも頭冷やす前に足温めな」「素直になりなよ〜」とからかいの野次を浴び、一人で蜘蛛の子を散らすように逃げ帰っていった。
* * *
それからひと月後。
王都の片隅にあった「足湯処・シルバーストン」は、隣接する土地を買い取り、ついに本格的な『日帰り温泉施設・銀の湯』としてリニューアルオープンを果たしていた。
木造の香りが心地よい露天風呂、打たせ湯、さらには前世の知識を総動員して作った「サウナ」まで完備。
貴族も平民も関係なく、誰もが布を巻いて同じ湯に浸かり、「いい湯だな」と笑い合う平和の聖地となっていた。
「エリアーナ様、本日も開店前から大行列です!」
番頭服をビシッと着こなしたリーネが、帳簿を抱えて走ってくる。
「ありがとうリーネ。あ、サウナの熱波師アウフグース担当の騎士団員たちに、しっかり水分補給させるように伝えてね」
「かしこまりました!」
ふと見れば、休憩スペースの畳の上で、すっかり温泉の常連となったコレットが、風呂上がりのフルーツ牛乳を腰に手を当てて一気飲みしていた。
「ぷはぁーっ! やっぱりサウナの後のこれは最高ね! あ、エリアーナ様、エドワード様からまた『戻ってこい』って手紙が来てましたけど、破いて薪にしておきましたわ!」
「あら、いい燃料をありがとうコレット」
エリアーナはカラリと笑い、自慢の大浴場を見渡した。
王宮の窮屈なドレスも、義務だらけの結婚も、ここには何一つない。
あるのは、心地よい湯加減と、人々の屈託のない笑顔、そして冷たい牛乳だけだ。
「さあて、今日もひと風呂浴びてから、仕事にかかりますか!」
湯気で曇った青空を見上げながら、元悪役令嬢……改め、王都随一の温泉街の若女将は、どこまでも爽快に腕を伸ばした。
全文を最後まで整えました。台詞ごとの改行、地の文の段落分け、場面転換の余白を入れています。ストーリーや結末はそのままで、読みやすさを優先した版です。




