美貌の不幸
私はもうじき三十に手が届こうという歳なのに、今まで恋らしい恋をしたことがなかった。
色が黒くて、目つきが悪くて、高校の時に突っ張って、剃りこみを入れたからだろうか。
それとも、ファーストキスが小学校三年、初体験が中学一年というのが悪かったのだろうか。
キスにしろ、初体験にしろ、恋だったというよりは、女の子に弄ばれたという実感しか残っていない。
つい最近まで結婚もしていた。
私は真面目で正直で品行方正で、妻一筋の男だったのに、妻は他に男を作って、去って行ってしまった。
結婚してくれと言われて結婚し、別れてくれと言われて別れてしまった。
恋一つしたことのない私なのに、職場では『プレイボーイ』だという噂が流れていた。
誰にでもすぐに手を出すプレイボーイ。
お陰で、私は女の敵のように見なされて、女子社員は私を避けるか、妙に接近し、男子社員には白い目で見られるという立場にあった。
一体どうすればいいのだ、と思っていた時に、彼女が現れた。
元妻が身体のでかい大女だったので、見た瞬間、本当に何て小さくて可愛い女性なんだろう、と思ってしまった。会社の休み時間で、出張でこっちに寄ったという元部下の高橋と一緒だった。
「前田さんの話をしたら、ぜひ一度会ってみたい、と言うもので」と高橋が言った。
「ほんまに聞いてた通りですね」と言って、彼女はジッと私の目を見た。
その瞬間に、私は恋に落ちたのだと思う。
未だかつて、私の目を正面から覗き込んだ女性はいなかった。
私の目つきの悪さに恐れをなして、チラチラと遠くから私を見るか、顔を見ないようにして、身体を寄せてくるのが、大抵の女性のやり方だった。
「ボクはちょっと所長に挨拶してきます」と高橋が行ってしまったので、私は困惑した。
「お茶でも飲みません?」と彼女が言った。
「は、はあ」と私は困惑したまま、喫茶室に向かった。
女性と二人っきりでお茶を飲むなんて、考えてみれば、生まれて初めてのことだった。
「実は、女性とお茶を飲むなんて、生まれて初めてなもんで」と私は正直に言った。
「けど、結婚してらっしゃるんでしょ?」
「いや、実は」と私は、ありのままに離婚の経緯を伝えた。
そうか。高橋は、まだ私が離婚したことを知らなかったのか。
「私もね」と彼女は笑いながら、「同じ境遇」と言った。
しばらく同じ境遇について話をしてから、私は時計を見、休憩時間が終わる旨を彼女に伝え、高橋の待っているフロアに戻った。
「大淀さん、ボクはもう帰りますけど、どうします?」と高橋は、彼女に言った。
「もちろん、一緒に帰ります」
「それじゃ」と高橋と彼女は帰って行った。
彼女は、高橋の何なのだろうか。
「もちろん」とは、どういう意味なのだろうか。
「前田さんよ」「あ、前田さん」という女子社員のいつものささやき声を後にしながら、私は考え続けていた。自分の悪い噂は、充分に知っていた。
ああ、どうしたらいいんだ、と私は、自分専用のコンピューター、PC9801を抱いて、心の中で叫んでいた。ついこの間の出張研修で、47パーセント引きで買ったばかりの機械だ。
仕事は暇で、同じオフィスにいる部下達は、それぞれ私用電話をかけていた。いつもなら注意するところだったが、頭の中が彼女のことで満員だったので、放っておいた。
私は、突然立ち上がり、所長室のドアをノックもせずに開け、「所長、高橋の現在位置は!」と叫んでいた。
「大阪支店! だが、今は車の中!」と所長は早弁を見つかった中学生みたいに、喉に何かをひっかけながら答えた。
「ま、彼女連れらしいから、ハッキリしたことはわからんが」
・・・・彼女・・・連れ・・・・
「所長!」と私は半泣き状態だった。
「そう言ったんですか、高橋が!」
「前田」と所長は落ち着きを取り戻して言った。
「悪い癖だ」
そして、ポンポンと私の肩を叩いた。
「その女癖のせいで、奥さんが出て行ったのが、わからんのか」
「ち、違う」
「確かに、お前は女にもてるだろう。
お前が出社してくる前は、誰がお前の机を拭くか、誰がお前にお茶を運ぶかで、女子社員は命がけの死闘を繰り広げている。バトル・デスマッチだ。
お前が出社すると一旦は収まるが、それでも目を離せば、陰で蹴り合いをしていたりする。
やかましくて仕方が無いから、この間、当番表を作ってやった。
特に、お前の離婚が知れてからが大変だ。
ま、それはともかく、人の彼女にまで手は出すな。前の人妻に手を出した時にこりただろう。
何回、よそ様の家庭を破壊したか、自分でわかっているのか」
「私は、ただ、車で送って行っただ……」
「車か……よくあることだ。ま、その顔じゃ、お前ばかりを責めることもできんが」
わけもわからないままガックリして、所長室を後にした。
高橋の彼女か。
自分の顔を怖がらなかった初めての女性が、元部下の彼女とは……
オフィスに戻ると、部下が「大淀さんという人から電話がありましたが」と伝えた。
「どこの大淀さん?」と私はイライラして尋ねた。
「ちょっと大阪なまりのある女の人でしたが」
とたんに、目の前が明るくなったり暗くなったりした。
彼女だ。
何の用だったんだろう。
何でここにいなかったんだ、私は。
私は、バカだ、所長室に行くなんて。
彼女は、私と話をしたかった……いや、そんなこと……高橋の彼女なんだから……何で、高橋の彼女なんだ!
ルルルルルー、と電話のベルが鳴り、部屋の中にいた四人の男は、各机の上にある電話機を見ていた。誰かが取るだろう、と思っているのだ。
「渡辺!」と叫ぶと、渡辺の隣にいた藤川が慌てて電話を取った。
「課長、インフォメーションから」
「はい」と私は、ガクッと肩を落としながら、電話に出た。何で、大淀さんじゃないんだ。
「前田課長?」といつも私が出社すると、隠れて待っていて、突然とおせんぼをする、変わった女が言った。
「伝言をことづかってます。読みましょうか? 『お暇な時に、お電話ください。大淀ルミ子』電話番号は……」
市外局番つき電話番号を、相手が最後まで言い終わらないうちに、私はインフォメーションの前に立っていた。
最近運動不足のせいか、階段を三階から駆け下りただけで、息が切れていた。
私がハアハア言いながら手を出すと、受付の変な女は、メモをひらひらさせて、私をからかった。
「電話するんですか?」
「する」
「ふーん」とメモが手の中に落ちてきた。
「聞いてやろう」
「内戦なんか使うか」
と言いながら、結局外に行く時間も惜しくて内戦でかけ、そうか、まだ帰ってないか、当たり前か、の留守番電話に、自分のアパートの電話番号を吹き込んでおいた。
また、留守中に、大家の娘が上がりこんでないといいけど。
残りの一日は、異常に長く感じられた。
大淀ルミ子前と後とでは、時間の進み方が百倍は遅くなったようだ。
時々、わけもなく、涙が出そうになる。
胸が変にドキドキする。
頭が、ボオッとする。
習慣化した残業を終え、車を運転しながら、寝ているわけでも無いのに、頭だけが異次元の世界に行ってしまったような気がした。
案の定の大家の娘を部屋から追い出し、冷蔵庫の中をのぞきながら、「これじゃあね」と言って、腕まくりを始めた大家の奥さんに出て行ってもらい、部屋の中から鍵をかけ、あまりに何回も見たので、ほとんど脳細胞に刻み込まれてしまった電話番号を回そうとした。
ジリリリリーン、とそのとたんにベルがなったので、「うわ」と電話機を取り落とした。
「もしもし、前田さん?」
「は、はい」
「今日お会いした大淀です。覚えてはるかな?」
「もちろん覚えています」
あれから百年は過ぎた気がした。
「高橋は一緒ですか?」と私は平静な声を出したつもりだったが、語調が異常に強いのを意識していた。
「高橋さん? 何で?」
何で、と言われて、グッとことばに詰まった。
「高橋と付き合ってるんでしょう」と詰問口調になってしまった。
「いややわ。高橋さんは、ただの友達。詳しく言うたら、高橋さんの奥さんの友達」
「え!」と私は驚いた。
高橋が結婚したことなんて、全然知らなかった。
「じゃあ、高橋の彼女じゃない。それなら、ボクの彼女になってくれませんか」
「ほんまに、プレーボーイ」と彼女は、クスクス笑った。
「いつも、こんなんですか?」
「こんなん、自分の方から言うたこつ、生まれて初めてばい」と思わず、生まれ故郷の方言が出た。よほど焦っているのだろう。
「ボクは酒も飲まんし、タバコも吸わん。女遊びもしたことない。目つきは悪いし、色は黒いで、イヤかもしれんが、付き合ってくれたら、一生大事にします」
「はい、はい」と相手は言った。
「信じてくれんね」
「それだけの美貌の主にそこまで言われたら、百人のうち九十九人は本気にしますね」
「美貌の主? 誰のことね?」
「ハンサムな前田さんのこと」
「ハンサムやの美貌やの、生まれて初めて言われた。そんなこと言うん、大淀さんだけよ」
「信じられへんな」
相手が、あーあとあくびをする声が聞こえた。
「何したら、信じてくれる?」
私は必死だった。必死が電話していたと言っても過言ではない。
この相手は、天から降って来た相手であり、百年の恋の相手、生まれて初めての恋の相手だと確信していた。
「今から会いに来てくれたら」
「行く」と言うなり、ブルゾンをひっかけ、車のエンジン音を響かせていた。
相手の住所を知らなかったということに気がついたのは、名神高速の吹田インターチェンジに差し掛かった時だった。
あんまり腹が立ったので、インターで降りて、一番最初に目についたスーパーの駐車場の鉄柱を二~三本引き抜いて、車を駐車させ、公衆電話に向かった。
「一体、何なんですか」という相手の無愛想な声は、私の繊細な神経をズタズタにした。
「今、吹田です」と私は言った。
「今、三時ですよ、夜中の」と相手は言った。
「信じられへん」
「ボクのどこが信じられん。今から行くから住所を教えて」
私は住所を頭に叩き込むと、近くにあったタクシー会社のドアを蹴破った。
「タクシーを出さんと!」
「ほんまに、今寝たとこやったのに……」
とブツブツ言いながら、中年の運転手は服を着替えて、「早くせんと、早く!」と叫ぶ私をなだめながら、イライラするぐらいゆっくりと壊れたドアを点検し、「あーあ」と言って運転を始めた。
会ってすぐ、ボクんこと信じてくれと言う。
ボクは、こんなにルミ子さんのこと好いとる、こんなに人のこと好きんなったん生まれて初めて。
ボクと付き合って、一生大事にするし、絶対裏切ったりせん、何でも言うこと聞くし、何でもして欲しいことするし、イヤなことは何もせんし、どこでも好きなとこ連れて行く、映画に行って旅行して食事に行ってホテルに行って、イヤやったら何もせん、イヤやなかったら何でもする、好きなことどんなことしても絶対怒らんし、ボクに言わんかったら一杯遊んでもいい、目の前で遊んでくれてもいい、他の男と付き合ってもいい、ボクは何にも言わんから、邪魔になるようなこと何にもせん、好きや、好きや、好きや、好きや……
運転手は首をかしげては、道路地図を懐中電灯で調べながら、あちこちを右左折している。
やっぱり結婚申し込もう。
好きやったら結婚するんが当然かもしれん。それで、新婚生活で、甘い甘い毎日を送って、行ってらっしゃいのキスしたり、お休みなさいのキスしたり、あんなことしたりこんなことしたり、毎日毎日楽しく暮らす。
ウフ、ウフ、ウフ、と思わず私の顔に笑みが浮かんだ。
けど、時には喧嘩したり、けどすぐ仲直りして、毎日毎日楽しく……毎日毎日同じ顔を見て……毎日毎日同じことを……毎日毎日……
「お客さん、もうじき着きますわ」と運転手が言った。
最初は楽しかった食事も……最初は可愛かった妻も……何年も何年も暮らしていると……段々と……いや、そんなことは絶対に無いと思うが……飽き……いや、そんなことは絶対に無い!
私に限って、それも生まれて初めて恋をした相手に飽き……いや、そんなことは絶対に無い!
「そやけど、よっぽど惚れた女でしょ」と運転手が言った。
「お客さんの血相変えた顔見た時、これは女やな、とピーンときましたわ。いや、若い頃を思い出したわ。さ、着きましたで。ほらほら、外に出て、待ってるやないですか」
「つりはいらん」と一万円札を二枚渡すと、運転手はニコッと笑って、ポンと私の肩を叩いた。
「男は度胸」
そう言って走り去ったタクシーは、私の情熱を全部持って行ってしまったような気がした。
『家に帰るから待ってくれ』とタクシーに向かって叫びそうになりながら、頭の中で何回も何回も反芻し過ぎて見飽きてしまった女の顔を、私はしみじみと眺めていた。
「今日会ったばっかりやのに」と自分の胸に飛び込んでくる女を、もうすでに『またか』と思ってしまった私がいた。
「これで信じてもらえる?」というセリフも、頭の中で何百回も繰り返して、色あせてしまっていた。
「前田さんみたいな美形にここまでされたら、誰でも信じる。さ、中、入って」
きっと目の悪い趣味の悪い女なんだと思い、ウンザリしながら、女の後についていった。
「始発は何時ね?」と私は、女がすり寄って来るのを感じながら、冷え切った声で尋ねていた。
了




