(閑話)アレクシスの夜――秘めた想いの葛藤
翌朝の動揺―「王子の迎え」でアレクシスが突然セレナを家まで迎えに行く行動の背景を、“前夜”の葛藤として表現しました。
王子としての自制心と、どうしてもセレナを見捨てられない不器用な想いを見守ってください。
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本文
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――夜の王宮は、昼間の華やかさとは対照的に静まり返っていた。
磨き上げられた大理石の床には燭台の明かりがうっすらと映り、廊下の奥は闇に沈んでいる。いつもなら、第一王子アレクシス・ヴァレンティアは執務を終えて早々に部屋へ戻り、無駄のない生活を送るのが常だった。
だが、この夜はどうしても眠れなかった。彼の胸中を満たすのは、あの舞踏会での“断罪未遂”の出来事――そしてセレナ・ルクレールという名の公爵令嬢に対する割り切れない想い。
その想いが、眠りを遠ざけ、思考を荒ぶらせている。
◆戸惑いから抜け出せぬ王子
アレクシスは自室の大きな窓を開け放ち、夜風を浴びながらぼんやりと外を眺めていた。遠くに見える王宮の尖塔や、整備された庭園の樹々に漂う微かな月光。どれも、いつもの夜と変わりない風景のはずなのに、今夜だけは妙に落ち着かない。
「何をやってるんだ、俺は……」
自嘲混じりに小さくつぶやく。
先ほどまで思い返していたのは、あの学園の舞踏会で「悪役令嬢セレナ」を断罪しようとした――いや、すべきだったはずの自分の姿。けれど実際には、断罪を最後まで実行できなかった。
彼女の冷静な表情、まるで「どうでもいいわ」と言わんばかりの無関心さ。それに、なぜか自分の心が強く痛んだ。嫌悪するどころか、「本当は俺を見てほしい」という願望が湧いた瞬間さえあったかもしれない。
◆政略婚のはずの婚約者
アレクシスとセレナは、幼い頃からいずれ結ばれる運命にあると言われてきた。“王家”と“公爵家”――二大権力の安定した政略婚。それだけの関係であるはずなのに、最近、セレナの姿が妙に視界を掠める。
本来なら「高慢な令嬢」と嫌われるキャラで、学園でもヒロイン(=リリィ)が台頭する過程で排除されていく運命だ――と、昔から決まっているかのように思われていた。
だが、アレクシスの心には、セレナへの幼い頃の記憶がうっすらと残っている。――あの可憐な姿や、誰にも見せない弱さを覗かせた一瞬の場面。いつか庭園で一緒に草花を眺めながら、ほんの少しだけ言葉を交わした記憶。
それが彼にとっては“幻”のように尊く感じられ、いつの日からか「彼女を守ってやりたい」と思うようになったのだ。
◆断罪を避けたい矛盾
リリィが大勢の前で涙ながらに訴え、セレナを追い詰める場面が来たとき、ゲームの筋書きや周囲の空気は“断罪”を求めていた。アレクシス自身も、平民出身のヒロインを肯定するために、セレナを切り捨てるのが自然な流れだった。
けれど、彼はどうしても胸の奥が裂かれるような痛みを無視できなかった。セレナの横顔が、まるで“諦め”を含んだまま自分を見つめている気がして――こんな終わり方でいいのか、と悶々と揺れ動いた。
結局、アレクシスは思わず舞踏会を中断させ、セレナを連れ出してしまった。
あれは衝動的な行為で、王族としての自制心に反したものでもあった。でも、「どうしても彼女を救いたい」という強烈な感情が、理屈を覆してしまった。
◆「彼女を放っておけない」――王子の内なる叫び
そんな彼の葛藤がピークに達したのは、翌日セレナを馬車で迎えに行こうと思い立った瞬間だ。――舞踏会で未遂に終わった断罪の翌朝、普通なら距離を置くべき相手なのに、なぜか「彼女の安否が気になる」「もう少し話したい」という想いが湧いてしまう。
政略婚で繋がれているだけだと自分に言い聞かせても、一睡もできずに気がつけば夜明け前に馬車を準備させていた。
「これはどういうことだ……俺は彼女が嫌いだったはずじゃ……?」
自室でそう自問しても、何も答えが出ない。むしろ、答えが分からないほど混乱している自分に戸惑うばかりだ。
しかし、それでも胸が焦げつくような不安に駆られて「早くセレナの顔を見たい」と思ってしまう。嫌われているかもしれないのに、わざわざ屋敷まで足を運んででも確かめたい――こんな自分が、自分で嫌になるほど情けない。
◆深夜の王宮廊下を彷徨う
ベッドに入っても寝付けないアレクシスは、夜半に起き出して王宮の廊下を歩き回る。外套を羽織り、護衛に「少し散策してくる」とだけ告げ、ほとんど無言で黙々と歩く。
月の光を浴びながら、漆黒の石壁に映る自分の影を睨むように見つめ、「こんなに脆いとは……」と唇を噛む。王子としての責任感を抱え、今まで他者への心を塞ぎ気味に生きてきた彼にとって、セレナへの動揺は生まれて初めての感情と言えるだろう。
「リリィを見捨てる形になるにせよ、セレナを助けたい……。あれこそ王として未熟なんじゃないか?」
そんな自問が頭を駆け巡る。王族ならば、政治的な流れに従って悪役令嬢を切り捨てるほうが得策だったはず。しかし、心がそれを拒んだ。――まるで、本能レベルで彼女を放っておけない。
◆王族としての宿命と“愛してはいけない”という葛藤
アレクシスには、王子として絶対的な自制心を求められる宿命がある。過剰な感情に溺れたり、私情で判断を誤ってはならない。いつも冷静でなければならず、それが“殿下は冷たい”“完璧主義”と噂される要因にもなっていた。
だが、セレナと向き合うたびに、その自制心がほんの少しずつ崩れている。舞踏会での断罪が未遂になったあの夜、彼女がうつむきながら「別に、もうどうでもいいわ」とつぶやいた姿が、彼の頭に焼き付いて離れない。
「どうでもいいわ……って、あいつは本当にそう思ってるのか? それとも……俺に期待してないだけか?」
疑問は尽きない。もし彼女が何も求めていないのだとしたら、自分は無理やり踏み込んでもいいのか? 王子としての力を振りかざすのは卑怯じゃないのか?
――けれど、それでも「俺が動かなければ、彼女はあのまま孤独に追い詰められる」と思うたびに、どうしようもなく心が突き動かされる。
◆思い出す幼き日の記憶――公爵邸の庭園
深夜、廊下の突き当たりにある大窓から庭を見下ろしたとき、ふとある記憶が蘇る。
まだ幼い頃、公爵家を訪れた際、広大な庭園の一角でセレナと鉢合わせしたことがあった。言葉を交わしたのはほんの少しだけ――「あなたが殿下なの?」という彼女の無愛想な問いに、「そうだ。名前はアレクシスだ」と返したくらいの短いやり取り。
なのに、なぜかその時の彼女の瞳が妙に印象的だった。薄黄色の薔薇の咲くアーチの下、幼子ながらもどこか寂しげな色を湛えた瞳。まるで王子に興味がないようで、王子という立場に縛られる彼への同情すらも見え隠れしていたように思えたのだ。
「気のせいかもしれない。でも……いつかもう少し話してみたいと思っていた、はずだ」
◆“断罪される悪役令嬢”を引き留める理由
政略婚だけでなく、幼い頃の記憶の断片があるからこそ、アレクシスはセレナを断罪できないのかもしれない。
自分でも驚くほど、“彼女を救いたい”という想いが強く芽生えている。――それを“愛情”と呼ぶにはまだ早いかもしれないが、少なくとも彼女を見捨てることができないのは確かだ。
その胸の奥で、小さな火がちくちくと疼く。王族としてはご法度だが、“愛してはいけない”と抑え込もうとすればするほど、大きく燃え上がりそうで怖い。
「……明日の朝、迎えに行こう。彼女に会って、確認したい。この気持ちは何なのか。あいつは今、どういう思いでいるのか……」
◆迎えの馬車を手配して――眠れぬまま訪れる朝
そう決めたときには、外の空が白み始めていた。廊下をうろついていた護衛が心配そうに「殿下、おやすみになられないのですか」と声をかけてくるが、アレクシスは軽く首を振る。
「少し早いが、今すぐ馬車を用意してくれ。……公爵邸へ行くと言ったら驚くか?」
護衛が戸惑うのも無理はない。普通なら、王子が自ら婚約者を迎えに行くなどあり得ない。だが、アレクシスは構わなかった。この衝動を抑えられないのだから。
(セレナが何を思っているかは分からない。でも、俺はもう、“冷たい王子”の仮面を被って見捨てることはできないんだ……)
◆“朝”への焦燥と期待
迎えに行く――それは無謀な行為かもしれない。周囲から見れば、“断罪”が未遂に終わった直後に、どうしてそんなに必死になってセレナを追いかけるのか疑問に思うだろう。
だけど、アレクシスにとってはこれ以上ないほど真剣だった。もしこのまま放置すれば、セレナが学園でさらに孤立し、誤解され、王家からも責められる未来が来るかもしれない。そんなのは耐えられない。
心配が募る一方で、セレナの家へ行くことで“もう二度と彼女を離さない”と決意できるかもしれないという一種の希望もあった。王族としては不器用な行動だが、彼女が自分を必要としていなくても、「少なくとも迎えに行くくらいは許されるはずだ」と自分に言い聞かせている。
◆初めての“愛に身を焼く”
“初めての恋”と呼ぶにはまだ確信が持てないが、少なくともアレクシスは“愛に身を焼く”という感覚を生まれて初めて味わっていた。
心がここまで揺さぶられるのは、政略結婚の道具に過ぎないと思っていたセレナが、いつの間にか彼の中で大切な存在になっているからに他ならない。
夜明けの蒼白い光が王宮の回廊をうっすら照らすころ、アレクシスは冷たい水で顔を洗い、迎えに行くための正装へ着替え始める。
洗面台の鏡に映る自分の顔は、苛立ちと焦燥、そして妙な期待に満ちていた。さっきまでの眠気や迷いは消え、ただ一心に“彼女と話がしたい”という思いで動かされている。
◆こうして、夜は明ける
「どうしてこうなる……?」
自室に戻りながら、ひとり小さく笑ってしまう。リリィがヒロインとして登場し、学園で彼女が目立つのは分かるが、まさか自分が悪役令嬢をここまで気にかける日が来るとは想像もしていなかった。
でも、その矛盾こそがアレクシスの“本音”に違いなかった。
――こうして、夜明けの王宮を出発した馬車は、公爵邸へ向かう。まだ夜の疲れを引きずったままのアレクシスは、車内で心臓の鼓動を落ち着かせようと瞼を閉じてみるが、まるで興奮しているかのように眠れない。
「セレナ……どんな顔をするだろう。嫌われているかもしれない。でも、嫌がられても構わない。もう少し……彼女の本心が知りたいんだ」
やがて馬車の車輪の音が、石畳を響きながら公爵家の門前で止まる――。




