帰邸と揺れる想い―「公爵家の夜」
馬車が闇夜の街道を走り、公爵家の邸宅へ到着したときは、すでに深夜を回っていた。屋敷の門が開け放たれ、待機していた使用人たちが慌ただしく出迎える。
――セレナ・ルクレールの実家である公爵家。転生したばかりの私には実感が薄いが、この国でもかなり有力な名門だと聞いている。けれど私は、ついさっきまで前世の普通の大学生だった。大豪邸に帰り着くなんて状況は、いまだに現実味がない。
馬車を降りると、すぐに執事の白髪まじりの老紳士が駆け寄ってきた。
「お嬢様、お戻りになられましたか。どうかご無事で……舞踏会での混乱については少々耳にしております」
その言葉に、私はぎくりとする。どうせ「悪役令嬢が断罪された」的な噂がもう飛び交っているのだろう。使用人たちの表情を見る限り、彼らも内心では不安なのだと思う。
セレナとして生きてきた時間を実感できず、どう振る舞うのが“正解”かも分からない。だから私はただ「ええ、大丈夫よ」と短く答え、そそくさと自室へ向かった。
長い廊下を通り過ぎ、豪奢な扉を開けた先にある部屋こそ、私――セレナの寝室。天蓋付きのベッドがあり、一歩足を踏み入れただけで、どこか貴族趣味に浸った世界観を覚える。シルクのカーテンやら、クラシカルな絵画やら、何もかもが“現実離れ”しているように見えた。
ただ、今は疲れ切っていたせいか、そんなことを驚く余裕もなかった。私は急いで着替えもそこそこにベッドへ沈み込む。頭が割れそうに重い。さすがに転生初日に“断罪イベント一歩手前”に立たされれば、誰だって疲労困憊に違いない。
「……変な日だわ。本当に、どうしよう」
吐き出すような独り言だけが闇に溶ける。
婚約破棄の流れなら今ごろ、無理やり公爵家にも迷惑がかかっているかもしれない。けれどアレクシスは今夜、断罪宣言を撤回し、私を連れ出した。そして妙な苦悩を抱いているらしい。
「もしかして、アレクシスは私に……未練があるの?」
そんなばかな、と笑い飛ばしたい。悪役令嬢はヒロインと比べれば嫌われ役だ。ゲームの王子ルートでも、特に“溺愛”されている描写なんてなかったように思う。
だが、あの複雑な瞳が脳裏に焼き付いて離れない。苦しそうに「断罪したくない」と言いかけていた彼。――もし本当に愛情があったのだとしたら、なぜ悪役令嬢ルートで断罪に至るのだろう?
「……考えても仕方がないわよね。どうせ明日になればまた状況が動くはずだし」
私はそう自分に言い聞かせ、目を閉じる。が、容易に眠れない。遠い前世の記憶と、ままならない転生後の現実とが脳内でぐるぐる回り、結局、深夜をとうに過ぎた頃になってようやく意識が薄れていった。




