世に忍ぶ桜の怪物 / feat.忍
日ノ本であり、日ノ本であらず。
そんな僻地の果て。南蛮の文化など風の噂すら届けられない、どこか遠い森の奥。
青年が一人、孤独な小屋の中で目を覚ました。
身を起こして墨色の羽織を肩にかけ、忍び足と呼ぶべき物音を立てない歩きは、軋む床の音を軽くしている。
目指すのは外へ出るための引き戸。
しかし手をかけた引き戸は立て付けが悪く、何度か揺らすことでようやく開けることが叶った
──虫の知らせというべきか。
初夏は遠く、しかしまだ肌寒い春の夜風。
そんな風が青年の頬や背筋を撫で、何かの便りを届けようと身を震わせる。
「儂を呼んでいるのか?」
風の便りを送り出したのは、いったい誰か。
空に揺蕩う御簾に姿を隠した宵の薄月か、それとも彼女に連れ従う星々か。
まさか既に目を閉じた金烏ではあるまいなと考えもしたが、それはいささか頭上の玉兎に失礼というもの。
結局、天色の瞳は差出人の捉えられず、青年は熟考に耽る。
だが視界の端を掠めたものを認めると、彼は静かに口角を上げた。
「そちらか」
それは一本の桜の木。
お世辞にも立派とはいえず、しかして天晴れと微笑みたくなるような儚い開花を魅せる、桃色の彼女。
月明かりは彼女を照らすことに不満があるのか、心許ない月光だけが樹木に降っている。
一つ、そよ風が起こるだけでハラリと薄幸の花弁を舞わせる桜は、実に諸行無常を体現していて──
「あれは……なんだ」
ヒラヒラと。
踊りを魅せた桜の花弁が達したのは、密かに開花した彼女の足元ではない。
根元の陰。月明かりにすら浴びれない場所に、彼彼女ではないものが存在した。
大きさは一丈ほど。
しかしここからではよく見えず、青年は桜へ近づく必要があった。
ならば、だからこそ。彼は不明の陰へと歩き出した。
「妖の類か。ならば戯れも一興だな」
既に青年は俗世とは離れた身。
見慣れぬ生き物を恐れ、くわばらと身を引くほど生に頓着がある訳でもなし。
ならば狐狸妖怪をお目にかかれる珍事として、興味が優先されるのも無理もない。
そして一歩、また一歩と。
青年が近づき陰が取り払われることによって、妖の全貌が明らかになった。
「これはまた、見事なものよ」
驚愕はあった。だが恐れはなく、むしろ好奇心に身を任せた自身を褒めたいと、内心で手を叩く。
それは薄紅色──ここは桜色というべきか。見事なまでに全身を桜で染めた奇怪な生き物が、自身と同色の樹木の傍で横たわっていた。
頭は妙な楕円形をしていて、身体はそう、海で獲れるという蟹や海老なるものの……桜の甲殻を纏っていた。
その鮮やかさは思わず見惚れてしまうほどで、たどり手と思われる部分は、これもまた見事な一品を備えている。
巨大で、人など一太刀で両断できそうな漆の鋏。とても手とは言えぬものだが、業物の刀を見たときと変わらぬ感動を覚えるほどで、つい触れてみたくなる魔力を秘めていた。
しかし困ったことがある。
この妖だが、先程から身じろぎをするどころか震えすらせず、ただただ散った桜の花弁のように身を桜へ預けるのみ。
「さて、どうしたものか。お主はいったいなんだ」
どこから来て、どうしてここに居て、どこへ行きたいのか。
名も分からぬし、真に妖の類ならば出会った儂はどうすることが正しいのか。
問うても返ってこない疑問を口にして、応えてくれるのは桜の彼女と流離いの夜風だけ。
──だが桜の花弁が一枚、妖の頭に降ったとき。無色だったその頭は変色を開始した。
一言でいうならばそれは極彩色。これ程までに豊かな色彩は、一生を通しても青年は見たことがなく、代わる代わるの色調は目を奪うには充分すぎるほど。
……だが。
「さっぱりだな。腹が減っているのか、それとも怪我か? しかし傷が見当たらん」
目の前の妖の意図が分からない。
しかし倒れている以上は何かに瀕しているのは間違いなく、先の変色は助けを求めてのことだろうと青年は解釈する。
だが妖の言葉は皆目分からぬ故、状態から察する他ない。
ならば、どうする?
「来るか?」
青年は手を伸ばした。
言葉が通じずとも良い、この手を払われたとしても当然だ、ましてや次に瞼を閉じたときには首が地についているかもしれん。
相手は人知の理外にある手合い。ならば己を、相手を信じ。一つの意思を形にするだけ。
この手を取るか、否か。
試すのだ。例え心に刃を通されるのだとしても。
「……そうか」
青年は笑った。
伸ばされた手に、そっと置かれた震える鋏。
恐る恐る伸ばされたものがだ、その刃は開かれず、ただ鞘に納めるが如く預けられた。
──夜空に浮かぶは朧月。星月の標が照らすは散る桜。
されど人と妖は実を成らす。
そう、これは人と妖の出会いの語り。
世に忍ぶ、誰かと何かの物語。