南京の商人アヤメ / feat.南アヤメ
──彼はあるものの商人だ。
パソコンが置かれた一室。
外が描かれた窓はもちろん、どの扉も家具も、そして飾られた六枚花弁の南京あやめも。変わったものはない。
そんな特別なことがない部屋で、彼は──南アヤメは静かに質の良さそうな赤い椅子に座っていた。
私服であろう濃淡で柄を別けた赤紫色のパーカーを羽織り、胸元にはネックレスとして下げられた鍵が一つ。
そして足を組んでくつろいでいる彼の手元には、一冊の本。
自身の瞳の色と同系列。マゼンタのように赤く熱い絵柄で書かれたそれに、アヤメは卓球のラリーのごとき内容の応酬を感じ取っては、のめり込んでいた。
その瞳に灼熱が宿る……
それほどまでに没入していたところで、パソコンの隣に置かれた携帯電話が鳴動した。
アヤメは一瞬、顔をしかめはしたもののパタンと本を閉じ、早く取ってと鳴き始めた携帯に手を伸ばす。
ツーコールに達する前に取られる電話。つながったと同時に放たれた彼の声は、花々しく明るいものだった。
「はい、南アヤメです。……大変お世話になっております! はい。はいそうです。ええ、今からですか? かしこまりました。では、今から向かいますので待ち合わせ場所は……。はい。では、失礼いたします」
きっと商談の話が来たのだろう。
切った電話をテーブルの上に置き、花開かれた明かりを目に宿した彼は、いそいそと衣服を仕事の物へと変えていく。
ピンクのボーダー柄のシャツ、白のベストにスラックス。
鍵穴のワンポイトが入った黄色系のネクタイをピシッと決め、ネクタイピンを付けたところで、アヤメは準備の手を一旦止めた。
「おっと。今はこっちじゃない」
それはいつもの手癖で付けられた、ネクタイピンの位置。
自宅にいる際には左側で付けているが、今からは外に行くのだから正しい位置に……右側に付けなければいけない。
ササっとネクタイピンの位置を変え、鏡を使って髪や衣服の細かい身だしなみを整えた彼は、そのまま玄関へ向かわずにある扉へと足を向ける。
何も変わらない。
そう。彼にとっては何も変わらない、商人として大切な部屋の扉に。
「それじゃあみんな。行ってくるね!」
彼の笑顔は宙にあやめの花が散るほど、まぶしく清々しいものだった。
この明るさに嘘はなく、そのまま玄関へと向かう姿に迷いも曇りもない。
そうしてガチャンと玄関の鍵は閉められた。
遠ざかる靴の音を聞きながら、アヤメの無い部屋を残して。